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藤峰優芽

藤峰優芽について、クラスメイトから見た印象をひと言ずつで表すならばこうだ。 『陽キャ』 『成績優秀』 『スポーツ万能』 『みんなの憧れ』 優芽がそこにいるだけで、自然と輪ができる。 優芽を中心にしたコミュニティが出来上がる。 容姿にも恵まれ、勉強もスポーツも人並み以上に出来、クラス中の憧れの的。 16歳、高校二年生。 クラスメイトたちが部活や勉強、遊びや恋愛、将来のこと、推しについてなど様々な話題や考え事で頭を一杯にするこの時期に—— 優芽が考えていることは一つだけだった。 あー。どうやって死ぬのがラクかな。 ——優芽はもう何年も前から死ぬことを考えていた。 実行する勇気が持てないまま、なんとなく日々が流れ、しかし死にたいという気持ちだけは変わらず持ち続けていた。 「ユーガ。放課後カラオケ行かね?」 「たまには受験勉強の息抜きしようぜ」 優芽が帰る支度をしていると、クラスメイト達から遊びに誘われた。 「ごめん。今日バイトだわ」 優芽は残念がるクラスメイト達にさよならし、鞄を背負って教室を出た。 「バイトならしゃーないか」 「てかユーガ、もったいないよな。 体育とか見てると運動神経抜群なのに、部活に入らないのもバイトのためなんだって?」 「バイトはいつも夜からだって言ってるし、夕方なら誘いに乗ってくれるはずなんだけどな〜。 今日は夕方からのシフトなのかな」 優芽が出て行った後、クラスメイト達が彼についての会話を交わす。 「てか、前から思ってたんだけど……。 ユーガのバイト先ってどこなんだろ……?」 優芽は自宅のある方向とは反対の道を歩いて行くと、人気の少ない通りに入った。 その奥にそびえるのは廃墟と化したビル。 取り壊し前で立ち入り禁止の札は掛けられているが、肝試しのスポットとしてそれなりに有名らしく、至る所のドアや窓がこじ開けられた形跡がある。 ビルの裏口に回ると、鍵が壊されて半開きになっているドアを見つけた優芽は、その中へ吸い込まれるように入って行った。 もう何年も下調べをしてきた。 道路や線路に飛び込めば、運転手を加害者にしてしまう。 学校で首を吊れば学校に迷惑が掛かる。 かといって自宅で死ぬのは嫌だった。 飛び降りが一番、苦痛を長く感じることなく確実に死ねると考えたものの、 地上を歩く通行人に当たる恐れがあるため、これもまた除外しようとしていた。 しかしこの廃ビルの存在を知り、日中は倒壊の恐れがあるため近づく人がほとんどいないという話を聞いていた優芽は、ここならば……と活路を見出した。 肝試しに来る人々も、まだ日の出ている夕方の時間帯ならばいないはず。 ここならば、人に迷惑をかけることなく、確実に死ねる。 これまでの人生のことは思い出さないようにしながら階段を登り、屋上が近づくにつれ、目の前に広がる死の影が色濃くなっていく。 屋上までたどり着いた優芽は、迷うことなく手摺りに身を乗り出した。 その時だった。 『死ぬくらいなら、俺に貸してよ、その身体』 ——姿のない何者かにそう声を掛けられ、粘られた挙句に、優芽は自分の死ぬ日を一ヶ月先延ばしにすることになったのだった。 「……で、アトリエに向かっていると」 優芽は周囲の人に怪しまれないよう、小声で呟いた。 『まだ暗くなってないし、家に帰る前にちょっと寄り道すると思ってさ。 あ、帰りが遅くなるとご家族に心配されちゃうかな』 「別に……。今日はバイトがないから、何時に帰っても怒られたりはしないけど」 『バイトしてるんだ。