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永遠のつがい 1

   真っ白な水のなか。  目の前を、ちいさな人魚が泳いでいた。  真珠色の髪を波にゆらして。  陽の光をあびて、白銀の尾びれをきらめかせて。  ふっくらした頬にえくぼを浮かべた、まぶしい笑顔。  子どもの頃のシェルだ。 ――ネロ、こっち!  シェルがふりかえって、ちいさな手をのばしてきた。  その手を掴もうとのばしたネロの手も、同じくらいちっぽけで。 ――競争しよう、あそこまで!  ネロの手を引っぱてシェルが見上げたのは、真っ青な海面。  真昼の陽射しが溶けた波間へ、無数の泡がきらきら光ってのぼっていく。    幼い頃の夢だった。  もう、帰ってこない光景。  ネロの目が見ることは、もう二度とない――         『――ネロ』    ふっと、ネロは目を覚ました。  シェルの声が聞こえた気がした。   (そんなはず、ねぇのに)    俺は、捨てられたんだ。  吸いこんだ水に甘い匂いがしなくて、無意識に期待していたんだと気づいて、自分でも笑えてきた。   (カッコ悪ィ)  俺って、こんなに未練がましかったんだな。  また眠りに落ちていこうとして。ネロは突然、激しく咳込んだ。 (なん、だ……?)    口に何かを流しこまれている。  ドロリと粘り気があって、強烈な苦みで舌が痺れて、喉が灼ける。  口を閉じようとしたけれど、何かに口をふさがれていた。やわらかい……唇。  誰かがネロの顔を押さえつけて、苦いドロリとした何かを口移しで押しこんでくる。 (やめ、ろ……くそっ……)    飲み下した苦みが喉をとおって腹へ落ちた途端、胃が冷たくなって、次の瞬間、燃えるような灼熱が一気に身体中にひろがっていった。頭のてっぺんから尾びれの先まで、急激に血がめぐりはじめた。  ハッと、ネロは目を見開いた。 (見える……)    真っ白だった世界に、一気に輪郭がもどってきていた。  影が濃くなって、鮮やかな色がひろがっていく。  ネロをのぞきこんでいる人魚の顔が見えた。  腕にネロを抱えて、心配そうに眉をよせて、長い睫毛の下の青い目が、今にも泣きだしそうにゆれている。   「シェル」  そう、つぶやいたものの。   (だよな……?)     ネロは自分の目を疑った。  まだ、夢を見ているんじゃないかと。  シェルの髪は真珠色にかがやいていたのに。目の前の人魚の髪は灰色にくすんでいる。尾びれもボロボロで、ウロコはあちこち剥げ落ちて、途中まで染まっていた薄紅色もすっかり抜けて、死骸のように青白い。それに、匂いがちがう。あの甘ったるい、本能をざわつかせる匂いが、目の前の人魚からはまったくしない。  戸惑ったまま見上げていたら。  灰色の人魚が、ちいさく笑った。  ネロを見つめて、嬉しそうに目を細めて。  その目がゆれて、硝子玉のような涙がこぼれ落ちた。ぼんやりした印象のなかで、その青い目だけが、真昼の浅瀬のように鮮やかな色をしていて――子どもの頃、はじめてシェルを岩陰から引っぱり出したときの記憶がよみがえってきた。   「シェル? 何があった?」   (なんでそんなに、ボロボロなんだよ)  その尾びれはどうした。  その匂いも。 (お前、赤い尾びれのアイツのところに行ったんじゃなかったのか……?)  シェルが口をひらいた。  何かを言いかけたらしかった。  けれど、その口から出てきたのは、ちいさな泡だけだった。  その泡を見て、シェルがハッと目を見開いた。  何かを思い出したように顔を引きつらせ、痩せたボロボロの手で喉をおさえ、唇を噛んで、苦しそうに顔をゆがめて。  シェルが顔をそむけた。ふせた目から涙がこぼれて、ネロの胸の上を転がっていった。 「シェル? どうした?」  思わずシェルに手をのばしていた。 (……動く)  ずっと寝たきりだったせいか、巨大な錨をくくりつけたみたいに重たいけれど。身体が動く。  シェルの頬に手をのばして、涙をぬぐってやって。肩をつかんで、シェルを抱き寄せた。 「どうした、シェル? 何があった? 教えてくれ」  ネロの胸に顔をうずめて、シェルが首をふった。  なにも言わず、ただ首をふるシェルの目から、ポロポロ涙があふれてくる。  シェルのボサボサの髪を撫でて、震えている背中をそっと叩いてやって。ネロはふと、違和感に気づいた。 「シェル?」  シェルが言葉に詰まることも、そのせいで泣いてしまうことも、いままで何度もあった。    ――――貝殻が小さいせいだ。  そう、シェルはいつも悔しがる。  だから何でもないことでも、すぐに気持ちがあふれて涙になってしまうんだと。  シェルの貝殻がのびのび育てなかった理由は、ネロもなんとなく察している。  