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第1話

第一章  石造りの回廊を抜けると、そこには広い薬草庭園が広がっていた。  朝露を含んだ葉々が、春の陽光を受けて微かに揺れている。  ひと月ぶりの空気は、思ったよりも暖かかった。    王子──ノアリスはそっと息を吐く。  白金の髪が風に揺れ、薄布のローブが小さく音を立てた。  その背後には無表情な護衛と女官が控え、まるで美術品を運ぶような扱いで彼を見守っている。   「……時間は一刻だけです。お気を召されても、これ以上は許されませんよ」  女官の声に頷き、ノアリスは足を進めた。  この庭だけが、彼にとって世界とつながる唯一の場所だった。  花の香り。薬草の匂い。鳥の囀り。  ──そして、塀の向こうから聞こえるざわめき。  それらすべてが、彼には遠い。    そのときだった。  ふと、視線を感じて顔を上げた。    塀の向こう。遠く、使者のために開かれた正門の陰から、ひとりの男が、こちらをじっと見つめていた。  黒衣に金の刺繍。長身で、堂々とした姿。  王子は一瞬、その瞳の深さに息を呑んだ。  エメラルドグリーンの美しい目。  それを際立たせる艶のある黒髪。  相手も、動かず、ただ見ている。  まるで、この世のすべてを見透かすような目で。    ──鼓動が、跳ねた。   「王子様、時間です」  しかし、背後からの声に、身体がびくりと震える。  振り向いたときには、塀の向こうの男の姿はもうなかった。    連れ戻されるように、庭をあとにするノアリスの足元では草花が揺れ、先ほど見つめ合った記憶だけが、胸の奥でまだ燃えていた。  ——その出会いが、彼の運命を変えるとも知らずに。  ◇◇◇  部屋へ戻るまでのあいだ、ノアリスは一言も口をきかなかった。  女官たちは慣れた様子で後に従い、護衛の足音だけが石畳に響く。  それでも、心の奥ではまだ、さきほどの「視線」が焼きついていた。  あの男は、誰だろう。  どうして、目が離せなかったのか。  思い出すのは、ただの顔ではない。  自分を「誰でもない人間」として見ていた、あの真っ直ぐなまなざしだった。    ──あの人は、卵のことなんて、何も知らないのだろうな  産む体であること。  囚われていること。  兄に支配されていること。  全て知らず、ただ一人の『人間』として、見ていた。  そんな幻想を抱いてしまいそうになるほどに、あの視線はまっすぐで、温かくて、そして、力強かった。  ──だが、幻想は所詮幻想だ。  ノアリスは卵を産める体として、この棟に囚われている。  特異な体質だということは、数年前に発覚した。  精を注がれることで体内に存在する子宮に卵が形成され、それは数日で成熟し、彼の体から産み落とされる。  生まれた卵は、人の病を癒し、肉体の弱りを補い、時に死にかけた者さえ生き長らえさせるという。  だが、産み落とした卵の全てが癒しの果実ではない。  一定の確率で、受精した命が宿るのだ。  食べられるものと生命が、同じ殻の中にあるという現実。しかしそれをノアリスは知らない。  誰かを救う奇跡の源が、ノアリスの体から搾り取られているという事実。  それを知る者は、皆、彼を人としてではなく器として扱う。  だからこそ、あの視線だけが──あの短い瞬間だけが──違うように思えた。

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