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永遠のつがい 2

 久しぶりだ。  明るい海を泳ぐのは。  けれど、まぶしくないことに驚いて喜んでいられる余裕はネロにはなかった。 「シェルッ! どこだっ!」  まだ遠くへは行ってないはず。  あんなにボロボロの尾びれだ。  泳げるスピードは知れている。  ネロの尾びれなら充分追いつける。  そう思っていたのに、力いっぱい尾びれを蹴っても、ちっとも前に進まない。   (……チッ。身体がなまってやがる!)  ずっと動いてなかったせいだ。  泳ぎづらい。自分の身体じゃないみたいだ。  尾びれがフヤけたクラゲになったみたいで、どんなに水を蹴っても、いつもみたいな手ごたえがない。 「クソッ!」  それに、焦る理由はもうひとつある。   (シェルの匂いがわかんねぇ)  あの甘い匂いがしなくなったせいだ。  さっき抱きしめたシェルからは、あたりの波と同じ匂いしかしなかった。  口に残っている苦みで鼻が利かないのもある。  サンゴの森を泳ぎぬけて、目の前にひろがる真っ白な砂原のどっちへシェルが向かったのか、必死に目を凝らして。 「……なんだ、アレ」  ネロの視線がとまった。  砂原の一部が、不思議なほどかがやいて見える。  ふたりが棲んでいたサンゴの森は、昼になると木漏れ日が降り注いで、砂のうえに光の道ができる。  ちょうどそんな感じで、頭上の波間からさす光が砂を黄金色にかがやかせて、細い道ができていた。行くべき波間を陽の光が照らしているように。光の道のむこうは岩場だ。  その黄金色の陽射しのなかに、ネロはちいさく光るものをとらえた。  泳ぎよってみると、コロンと丸い、透きとおった硝子玉。  涙だ。 「シェル!」  砂を舞いあげて、ネロは力いっぱい尾びれを蹴った。      岩場の奥。  ひんやりと寂しい暗がりに、ネロはとうとう、探していた姿を見つけた。  大きな岩の下の、ほそい割れ目。  その隙間にはさまって、灰色の人魚がうずくまっている。  日陰になっていて暗いはずなのに。  ネロの目には、その岩陰だけが、なぜか光がさしこんでいるように明るくかがやいて見えた。 「見つけ、たっ……!」  荒く水を吐きながら岩陰をのぞきこんだネロに、尾びれをかかえて丸まっていた人魚がハッと顔をあげた。  青い目がネロを見上げてゆらゆらして、その目から大粒の涙がポロポロこぼれ落ち、灰色の尾びれを転がっていった。  はじめて会ったときも、彼はこんなふうに泣いていた。 「出てこい、シェル」  ネロが手をのばしたら、その手をすり抜けて、シェルが岩陰を飛び出して逃げていこうとしたから。  その身体をつかまえて、力いっぱい抱きしめた。 「シェル!」 「……っ!」    シェルが叫んだ。  けれどその叫びは声にならず、大きくひらいた口から銀色の泡を吐き出しただけ。  心臓がギリギリ軋んだ。  ネロの腕の中でシェルが尾びれをくねらせて暴れるのを、ありったけの力で抱きしめて、岩壁に押しつけて。泣きながら泡を吐き出しているシェルの口を、ネロは自分の唇でおおった。  そっと。  声にならないシェルの叫びを飲みこむように。  落ち着かせるように尾びれを撫でて、深い口づけで押さえこむ。    やがて、シェルは抵抗をやめた。  ネロの背中に腕をまわして、ぎゅっと抱きついて、ネロの舌にやわらかい舌をそわせてきた。  どれくらい、そうしていたのか。  しばらくして、ネロはゆっくり唇をはなし、シェルを見つめた。  ほんのり頬を赤くして、うるんだ目でネロを見上げて、シェルが名残惜しそうにちいさな泡を吐いた。 「落ち着いたか?」  目をふせて、シェルがちいさくうなずいた。   「で? なんでこんなことした?」  わざと険しい顔をして、にらみつけてやった。  シェルを犠牲にして。  俺だけが助かって。  それで俺が喜ぶって、シェルは本気で思ってるのか?   「お前、俺のなにを見てたんだよ」  シェルがちいさく首をふった。  ネロを見つめて、ひらいた口から小さな泡を吐いて、また悲しそうに首をふった。  その姿が痛々しくて、無性に腹が立ったから。わざとムッとした顔をつくって、シェルのおでこに自分のおでこをつけて、青い目をのぞきこんでやった。 「……俺のこと、イヤになったか?」  シェルが目を見開いて、大きく首をふった。  叫ぼうとした口から大きな泡を吐き出した。 「じゃあ、なんで逃げるんだよ。