偉いね』 「……生活のためだから」 優芽は歩きながら、ふと感じた疑問を蓮夜にぶつけた。 「ってか、レンヤの声は周りに聞こえないの?」 『聞こえないね。 霊感のある人なら違うかもしれないけど、大抵の人は幽霊の姿も見えなければ声も聞こえないじゃん』 「じゃあなんで、俺にはレンヤの声が聞こえるんだろう。姿は見えないのに」 『死が身近にある人には、死んだ人の声が聞こえることもあるみたいだよ。 姿が見えないのは——たぶんユーガがまだ生への執着を残しているからじゃない?』 優芽は、死んだらそういうことも感覚で理解するのだろうか?と、蓮夜の言葉を聞いて思うと同時に、再び疑問が湧いてきた。 「……じゃない?——って。 俺の身体に入っているなら、俺の考えていることも理解できるんじゃないの?」 『あくまで同居させてもらっているだけだから。 身体に受ける刺激は俺も共有しているけれど、心の中で考えていることまでは共有できない。 ユーガが今踏みしめている地面の感覚も、背負っている鞄の重さも俺は感じているけれど、ユーガが何を考えているかは、ユーガの言動を通してしか理解できないよ』 「……そうなんだ。 俺の頭の中を見透かされているって訳じゃないのか」 『ユーガだって俺の考えていることは読めないでしょ?』 「確かに」 蓮夜の言葉は本当だろう、と優芽は思った。 もし蓮夜が優芽の頭の中を見透かしていたなら、自分がまだ生への執着を残しているなんて可能性には至らないはずだと—— 『だから、ユーガにとっては多少不便かもしれないけど、俺に話しかけたい時は声に出してもらわないと反応できないわけ』 「多少どころじゃないよ。 変な人だと思われるのもなんだし、人がいる所では話しかけないで」 『今すぐ死のうとしていた割に、周囲の目は気になるんだ?』 「……死ぬ直前までは、日常を壊さず、平穏に暮らしたいだけ。 レンヤのせいで、それももう叶わないけど」 優芽が皮肉を溢すと、蓮夜がくすくすと笑う声が聞こえてきた。 『壊れちゃったものは仕方ないね。 どうせだから、死ぬまでの一ヶ月、非日常を楽しんでみない?』 「ヒトゴトみたいに……」 優芽はため息をつくと、古びた一軒家の前で足を止めた。 「ここ?」 『そう。ここが俺の自宅兼アトリエ』 築年数の経っていそうな、一階建ての木造家屋。 『玄関脇に鉢が置いてあるでしょ? その下に鍵を隠してるから』 優芽が、花の植えられていない鉢をどかしてみると、確かにそこに家の鍵らしきものが落ちていた。 それを拾い上げ、優芽は玄関の戸口を開けた。 「お邪魔します」 優芽がそう言って玄関で靴を脱ぎ、靴の踵を揃えると、蓮夜から感心するような声が漏れ聞こえてきた。 『へえ。ちゃんとしてるね』 「何が?」 『ちゃんと挨拶して、靴も直して。 ご家族に躾けてもらったんだね』 「……」 優芽はそれに返事をせず、 「どっちに行けばいいの?」 と尋ねた。 『廊下の突き当たりが作業場』 蓮夜に案内された部屋に入ると、そこにはいくつものキャンバスが壁に立て掛けられていた。 その中に一つだけ、木製のイーゼルに立て掛けられた状態のキャンバスが部屋の中央に置かれていた。 『俺が完成させたい絵はこれ』 蓮夜の声が聞こえた直後、優芽の身体に違和感があった。 自分の意図せずに右手が動き、その指先がキャンバスに触れたのだ。 「な……」 愛おしそうにキャンバスを撫でる手のひら。 それは明らかに、自分ではない何者か——蓮夜の意思で動いている手だった。 「本当に乗っ取られたみたいになるんだな……」 優芽は自分の身体に起きていることに戸惑いを感じつつも、キャンバスの中をよく覗いてみた。 