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第2話 お前だけは、宝石にならないで

 嘆きの森を抜け、民家の明かりが遠めに確認できる所までくると、サイラスの体から緊張感が抜けた。 「ここまでくればもう大丈夫だ。ヴァルト、お前も疲れただろう。寮に帰れ」  隣を歩くフードを被ったヴァルトにサイラスはそう告げたが、ヴァルトはムスッと顔をしかめただけだった。 「自宅まで送ると言ったはずです」  ヴァルトには何を言っても聞きそうにないと諦めて、サイラスは仕方がなく送られる事にした。  サイラスの自宅は、辺境騎士団の警備隊本部があるガーディアンウォール辺境伯の居城よりも、少し離れた町外れにあった。  三階建ての小さな石壁の建物の二階を、サイラスは自宅として借りている。  階段を上がり二階にある自宅の前までくると、サイラスは立ち止まった。 「寄ってくか?」  サイラスは振り返ると、ヴァルトに声をかける。  ヴァルトは驚いたのか、黒い狼の耳がピンと立ち上がった。 「え? 良いんですか?」  信じられないと言いたげなヴァルトの表情に、サイラスは思わず顔をほころばせる。 「腹減っただろう? 助けて貰ったお礼だ。晩飯くらいご馳走するよ」  サイラスの申し出がよほど嬉しいのか、ヴァルトの狼の耳はへにょりと後ろに倒され、背後の尻尾がブンブンと激しく揺れていた。  (ヴァルトは相変わらず、気持ちが分かりやすいな)  すました顔をしているくせに、感情がダダ漏れのヴァルトの姿は、とても可愛らしい。 「ほら、入るぞ」  尻尾をブンブン振り回すヴァルトを促すと、サイラスは自宅のドアを開けた。    自宅に入ると、ヴァルトは興味深そうに部屋中を眺めていた。 「散らかってるけど気にせず、適当に座っててくれ」  そう、ヴァルトに声をかけて、サイラスはキッチンへと移動する。  ありあわせの物しかないが、適当に腹に溜まりそうな具材をパンに挟み込む。  男の手料理なんてこんなものだと自分で納得して、サイラスは温かいスープと一緒にトレーに乗せた。 「待たせたな」  運んできたトレーを差し出すと、ヴァルトは嬉しそうに受け取った。 「ありがとうございます」 「おう、遠慮なく食え」  サイラスはキッチンに戻ると、自分の食事をトレーに乗せ、ヴァルトの元へ戻る。  向かい側のソファーに座ったとき、不意にヴァルトが口を開いた。 「師匠がこの家に引っ越してから、初めてです。部屋に入れて貰えたのは」 「そうだったか?」 「はい。師匠が警備隊の寮を出てから、一度も中に入れて貰えませんでしたから」  ヴァルトはニコニコと微笑みながらも、その言葉はどこか恨み節に聞こえる。 「入れてやったんだから良いだろ?」  サイラスは苦笑しながら、パンを頬張った。  食事を終えると、部屋の中を眺めていたヴァルトが口を開く。 「随分いろんな道具があるんですね。まるで薬師の調剤工房のようだ」  部屋中ところ狭しと置かれた道具類は薬草を煎じるための物で、騎士には縁遠い物ばかりだ。  騎士であるサイラスがこんな道具に囲まれた生活をしているとは、ヴァルトには想像できなかったのだろう。 「もしかして寮を出たのは、オメガの抑制剤を作るためですか?」  鋭い指摘にサイラスは顔色を変える。 「ヴァルト。お前、もう全部食い終わったんだろ? ほら、今夜はさっさと寮に帰って体を休めろ」  急にサイラスはソファーから立ち上がると、ヴァルトを追い立てるように部屋の外へと促す。 「師匠、泊めてくれないんですか?」  玄関ドアの外まで追い出されたヴァルトが、叱られた犬のように縋った目をしていたけれど。 「もう子供じゃないだろ? わがまま言うな」  サイラスはヴァルトを無視してドアを閉めた。  月明かりが差し込む部屋の窓から、そっとサイラスは寮へと戻って行くヴァルトの後ろ姿を見つめていた。  ヴァルトの姿が夜の街並みに消えると、おもむろにサイラスは動き出す。  今日採取してきたばかりの月光花を取り出した。 「火の精霊よ。風の乙女と共に熱風を」  サイラスは詠唱しながら、掌の上に小さな魔法陣を二つ浮かび上がらせた。器用に火と風、二つの魔法陣を重ねると、熱風を作り出す。  熱風で炙られた月光花は、あっという間に水分を失ってしまった。  まるでドライフラワーのように干からびた月光花は、わずかな刺激でポロポロと砕けてしまう。  サイラスは砕けた月光花を慎重に乳鉢へといれると、ゴリゴリとすり潰した。  戸棚から数種類の粉末が入った瓶を取り出すと、次々と乳鉢に加えていく。  チェストベリー、レモンバーベナ、ラズベリーリーフ、桂枝、虎耳草と薬草の粉末を月光花に混ぜ合わせた。  最後に小さく砕いた魔石を入れて、完全にすり潰す。  こうして出来上がった粉薬は、オメガの発情抑制剤だった。  オメガの発情抑制剤を作る度、サイラスの脳裏には遠く離れた王都に住む母親の顔が浮かんだ。   『サイラス、愛しているよ』   「母上…………」  思い出の中の、母の声が蘇る。  サイラスの母親はマイロという名前の男性のオメガだ。  貧しい平民の生まれで、オメガの抑制剤も売っていないような、辺鄙な農村に暮らしていた。   『お母様は王都に来る前は、とても貧しい村に住んでいたんだよ。お店はないから、欲しい物は自分で作るんだ』 『お母様の欲しい物は何だったの?』 『お母様はオメガの発情抑制剤が欲しかったんだ』    自給自足が当たり前の貧しい村で、マイロには市販品のオメガの発情抑制剤を買う金はなく、自力で材料を集め抑制剤を作っていた。   『お母様は悪いアルファに見つからないように、隠れていたんだ。でも見つかってしまった…………』    ここガラハッド王国では、オメガ性を持つ者はアルファ性の子供を産む道具として扱われている。  高価な宝飾品と同じ扱いで、人身売買されていた。  そのためオメガに生まれついた者は、自らの性別を隠している者が多い。  定期的に訪れる発情期を隠さなければ、この国では人間として生きていくのは難しいのだ。  オメガ性の者は発情抑制剤がなければ、まともな生き方が出来ない。  サイラスの母が、父親の武勲の報償として、国王から買い与えられたように。  人攫いの被害者として、生きた宝石になりたくなければ、オメガ性は隠すしかない。   『サイラス、今からサイラスだけに秘密の薬の作り方を教えるから、忘れてはいけないよ。これはお母様とサイラスだけの秘密だ』 『はい、お母様』 『愛してるよ、可愛いサイラス。どうかお前だけは、宝石にならないで』    サイラスにオメガの発情抑制剤の作り方を教えたのは、母のマイロだ。  最後にサイラスがマイロの顔を見たのは、十七年も前の事だった。  十歳で実家を出て以来、母親の近況は長兄であるトリスタンがサイラスに手紙で教えてくれていたので、元気でいると知っている。  それでも時折思い出す母は、別れ際に見た悲しそうな顔だった。  (母上はどうしているだろう?)  オメガの抑制剤を作る度に、サイラスは郷愁に駆られ、胸が張り裂けそうになる。  母の悲しい生い立ちを知っているからこそ、サイラスは器用貧乏と呼ばれても薬師の真似事は止められなかった。  

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