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プロローグ

『死ぬくらいなら、俺に貸してよ、その身体』 柔らかな声に呼び止められて、俺は咄嗟に振り返った。 しかしどこにも人影はない。 当然だ。こんな場所に俺以外の誰かがいるはずがない。 『いるよ』 俺の心の中を見透かしたように、また声がする。 『見えないかもしれないけれど、俺はここにいる』 「——誰、ですか」 『桔梗坂蓮夜——なんて言っても、ピンと来ないだろうね。初対面だし』 「初対面……の、幽霊……?」 声しか聞こえないというのは、つまりそういうことだろう。 普通ならば姿のない何者かに話しかけられるのは恐怖以外の何物でもないかもしれないけれど、 死を決意した今の俺には、もはや怖がるようなものは一つもない。 『はは、そう。俺は幽霊みたいなもん。 実際、もう死んでるし』 声の主は随分と陽気な雰囲気で答える。 「まさか俺が死のうとしてるから止めに入ったんですか? この場所に棲みつく霊は俺一人で充分だ、的な牽制をかけにきたとか?」 『止めにきたのは正解。 でも牽制をかけるためなんかじゃないよ。 ——君に頼みたいことがあって声を掛けたんだ』 「俺、今から死ぬんですけど。 頼まれても出来るようなことなんてありませんよ」 『君が死ぬのを、あと一ヶ月くらい延期してくれないか?』 「はい?」 俺は見えない何かを相手に、あんぐりと口を開けてしまった。 「延期、って……。一ヶ月も、俺に何をやらせるつもりですか」 『君の身体に入らせて欲しいんだ』 「え、きも」 『酷いな』 「当たり前でしょ。 初対面の、姿も見えない、声しか聞こえない相手が俺の身体に入りたいとか。 しかも声からして、あなた男でしょ? 男の俺に興味があるんですか?」 『この際、性別はどっちだっていいんだ』 男の声はどこか切羽詰まった様子で、ジョークのようなノリではないことを俺はすぐに悟った。 『——俺もこの場所で死んでるんだ。 そのせいか、この場所に縛り付けられてしまって、自分の家に帰ることもできないまま時が流れてる』 「……死んだらすぐあの世に行くと思ってました。 でも、自殺した人間は天国に行けないって聞いたこともあるから——あなたもその類いなんですか?」 『俺は自殺ではないよ。 けど、この世に未練があって成仏できないでいる。 しかも生身の身体を失って、この場所からも離れられなくて、八方塞がりって感じで—— だからここへ来る人がいたら、その人に俺の願いを叶えてもらいなとずっと思っていた』 どう考えても怪しすぎる。関わりたくはない。 ——そう思っているのに。 死んだ後どこへも行けず、孤独に彷徨っている、実体のないこの相手に対して変な情が湧いてきてしまった。 お節介な気持ちから、つい 「ちなみにどんな願いなんですか?」 と声の主に尋ねてしまった。 『俺は画家なんだ』 「画家?」 『死ぬ間際まで描いていた絵があるんだけど、それを描き上げるまでは死んでも死にきれなくて。 その絵を完成させることを手伝って欲しい』 「手伝う、って……。 えっ?じゃあ俺の身体に入りたいっていうのは——」 『君の手を自由に使わせて欲しい』 男の声からは、どこか悲痛さが滲み出ていた。 表情が見えるよりも、声だけであることがかえって増幅させている気もする。 『君の身体に入れば、俺は多分この場所から出られる。 そして君の手の自由を貸してもらえれば、俺は自分の意思で絵が描ける。 で——その絵を完成させたら、俺は君の元を離れて勝手に成仏するから』 「そんな、コントロールできるものなんですか」 『死んでみたらわかるよ。 案外、今世に留まるのも成仏するのも、自分のマインド次第なとこがあるって』 「……だったら俺、さっさと死んでさっさと成仏したいな……」 『でも君、きっと成仏できないよ?』 「え?」 『君が死んだら、君の魂に俺がひっついて説教するから。 それで、見ず知らずの人の最期の願いを聞き届けようともせず、さっさと死んだ冷酷人間って耳元で非難し続けるよ』 「嫌すぎる……」 ——どうやら俺は、こっちの世界でもあっちの世界でも、自由とは程遠いらしい。 でも死んだ後も、声だけ幽霊こと桔梗坂蓮夜に執着され続けるのは気味が悪い。 まあ、いいか。 一ヶ月くらい余分に生きても。 地獄の終わりが一ヶ月先延ばしになるくらい、今まで耐えてきた長さに比べたら—— 「わかった。俺の身体、好きにしていいよ」 『察しが良くて助かる』 「ただし、人としての尊厳を奪うようなことはしないでよ」 『手を借りるだけだって。 ——じゃあ、決まりだね。これからよろしく。えー……と?』 「藤峰優芽です」 『フジミネユウガ……ユーガ君ね。 そしたら、俺のことはレンヤかレンちゃんとでも呼んで。 あと話し方もフランクにしてくれていいよ。敬語じゃ気を遣うでしょ』 「初対面でレンちゃん、はちょっと。 そもそも……あなた何歳なんですか?」 『いくつに見える?って、見えないかー。俺の姿!』 「ダルい……」 ——こうして俺とレンヤの魂は一ヶ月の間だけ、同居生活を送ることとなった。

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