「おばあさま」だ。  窮屈な檻にシェルを閉じこめて、シェルをがんじがらめにしていた、ムカつく人魚。  そのせいで、シェルは自分を嫌っている。  自分を認められなくて、自分には大切にされる価値がないと思っている。ネロがどんなに愛を伝えても、シェルが悲しそうな顔をするのは、そのせい。 (……クソが)  でも。  今日のシェルの泣き方は、なんだかおかしい。  いつものシェルなら、泣いてしまう自分が悔しくて、必死に何かを伝えようとして、言葉になりきらない嗚咽をもらすのに。  ネロの腕の中のシェルは、ただ首をふって、静かに涙をこぼし続けている。 「なあ、シェル。……声、どうした?」  シェルの身体がビクッとはねた。 「喉、痛いのか?」    顔をあげて。  シェルがじっと、ネロを見つめた。  その顔が、一瞬、苦しそうに歪んで。  次の瞬間、ふわっと、シェルが笑った。笑ったまま、小さく首をふった。何も言わずに、満足そうに。  ドキッとした。  胃の底がすっと冷えた。 (……ちがう)  あの歌だ。  思い出せ。  子どもの頃、シェルと見つけた巻貝が歌っていた歌。  人間になった人魚の歌。  あれは、なんと言っていた? (思い出せ)  あの人魚は陸へ行くために足を手に入れた。  けど、タダじゃない。  薬には対価が必要だった。  最果ての海。  不思議な薬をつくる、海の賢者――  視線をやると、シェルの尾びれのそばの砂に、見慣れない硝子瓶が転がっていた。栓があいている。空っぽだ。中身はどこへいった?  口のなかに残っている強烈な苦みで、まだ舌がビリビリする。いま、俺が飲んだのは……   「……お前、何したんだ?」    シェルがにっこり笑って、ネロの頬にそっと触れた。  目を細めて、愛おしそうに。  痩せた腕でネロを抱きしめて、苦みの残る唇をネロの唇に重ねて。  唇をはなすと、シェルは尾びれをくねらせて、ネロの腕のなかから抜け出した。  つかまえようとするネロの手を、痩せた身体がすり抜けていく。  明るい洞の入り口で、シェルが一瞬ふりかえった。  ネロを見つめ、ぱくぱくさせた口から銀色の泡を吐いて、シェルが笑った。  灰色にくすんだ尾びれをやわらかく振った。  それにどんな意味があるのか、ネロはもう知っている。  おなじだ、あの時と。  ――さよなら、ネロ。  海草のカーテンをゆらして、灰色の尾びれが水を蹴る。  明るい陽射しのむこうへ、白い背中が泳いでいく。 「待てよ、シェルッ!」  あわてて手をのばして、シェルの尾びれを追いかけようとしたのに。  動けなくなった。  身体は動く。  だけど、心が迷っている。 (……俺のせいだ)  シェルは対価にしちまったんだ、自分の声を。  もしかしたら、声以外も。 (俺を、助けるために)  噛んだ唇から血の味がした。 「クソッ!」 (俺が、手をのばしたから)  谷底から見上げているだけで充分だったのに。  闇の底からただ憧れていればよかったのに。  なのに俺は、手をのばした。  浅瀬の光に。  海面よりもまぶしくかがやく、真っ白なシェルに。 (谷底の、バケモンのくせに)  どうしようもねえ、身の程知らずだ。  目が見えなくなったのも、ナマコみてえに転がっていることしかできなくなったのも、自業自得。薄汚ねえ谷底の業を背負うのは、谷底の闇から生まれた俺だけで充分だったのに。  なのに俺は、シェルをほしがった。  俺には強すぎる、まぶしい光を、俺のものにしようとした。  俺が浅瀬にこなければ、シェルはシェルのままでいられたのに。 「俺の、せいだ……」  はやく追いかけなければ。  また、あの日と同じことになる。  この森でケンカ別れした、あの時と。  なのに、動けなかった。  尾びれが動かない。力が入らない。  だって、俺はいないほうがいい……俺なんかいないほうが、シェルはきっとしあわせに…… 「――――ちがうだろっ!」  ネロは思いっきり、自分の顔を引っぱたいた。  砂を巻きあげて、尾びれを蹴った。   「俺が、シェルといたいんだ!」  あのとき学んだはずだ。  勝手にシェルの心を決めつけて、ひとりで谷底に帰って、どれだけ後悔した?  あの地獄を、また繰り返すつもりか? 「まだ、シェルの気持ちを聞いてねえ」  シェルがどう思ってるのか。  シェルがどうしたいのか。  本人に確かめもせず決めつけて、悲劇ぶるのはいい加減にしろ!   「シェルッ! 俺はもう、間違えねえからな!」  海草のカーテンを乱暴にはねとばして、明るい陽射しの中へ飛び出して。  ネロは力いっぱい尾びれを蹴って、シェルのあとを追いかけた。            

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