突然いなくなって、突然帰ってきて、サヨナラだ? 俺に飽きたんならそう言えよ。赤い尾びれのアイツのがよくなったって」 『――ちがうっ!』 「ならなんで逃げた!」 『僕、ただ……自分が……!』  シェルが勢いよく首をふって。  それから、青い目を丸くして、驚いた顔でネロを見あげた。 『どうして……僕の考えてる……わかるの?』  どうして?  ネロもハッとして、シェルをみつめた。 「お前、声出せるんじゃねえか」 (なんだよ……)  ホッとして、抱きしめたシェルの肩に崩れ落ちた。  びっくりさせやがって。  俺、ホントに。自分が許せなくて、どうにかなっちまいそうだったのに。  シェルが青い目をますます丸くして、首をふった。 『そんなはず……僕……もうしゃべれない……』 「は?」  今度はネロが首をかしげた。  たしかに、シェルの声はどこかおかしい。  洞窟の奥から響いてくるような、やけに反響した、奇妙な声。くぐもっていて、とぎれとぎれで、耳を澄ませていないと波にかき消えてしまいそうな。  シェルがハッとして、大きな目がきらっと光った。  チカラアルコトバ。  不思議な声が、そんなふうにつぶやいたように聞こえた。  まただ。  シェルはときどき、よくわからないことを言う。  けど、そんなことはどうでもいい。 「で? なんで逃げた?」  じっとのぞきこんだら、シェルが気まずそうに目をそらした。  その目を追いかけて、のぞきこんでやる。  シェルがあきらめたように、ちいさな泡を吐いた。 『僕……会ったんだ』 「だれに?」 『最果ての海の……』 「賢者?」  シェルがちいさくうなずいた。  その不思議な声にも慣れてきて、注意して耳をかたむければネロもちゃんと聞き取れるようになってきた。 「おとぎ話だろ? 実在しねぇよ、魔法使いなんて」 『僕も……そう思ってた。ねえ、ネロ。この海は、僕たちが知っているよりずっと不思議な場所なのかも』 「会ったのか? ほんとに?」 『洞窟の奥に囚われて、この海とおなじくらい古い知識を溜めこんで砕けそうになっている貝殻みたいな人魚だった』 「化石寸前のジジイってこと?」 『どうかな』  ふふっとちいさく笑って。  シェルが目をふせた。苦しそうに、自嘲するように。 『彼の薬にはね、対価が必要なんだ』 (対価、ね)  胸の底が冷たくなった。  イヤな予感しかしねえ。   『いいと思ったんだ、声くらい。君を助けられるなら。どうせ僕は泣いてばかりで、まともにしゃべれないんだし』  シェルの白い顔にうかんだ自嘲が深くなった。  その痩せた身体を抱きしめる腕に、ネロは力をこめた。 『だけど、君の顔をみて、気づいちゃった。僕はもう、本当に、泣くことしかできなくなってしまったんだって。君はっ、聞いてくれたのにっ。いつでも。僕の、言葉をっ』  シェルの白い頬をつたって、涙がポロポロ落ちていく。   『僕がっ……どんなに、みっともなくっ……泣いてても。なのに僕はっ……』 「シェル」  シェルの顔を自分の胸におしつけて、震えている痩せた身体を、力いっぱい抱きしめてやった。涙でいっぱいの貝殻の底からシェルが必死にひろいあげてくる言葉を、じっと待った。 『僕はっ、いちばんみじめな、僕になってしまった……泣くだけで、なにもっ、できない……君の名前も、好きって言ってくれた歌も……なにもっ……僕が、いちばんキライだった、なにもできない、自分にっ……』 (んなことねえよ)    なんで、わかんねえんだよ。  そばにいて、笑っていてくれるだけでいいって、俺は何度も言ってんのに。 『だからっ……もう、君のそばにっ、いられない』  「それで逃げたって?」  腕の中でちいさくうなずいたシェルを、ぎゅっと抱きしめて。   「……なら、なんの問題もねぇな」   どう言えば、伝わる?  迷いながら言葉をさがした。  ふざけんな! そう怒鳴り散らしたくなるのを必死におさえて。 「俺には、シェルの声が聞こえてる。どんな仕組みか知らねえけど」 『それは、もしかしたら古の』  出た。  イニシエのナンチャラ。  よくわかんねえが、シェルが言うならそうなんだろう。  けど、そんなもんはどうでもいいんだ。 「今までどおり、俺はシェルと話せる。何も変わってない。だろ?」 『でも、僕っ、間に合わなかった』  シェルが顔をあげて、なぜか悲しそうにネロを見つめて。  白い手で、ネロのまぶたにそっとふれた。

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