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愛の代償 3
ネロの体調は、どんどん悪化していった。
頭の中でガチャガチャ貝殻を鳴らされるような頭痛に、身体の内側から裏返しになりそうな吐き気。
けど、そんなものは何でもない。
気を張っていれば耐えられるし、夜になればラクになる。
ネロが恐れていたのは、ひとつだけ。
――視界が、白すぎる。
それにはじめて気づいたのは、森で暮らしはじめて少したった頃。
(明るすぎるせいだ)
そう考えて、最初は気にもとめなかった。
梢から降る月光は、ひっかいたような三日月でも、ネロの目には突き刺さるように明るい。
砂を白く照らして、木立や岩の影をくっきり浮かびあがらせる。
けれどその影が、だんだん青白くぼやけて見えはじめた。すべてがぼんやり発光して、輪郭があいまいになって、腕の中で眠るシェルのまぶしい姿が、月明かりに溶けてにじんで見える。夜を重ねるごとに、にじんだシェルの輪郭はますます白くぼやけてきて、今ではもう、シェルの表情すら、はっきりわからなくなっていた。
(もし、目が見えなくなったら?)
二度と、シェルの笑顔が見られなくなる。
不安で押し潰されそうだった。
シェルの怒った顔も、からかわれて拗ねた顔も、硝子玉の涙を流す泣き顔も。波にゆれる真珠色の髪も、木漏れ日をはじいて水を蹴る、ほのかに薄紅色にそまった白銀の尾びれも、なにもかも。
恐ろしかった。
でも、後悔はしていない。
(俺が望んだんだ)
シェルのそばに居ることを。
シェルが笑っていてくれるなら、俺は、俺のすべてを喜んで差し出す。
その気持ちはまったく変わってない。砂粒ひとつの後悔だって、しちゃいねえ。
(だけど)
まだ、シェルのそばにいたい。
1日でも長く。
シェルの姿を、この目で見ていたいんだ……
視界がぼやけていくほど、ネロは身体に力が入らなくなってきた。
起き上がるのもつらくなって、夜になっても砂のうえにぐったり寝転んで、白っぽい世界をぼんやり眺めている。
海草のカーテンをゆらしてシェルが入ってくる気配がした。
投げ出したままの腕の中にシェルのなめらかな身体が潜りこんできたけれど、ネロにはもう、抱きしめる力も残っていない。目を細めて、ちいさく笑うことしかできなかった。
甘い匂いが鼻をかすめた。
シェルがまとう匂いが、強くなってきていた。
(満月だ)
満月がくる。
シェルは今度こそ変わるんだろうか。
前回のシェルのつらそうな姿を思い出した。
あの苦しみを、シェルはまた耐えなきゃなんねぇのか。
(今度は、ひとりで)
前回のように抱きしめて支えてやることは、もうネロにはできない。不甲斐なくて、悔しくて、怒りのこもった指先が、ほんの少しだけ砂を掻いた。
……けど。
(もう、俺の役目じゃないのかもな)
最近のシェルは外出が多くなった。
朝早くから出かけていって、夜遅くまで戻ってこない。一晩中帰ってこないこともある。
「シェル」
シェルのやわらかい髪に顔をうずめて。
甘い匂いのするそこから、別のにおいを感じた。胸がざわつくにおい。背びれが冷たくなった。
「どこ、行ってた?」
前にも、シェルからこのにおいがした。
けど、今日のにおいは強すぎる。気のせいだと、自分を騙しきれないくらい。
腕の中で、シェルの身体がこわばった。
シェルの尾びれがゆれている。
必死に言葉をさがしているんだ。
「俺、このにおい知ってる」
白くにごった視界に、夕陽みたいに赤い尾びれがひるがえった。
「逢ったのか、アイツに」
シェルがちいさく水を飲んだ。
「……偶然だよ。話をした。ちょっとだけだよ、ほんとに」