そこに描かれていたのは一人の女性。 長い黒髪を風に靡かせ、穏やかな表情で微笑んでいる。 黒目がちな瞳が印象的で、綺麗に切り揃えられた前髪がよく似合っている。 頬と唇は淡いピンク色に艶めき、その生き生きとしたタッチは生きている人間をキャンバスの中に閉じ込めたかのようなリアリティを孕んでいた。 「……凄い」 優芽は、その圧倒的な画力に思わず息を呑んだ。 元々、芸術にはそれほど関心が無く、受験科目ではない美術の授業はそこそこの点を取れる程度にしか対策していなかった優芽は ゴッホや葛飾北斎といった著名な画家以外を知らなかった。 桔梗坂蓮夜—— 駆け出しの画家だと自称しているけれど、こんなに絵の上手な人だったのか。 いや、プロとしてやっている人に対して上手なんて褒め言葉は失礼にあたるかもしれないな。 「……これ描いたの、ほんとにレンヤなの?」 あまりにも見事な出来栄えの絵を前に、ついそんなことを聞いてしまった。 『モチのロン』 「古……。 レンヤって、喋り方とか名前が現代風の響きだけど、もしかして結構歳いってんの?」 『今時の高校生は使わないの?』 「聞いたことないよ。ほんと何歳なんだよ」 『強いて言うならアラサー。 ユーガは制服からして高校生だよね? ひと回りくらい違うと思ってくれたらいいよ』 「アラサーかよ。てか今時のアラサーでも言わないだろ、モチのロンとか」 『ええ〜、そうなの?チョベリバじゃん』 「……ねえ、ほんとにアラサー?」 『ほんとほんと。享年29歳』 「絶対嘘だろ……」 そう言いながら、優芽は絵を眺めていてふと思った。 「見た感じ、もう完成してない?この絵」 絵の中の女性は、もはや描き足すところなどないのではというほどに完璧に見えた。 強いて言うなら、ほくろを描き忘れたとか、そんなことくらいしか思いつかない。 『よく見て、背景』 「背景?——あっ」 蓮夜に言われて気づく。 この絵には背景が描かれていなかった。 絵の中の女性に見惚れてしまい、背景がまっさらなままであることに全く気が付いていなかった。 優芽は自分が少し恥ずかしく感じた。 「……つまりこの背景を完成させることができれば、レンヤは無事成仏できると」 『そういうこと!』 「ふうん……」 優芽はキャンバスの前に置かれていた椅子に腰掛けた。 「こっからどうすんの。 さっきみたいにレンヤが勝手に手を動かしてくれて、俺はそれに身を任せていれば良い感じ?」 『あー……それが、すっかり忘れてたんだけど……』 蓮夜から、どこか気まずそうな声が上がった。 『画材を切らしてたんだよね。 背景に使いたかった絵の具、人物を描く段階で使い切っちゃってさ』 「ええ……?」 『だから明日、画材買いに行かせて』 「そんなんネットで買えないの?」 『ネットで買い物したことない……』 「ほんとにいつの時代の人間だよ。 最近死んだって話、盛ってない?」 『いや、死んだのはほんとに最近だってば!29なのもガチだから』 「はぁ……」 優芽は蓮夜の年齢詐称を疑いつつ、 「とりあえず、明日は無理」 と告げた。 『なんで?』 「明日はバイトが入ってる。 学校終わったら家に帰らないと」 『そっか……。じゃあ明後日は?』 「多分——明後日なら」 明後日は……何もないといいな。 優芽は心の中で呟いた。" "結局、蓮夜のアトリエに行っただけで終わった優芽は、その後自宅へと帰ってきた。 「ただいま」 優芽が玄関口で言うと、 「おかえり〜!」 という、明るい声が返ってきた。 「遅かったね。お友達と遊んできたの?」 キッチンの方から出て来たのは、優芽の母親だった。 実年齢よりだいぶ若く見え、優芽の姉と偽っても違和感のないような容姿をしている。 