56 / 91

第56話

 ノアリスの胸の奥に、驚きと同時に小さな疑問が生まれる。  なぜ、カイゼル様は、私にだけ──?  何か特別なことをしたかと聞かれると、何もしていない。  それどころな迷惑ばかりかけて、嫌がられることも多いのに、それでも優しくしてくださるのは、なぜだろう――やっぱり、不思議だった。 「カイゼル様は、どうして……」  呟いた言葉に、イリエントが仄かに笑う。  その笑みに、ノアリスは思わず視線を逸らす。  答えのない問いが、心の奥で静かに、しかし確かに膨らんでいった。 「どうにか、お世継ぎを残していただかないと、この国は陛下の代で閉じてしまいます」 「……」 「ノアリス王子。もし本当に陛下に恩返しをしたいと思うのなら、どうか妾姫様のもとに通い、お子を成すようお伝えいただけませんか?」 「えっ……」  ツキン、と心に痛みが走る。  妾姫のもとへ、カイゼル様が歩む姿が頭に浮かび、遠くへ行ってしまいそうで、思わず首を振った。 「ノアリス王子?」 「……すみません。カイゼル様が嫌だと思うことを、私が勧めることはできません……」 「……国のためでも? それが陛下のためになるとしても?」 「っ……カイゼル様は、私を救ってくださいました。だから、そんな御方が嫌がることを、したくありません……」  それでも、胸の奥に引っかかるものがあった。 本当に心からそう思っているのか――恩人の嫌がることをしたくないのは確かだ。でも同時に、自分自身も嫌だと、心が静かに叫んでいる。 「……そうですか」 「……すみません。折角、相談に乗っていただいたのに」 「いえ……」  イリエントは静かに立ち上がり、軽く一礼した。 「私の方こそ、お力になれずすみません」 「ぁ……」 「ですが、どうかお忘れなきよう。カイゼル様は一国の王であるということを」 「……はい」  一国の王として、その責任を果たさなければならない。  イリエントは強い目でそう言うと、柔らかく微笑み、部屋を後にした。  残された部屋には、わずかな緊張感だけが漂う。  ノアリスは小さく息を吐き、膝の上で両手を揉んだ。  果たして、自分に何ができるのだろう。  彼が好きなように生きながらも、国を揺るがさぬよう手助けできる方法が、あるのだろうか。  そもそも、自分自身が彼の足枷になっているのではないのか。  迷惑ばかりをかけてしまっているから、やむなしに気にかけてくださっているのでは。 「……カイゼル様は、お強い……」  暗い過去も、寂しい思いも、酷く辛い悲しみも、全てを隠して堂々と立つ。  民の信頼も、自らの手で掴み取った、王たる人。 「……私は、きっと、邪魔になる」  ここにいるだけで。  でも、ノアリスには行く宛てもない。  勝手に出ていく権利もない。  そもそも、この暖かく優しい場所から飛び出す勇気すら、持ち合わせていない。 「……情けないな……」  視界が少しずつ滲む。  頬を伝ったぬるい涙が、ポタリと太腿に落ちていった。

ともだちにシェアしよう!