なんでもなさそうな声で、今日食べたイワシは骨が多かったとか、そんなどうでもいいことを話すような口調だったけれど。
演技だってことは、ネロにもわかった。
「……そっか」
心が沈んでいった。
谷底の闇より、ずっと深く。
なあ、シェル。
ウソだろ。
「大丈夫だったか?」
「心配しないで。何もされてない」
「そっか」
抱きついてくるシェルの身体を抱きしめたくて。
なのに、力が入らなくて。
シェルの甘い匂いに混じる余計なものを忘れたくて、指先でそっと砂を掻いた。
「……ロ……ネロ?」
ほとんど真っ白になった視界のむこうで、シェルの声が呼んでいた。
白く明るい影が、ネロをのぞきこんでいた。
「ネロ、覚えてる? 子どもの頃にした約束」
約束。
ああ、覚えてるよ。
「さいはての、うみ……だろ」
かすれた喉の奥からそれだけ絞り出すので、今のネロには精一杯だった。
――連れてってやるよ、俺が。
そう約束したんだ。
「いく、か……」
今から。
シェルの顔はもう、白くぼんやりした影にしか見えないけれど。波が甘くゆれたから、首をふったのがわかった。泣きそうな顔をしているのも。
「最果ての海には、海の賢者がいるんだよ」
「ああ」
「色んな薬をつくれるんだ」
「そう、だな」
「ネロの目に効く薬を、作ってくれるかも」
シェルは興奮して、尾びれをゆらしているらしい。
波が甘く匂っている。
「あのね、手がかりを見つけたんだ。見つけ出せるかもしれない」
「シェル……?」
(なにを言ってるんだ、シェルは)
ネロには理解できなかった。
最果ての海も、賢者も。
陸のドラゴンや魔法使いとおなじ、子どもが夢中になるおとぎ話。
現実には存在しないって、シェルも知ってるはずなのに。
「ネロ」
ネロがぐったり砂に投げだしたままの手に、シェルのやわらかい手がふれた。
「しばらく君をひとりにするけど、待っててくれる?」
「なん、で」
(いくなよ、シェル)
古の人魚の力がどうだとか、古い巻貝の歌がどうだとか。
シェルが語る話のすべてが、ネロには言い訳にしか聞こえなかった。
「俺は、このままでいい。シェルがいれば、それで」
「ネロ」
(ああ、シェルが泣きそうだ)
顔が見えなくても、声でわかった。
うつむいたシェルの青い目がゆれて、硝子玉のような涙がコロコロ砂のうえを転がっていくのが、はっきり見える気がした。
「……ごめん、ネロ」
シェルが顔をあげる気配がした。
「僕は、このままじゃいやだ」
きっぱりした声だった。
波がゆれて、甘い匂いがふわっとひろがって、ネロの手をつかんでいたやわらかい手がほどけていく。追いすがりたいのに、ネロの手は、もう指先すら動かない。
シェルの気配がしなくなった。
その夜、シェルは帰ってこなかった。
次の日も。
その次の日も。
次の、次の日も。
真っ白い世界にぽつんと横たわったまま。
ネロはとうとう、あきらめた。
(シェルのそばに、いたかったから)
だから俺は、ここで暮らすことを選んだのに。
そっか。
(……俺、捨てられたんだ)
薬とか、最果ての海とか。
ぜんぶ口実。
シェルはきれいな人魚だ。狙ってるオスはたくさんいる。俺はもう、泣いているシェルを抱きしめることすらできない。こんな俺より、シェルにふさわしいヤツは山ほどいる。
(いいよ、シェル)
しょーがねえな。
おまえが、幸せになれるなら。
おまえが選んだ相手が、あの、赤い尾びれのアイツだって。
だけどさ、シェル。
俺は、ほんとに。
(シェルのそばに、いられるだけで……)
ただ、それだけで。
ほんとに、よかったんだ………――――――
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