「うん。クラスメイトとカラオケに……」 「へぇ〜いいなあ。あたしも久しぶりにカラオケ行きたーい」 「母さんも友達と行ってきたら?」 「あたしはお仕事もあるし、ユーガくんのご飯作ったりもしなきゃでしょ? そんな時間全然取れないよ〜」 「いつも俺のせいでごめんね」 「やだ、ユーガくんが悪いんじゃないよ! ユーガくんはあたしの大事な息子なんだから。 それに母親が子どものお世話をするのは当たり前でしょっ」 「……いつもありがとう。部屋で着替えてくるね」 「は〜い!脱いだ物、いつも通り洗濯機の前のカゴに入れといてね!」 「うん」 優芽は頷くと、二階にある自室へ上がって行った。 『……ママと仲良しだねえ』 部屋のドアを閉めると、蓮夜が話しかけてきた。 『しかもめちゃくちゃ若いママだね。 ユーガくんとか呼んでたし』 「あの人が17の時に俺が産まれたから。 あの人にとって俺は、ちょっと年の離れた友達みたいなもんなんだよ。きっと」 優芽は素早く制服を脱ぎ、部屋着に着替えて行った。 制服のシャツだけでなく下着まで全部着替えてしまうと、下に降りて行き、洗濯物を籠へ放り込む。 「いただきます」 ダイニングテーブルに座り、都と向かい合って夕食を摂る優芽。 「ねえユーガくん、見て見て。 ネイル新しくしたの〜!どう?」 「可愛いよ」 「もー、それ前と同じ感想じゃん!」 「デコレーションが華やかで、パキッとした色味も母さんによく似合ってる」 「ほんと?うれし〜!!」 都はキャッキャと喜びながら、優芽の箸の進みが遅いことに気がついた。 「ユーガくん、食欲ない?」 「え?」 「あんまりお箸が進んでないじゃない?」 「……いや」 「もしかしてお手製のトンカツ、美味しくなかった……?」 「美味しいよ。ちょっと考え事してたら手が止まっちゃってた」 優芽はそう言って、トンカツへ豪快に齧り付いてみせた。 「よしよし。高校生の男の子なんだから、それくらいガッツリ食べなきゃね!」 「うん」 「あ、でも〜。食べ過ぎ注意ね! あたしも気を付けてるんだけどさー、年々代謝が落ちてるのか同じ量食べててもお腹に肉がついてくるようになっちゃって」 「うん」 「まあ、ユーガくんは普段から運動してるし、そんなに心配いらないね! あーあ、あたしもダイエットがんばろ〜」 ——食事を終えた優芽は、食器を片付けると、サッとシャワーを浴び、自室へ戻った。 鞄からノートを取り出し、学校で出された課題をこなす。 『死のうとしてたのに勉強?』 蓮夜が再び現れた。 「……言ったろ。 死ぬ直前まで、今まで通りの日常を送りたいって」 『でも将来役に立つ訳じゃないでしょ? 死んだら勉強も受験も関係なくなるんだから』 「俺にとって勉強は仕方なくやるものでも、将来のためにやるものでもない。 やりたいからやってる、それだけ」 『……偉いねえ……』 課題を終えた後、優芽は何をするでもなくベッドに入ると、そのまますぐ眠りについた。 『……良い子だし、楽しそうなママだし……。 死にたくなるような理由ってなんだろう。 学校でイジメに遭ってるのかな?』 優芽が眠りについた後。 実体のない蓮夜の独り言が室内にこだまする。 『イジメが原因で死のうと思ってるなら、社会は広いよって教えてあげないと。 卒業したらほとんどの人とは縁が切れるものだし、卒業まで耐えられなければ転校したり、通信制の学校に通う道だってあるわけだし。 ちょっと大人びて見えるけど、まだ高校生だもんな。 大人の俺が広い視野を与えてあげなきゃ』 「……うるさいよ」 その時、優芽が煙たそうに声を上げた。 「寝かせてよ。