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第62話
初めて他人の手で髪を整えられる感触。
普段なら自分の指先で確かめながら整えるのに、今は誰かの手が優しく触れる。
そのぬくもりに、ノアリスの心はほんの少し乱れた。
隣に立つカイゼルが、そっと肩に手を置き、柔らかく微笑む。
「怖くなったら、すぐに教えてくれ。『おしまい』と言えばいい」
「……はい……」
その言葉に、胸の奥が少し落ち着く。
そして、コンラッドへとおずおずと身を委ねた。
手際よく整えられていく間、緊張と、ほんのわずかな心地よさが混ざる。
初めての体験に戸惑いながらも、傍にある彼の視線と声が支えになり、恐怖はまだ襲ってこなかった。
けれど、髪を整えられ、衣装が整った瞬間――ふと、あの塔での記憶が蘇る。
胸が詰まり、ひくっと喉が鳴った。
手が震え、呼吸が乱れはじめる。
「ノアリス?」
「っ、ぁ、お、おしまい……!」
その声に、空気が一瞬止まった。
カイゼルはすぐに手を挙げ、コンラッドを下がらせる。
「よく頑張った」
「ふ……っ」
震える手を、大きな掌が包み込む。
次の瞬間には、温かな腕の中に収められていた。
乱れた呼吸を整えるように、背をトントンと撫でられる。
深く息を吐いたとき、ようやく体が少し軽くなった。
やがて呼吸が落ち着き、ノアリスはゆっくりと顔を上げる。
視線が絡んだ瞬間、思わず逸らそうとするが、顎に触れた指が静かに顔を戻させた。
「よくできたな」
その声は穏やかで、どこか特別に優しく響く。
胸の奥で、恐怖と緊張が少しずつ溶けていく。
自分の小さな合図を、こんなふうに受け止めてくれる人がいる――その事実に、胸がぎゅっと温かくなる。
距離の近さに戸惑いながらも、どこか安心している自分がいた。
その気持ちを、まだうまく言葉にはできなかった。
落ち着いてから鏡を見る。
そこには金色の髪が複雑に編まれ、綺麗に整えられた姿があった。
「す、すごい、です……。こんな……あんな短時間で、こんなことが……?」
「伝えておこう。きっと喜ぶ」
ノアリスはハッとしてカイゼルを見上げる。
そして両手を揉みながらモジモジとして、「あのぅ……」と小さく言葉を落とす。
「じ、自分で、伝えて、みます」
「そうか……? 無理はしなくていいんだぞ」
「いえ……折角、こんなに綺麗にしてもらえたから……。やっぱり、お礼を伝えないと」
扉の方に視線を向けたノアリスの気持ちを察して、カイゼルは「コンラッド」とその名前を呼んだ。
ビクッと震えた小さな体は、それでも現れた彼を見るとゆっくりぎこちなく頭を下げる。
「か、髪、整えてくださって、ありがとうございます。とても、綺麗で……あの、すごい、です」
「なんと。とても光栄にございます。ノアリス様がお望みであれば、また髪を結わせてくださいね」
「! は、はい!」
一度『おしまい』と言ってしまったから、嫌な気分にさせてしまったのではないかと少し不安だった。
けれど彼は穏やかにそう言って微笑んでくれる。
その姿に胸がほどけて、ノアリスもまた安心したように、そっと微笑んだのだった。
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