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第1話 月光花の秘密
「……秘密を知られたら、お前も怖いアルファに拐われてしまうからね」
嘲る声と共に視界が回転して、サイラスの体が落ちて行く。
どんどん迫る地上に、ギュッと目を閉じた時。
力強い腕が落下した体を受け止めた。
「何をやってるんですか! 師匠!」
夕暮れが山々の稜線を赤く染める頃、嘆きの森から帰還した騎士の一行は、人間の住む領域に戻ってきた安心感で、和やかな表情を浮かべた。
「今日はここで解散。明日は休みだ。みんな、今夜は飲み過ぎるなよ」
砕けた口調で部下に指示した男は、この辺境警備隊の隊長であるサイラスだ。
鍛え上げられた体の大柄な騎士たちの中で、小柄で華奢な体躯は珍しい。
夕日を映して赤く輝く金の髪と、新緑のような翡翠色の瞳も、ひときわ目を引いた。
「サイラス隊長も一緒に飲みましょうよ」
「俺らばかりじゃむさ苦しいんで。隊長みたいな美人さんと一緒がいいっす」
「お、隊長を口説くのか? ヴァルトに殺されるぞ?」
年若い部下たちが冗談とも本気とも言える言葉でサイラスを誘ってくる。
「悪いな。まだやる事があるんだ。また誘ってくれ」
部下達が各々町に向かって繰り出していく姿を、サイラスはほほえましそうに見送る。
「詰め所に戻って報告を頼む」
「はい」
サイラスは隣に立つ警備隊の副隊長を務めている男に、今回の魔物討伐任務の調査報告を頼むと、一人元来た道を戻っていった。
日没を迎えた嘆きの森は、人ならざる魔物の領域で、経験豊富な騎士であっても一人で向かうには危険な場所だ。
静まりかえった森に、時折不気味な生き物の鳴き声が響く。
木々が揺れる音にさえ神経が削られて、サイラスは手持ちの魔石を一つ砕くと、魔物除けのかがり火を召喚した。
ふわふわと漂う光を頼りに、暗い森を進んでいく。
記憶を頼りに道を外れ、木々をかき分け道なき道を進んでいく。
そうして目の前に現れた高い崖を前に、足を止めた。
見上げるほど高い絶壁に月の光に照らされて、小さく可憐な白い花が咲いている。
月光花と呼ばれるキク科の花は、とても希少価値の高い薬草だった。
『月光花の咲いている場所は、誰にも教えてはいけないよ』
この可憐な花の姿を見つける度、サイラスの脳裏に遠い記憶が蘇る。
『お母様とサイラスだけの秘密だ』
この花がオメガの抑制剤の原料になると、幼いサイラスに教えたのは母だった。
月光花は月の光の下でしか花を咲かせず、夜でなければ見つける事が出来ないので、採取が難しい。
サイラスは慣れた手つきでゴツゴツとした崖を登っていく。
あと少し、あと少しと手を伸ばし、月光花を掴んだ時だった。
「月光花の秘密を知られたら、お前も怖いアルファに拐われてしまうからね」
突然耳元で聞こえた母だったはずの声が、かん高い嘲るような声に変わる。
森の精霊が気まぐれで惑わせに来たのだと、気づいた時だった。
力を入れて踏ん張った拍子に、足元の岩が崩れてバランスを崩し、サイラスの体はぐらりと大きく傾く。
視界が回転して宙に投げ出されたと思ったときには、地表に向かって落下し始めていた。
とっさに体を浮かそうと風魔法を詠唱しようとしたが、間に合うはずもない。
このまましたたかに体を打ち付けられる事を覚悟して、ギュッと目を閉じた時だった。
ドサリと落ちた体は、力強い腕に抱きとめられる。
「何をやってるんですか! 師匠!」
強い口調で責め立てられてサイラスが目を開けると、眉間にしわを寄せ燃え盛る炎のような赤い瞳をした黒髪の男が、不機嫌そうに睨んでいた。
よほど急いで駆けてきたのか、男が被っていたフードは脱げ、黒髪の頭には大きな狼の耳がピンと立っている。
背後から覗く大きな尻尾が、怒りをあらわに揺れていて、サイラスは罰が悪そうに苦笑した。
「悪い」
「俺が間に合わなかったら、どうするつもりだったんですか! 怪我どころじゃ済みませんよ!」
美しく整った顔を露骨に歪ませて、サイラスを抱えた獣人の男は叱責した。
「完全に油断してた…………本当に悪かった。助かったよ。ありがとう、ヴァルト」
サイラスに感謝されて、ようやく溜飲を下げたヴァルトがサイラスを解放する。
やっと地面に足がつき、サイラスはほっと安堵した。
「それにしても、よくここが分かったな? お前も先に帰ったと思っていたのに」
「師匠が一人で嘆きの森に戻ったと聞いたので。心配になって探しに来たんです。この森は昼間でも魔物が出るのに、夜に一人で来るなんて……」
呆れたように呟くヴァルトは、サイラスが手に握った月光花を見つけて眉間にしわを寄せた。
「また、頼まれたんですか? オメガの抑制剤なら、市販品があるでしょう?」
「こんな辺鄙な田舎町じゃ、流通量が少ないんだ。それに…………高価すぎて買えない人もいる。俺が作れば安く提供出来るから」
「そんなだから、器用貧乏なんて言われるんですよ。薬師の真似事も良いですけれど、本業は騎士だってこと忘れないでくださいよ」
七歳も年下の騎士に言われて、サイラスは困ったように肩をすくめた。
「今夜はもう帰りましょう。ご自宅まで送りますから」
「そういう事はか弱いご令嬢に言え。もうすぐ三十路のおっさんに言うセリフじゃない」
ヴァルトに促され、呆れながらもサイラスはその隣を歩き出した。
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