明日はバイトで体力使うんだから……」 『あー、メンゴ!心の中で呟いとくね』 「ふっる……」 優芽はそう言い捨てると、静かな寝息を立て始めた。 ——翌朝。 優芽は目を覚ますと洗面所へ向かった。 洗顔、歯磨き、それからヘアアイロンとワックスで丁寧に髪を整えていく。 『そんなんしなくても、充分イケてるよ、ユーガくん。もう、超絶イケイケ!』 「……」 『それとも、死ぬ間際までカッコいい俺でいたい的な?16歳ってそういうお年頃だっけ』 「うるさいなあ……」 ユーガは前髪を整えると、一度自室に戻り、制服に袖を通した。 『朝ごはん食べないの?』 着替えてすぐに家を出ようとする優芽に、蓮夜が尋ねた。 「うちは朝ごはん無しがデフォだから。 あと学校着いたら、もう話しかけないでね」 『は〜ぃ』 優芽が通学路を歩いていると、「よっ!」という明るい声と共に、複数の男女が駆け寄ってきた。 「おっす〜ユーガ。宿題のノート見して〜」 「つか今日こそ放課後ツラ貸してよ〜」 「ユーガくーん、昨日なんでグルチャの返信くれなかったの〜?」 髪を明るく染めて襟足を伸ばしていたり、制服をだらしなく着崩していたり、アクセサリーを重ね付けしていたりと派手な男子高生、女子高生ばかりだ。 『さてはこの子達だな、イジメグループ!』 蓮夜がそう呟いたその時。 「はぁ〜。お前らはほんと朝から元気だよなー。 和馬、ノート貸してやる代わりにジュースおごりな。 虎徹、今日も俺バイト。カラオケは来週な。 日菜、昨日は帰って即寝落ちした!グルチャ返せなくてごめんな」 優芽は彼らに対し親しそうに返事をした。 「よっしゃー!じゃジュース2本奢るから数学と英語の2本立てで頼む!」 「ジュース2本は太るからやめとくわ」 「来週は絶対な! こないだユーガが歌ってるとこSNSに載せたら他校の子達からいっぱいDM来てさ〜! ユーガをアップすると女子が大量に釣れるんだよな」 「また勝手に載せたのかよ。 いつの間に俺はフリー素材になってたんだよ」 「そうだったんだ〜、バイトお疲れさま! ねえねえ、今度うちらみんなでバ先に遊びに行ってもいい?」 「あー俺のバイト、裏方作業だから来てくれても会えないんだよね。 見学しても面白いもんじゃないし、フツーにバイトない日に遊ぼ」 『……おやおや』 蓮夜は、自分の思い過ごしだったことに気がついたらしい。 『なーんだ。イジメとかは受けてなさそうね。 それどころか、こんな一軍っぽい男女に囲まれて対等に喋ってるくらいだし? ユーガも一軍男子的な? ふーん、そっか、そっか』 蓮夜は優芽に聴こえる声で独り言を溢すと、優芽の身体の中でその後も時間を過ごした。 授業では抜き打ちテストに満点で解答し、 体育の時間にはバスケットボールで現役部員を差し置いてシュートを決めまくり、 昼食時には沢山の男女が優芽の周りに集まってランチを始める。 どう見てもリア充な学校生活を送っていた。 『ほーう、ほう? なんだったら俺の学生時代より楽しそうなスクールライフじゃない?羨ましいのだが?』 蓮夜は、優芽が友人に囲まれて楽しそうに笑っている姿を、身体の内側から俯瞰して見ていた。 授業が終わり、帰り支度を始めた頃。 「……はぁ」 優芽から自然とため息が溢れる。 「ため息なんてついちゃって、どうした?」 すると優芽の担任教師が、彼の肩をポンと叩いた。 「あ、先生……」 「そろそろ進路希望の紙、提出期限だぞ」 「すいません。期日までには出しますんで」 「迷っているのか? 優芽の成績なら、有名私大の推薦枠も取れると思うが」 「私立はちょっと……」 「国公立狙いか。まあ、併願先として私立も受けるだけ受けてみてはどうだ?」 「……考えてみます」 優芽は軽く会釈すると、鞄を背負った。 『優芽、推薦狙えるくらい頭良いんだ』 帰り道、人気が無くなってきたあたりで蓮夜が話しかけた。 「推薦枠は他の人たちに譲るよ。 受かったところで入学できる金ないもん、うち」 『……あー、昨日言おうか迷ったんだけど……ユーガって母子家庭?』 「そうだよ」 優芽はサクサクと早足で歩きながら答える。 『そっかぁ。私大ってお金かかるもんね』 「国公立だって安くはないよ」 『でも奨学金とか借りれるでしょ? 良い大学入って良い就職先で稼げるようになってから返していくことだってできるし』 「……それも無理」 『無理って?ユーガ、今だってバイトしてるんだし、社会に出て働くのを拒否してる訳じゃないでしょ? ——あ、なるほどね。 元々高校卒業したら就職するつもりで——』 「無理なんだよッ!」 優芽は声を荒らげた。 そしてすぐに、外であることを思い出し、辺りを見渡す。 幸い、近くで聞いているような人は見当たらなかった。 優芽はふぅと息を吐き出すと、再び歩みを進めながら言った。 「……今夜、俺が働くとこ見てればわかるよ。 俺に将来なんかないってこと」 『……?』 ——帰宅してすぐ、優芽はシャワーを浴びた。 『今日は夕飯前にシャワーなんだね』 優芽がシャワールームから出ると、蓮夜が言った。 『そういえばユーガのママ、まだ帰ってきてないね?お仕事行ってるの?』 「……もうすぐ帰ってくるよ」 優芽はタオルで手早く身体を拭いて行くと、再び制服に着替え直した。 『え、せっかく身体洗ったのに、またそれ着るの』 「これが仕事着みたいなもんだから」 『……んん?どゆこと……?』 蓮夜が不思議そうに唸った時、玄関の開く音がした。 「ユーガく〜ん!帰ったよ〜」 「おかえり」 優芽はそう言いながら玄関先へ歩いて行く。 蓮夜も優芽の身体と共に着いていくと、優芽の視線の先を見て『ん?』と首を捻った。 都の隣に、中年の男性が立っている。 『この人が父親? あれ、さっき母子家庭だって言ってたよね?』 蓮夜が疑問に思っていると、中年男性がにっこりと微笑みかけてきた。 「やあ、ユーガ君。パパが帰ってきたよ」 『父親……?』 蓮夜が戸惑っていると、その身体は蓮夜の意思に関係なく深々とお辞儀をした。 「お帰りなさい、お父さん」 「うん。じゃあ、早速お部屋に行こっか」 「ごゆっくり〜」 都は、優芽と男性が二階の自室へ上がっていくのをにこやかに見送った。 『なーんだ、パパもいるんじゃん! ——ってそっか、今は人といるから会話はできないんだった』 蓮夜は、自分の存在を無視して歩く優芽に呼び掛けた。 『でも、両親共働きなら、大学の費用くらい相談してみてもいいんじゃない? パパ、そんな怖そうにも見えないし、進学したいって言って怒るようなことないでしょ』 優芽はその声を無視して部屋の戸を閉めた。 『ん?パパも入るの?』 優芽と男性は並んでベッドに腰掛けた。 「今、ユーガ君は何年生なんだっけ」 「高2」 「そっか。お勉強頑張ってる?」 「はい」 「得意科目とかあるの?」 「……体育」 「おお〜。すごいね。それじゃ……」 男性は徐に、制服のジャケットの内側へ指を差し込んだ。 『ちょっ……。え——』 「保健体育って言うくらいだしさ。 保健のほうも、当然得意ってことなんだよねえ?」 男性は優芽の制服のジャケットを脱がせると、ワイシャツのボタンを外していった。 『何してるの!?その人パパなんじゃないの?ねえ——』 「お父さん」 すると優芽は、男性の胸元へしなだれかかって言った。 「お父さん。俺——ぼく、最近勉強のしすぎで身体がフラフラするんです」 「なんと。それは大変だ」 「だから……優しくしてくれると嬉しいな」 「そうか、そうか。 可愛いユーガ君がの身体が壊れちゃったら大変だ。 それじゃたっぷりローションを使って、ゆっくり動くからね」 「ありがとう」 男性に抱きつきながらそう返す優芽の表情は、虚だった。 何も見ていない。 何も感じていないかのような、虚な瞳。 「あ、そうだ。 ユーガ君のママからね、お小遣いを上乗せしたらゴム無しでOKって聞いてるんだけど」 「……母さんがそう言ったなら、良いです」 「じゃあ帰りにママに渡しておくからね、お小遣い」 「ありがとうございます」 優芽は無表情のまま頭を下げると、そのまま男性の下腹部へと頭を下ろし、腰のベルトを外し始めた。 ——そこから先、蓮夜に待っていたのは地獄だった。 蓮夜が経験したことのない身体の場所——正確には優芽の身体だが——を掻き回され、突き上げられ、激しい痛みが絶えず襲ってくる。 『痛っ……!いたい……ッ!! ユーガ、やめて、やめて、痛いよ……!』 優芽と身体の感覚を共有している蓮夜にも、痛みがダイレクトに伝わってくる。 優芽は何も答えず、ただ黙って男性に身を預けた。 「あ、ユーガくぅん……。 ママからね、さらにお小遣いをあげたら、オモチャも使えるって聞いたんだ。 ユーガ君、使ったことある?」 「……お父さんが僕に教えてくれるんですか?」 優芽が小さな声で尋ねた。 「おおっ。初めてか、それは嬉しいねぇ。 それじゃこんなの持って来たんだけど、どうかな——」 『あぐッ!?』 蓮夜は、優芽の身体に当たる得体の知れない痛みと気持ち悪さに吐き気を催した。 『ユーガ。 この人は……誰なんだ? なんで君は……こんなことをしている?』 「んっ……」 優芽は声をまるで無視し、小さく喘ぐような声を漏らす。 『どうして、こんなにも痛くて気持ち悪い思いをしているのに、君の口角は上がっているんだ——』 実に三時間近くが流れた。 蓮夜にとっては、もはや半日ほど時間が経過したかと思えるほどの疲労だった。 「ユーガ君、顔も可愛いしお利口さんだし気に入ったから、またパパとして会いに来るね」 「……嬉しいです。ありがとうございます」 男性は服を着込むと、満足げに一階へ降りて行った。 「はい。これゴム無しとオモチャのオプション代」 「ありがと〜!またユーガ君を可愛がりに来てね!」 「もちろん。今ここで次の予約を入れちゃおうかな」 玄関口で都と男性が話す声が聞こえてくる。 蓮夜は、立っていることさえできないような酷い痛みに全身苛まれていたが、彼の意思とは裏腹に、優芽は洗面所まで歩いてくると、液体洗浄液でうがいをした。 「——次、いつもの高山田さん、30分後に入ってるから」 その背後で、都の声がした。 「それ終わったら、ご飯食べていいよ」 「……母さん」 優芽は口の周りをタオルで拭くと、 「次の人が来るまでの間、ちょっと話せる?」 と告げた。 「いいよ、何?」 「——これなんだけど」 優芽は部屋から進路希望の紙を持って来ると、都の前で広げてみせた。 「なにこれ。進路調査……?」 「どこの大学に行きたいか、って学校から。 うち進学校だから、全員何かしら書いて提出しないといけなくて。 それで、俺——」 「大学なんて行く意味ある?」 都が一蹴した。 「大学に行ったら、学費だけで年間何十万とかかるんでしょ。 私立は何百万にもなるって聞いたことあるよ。 そんな馬鹿高いお金払ってまで勉強する必要ある?」 「でも学歴があれば良い企業に就職できて、お金も沢山稼げるように——」 「ユーガ君ッ!!!」 その時、都が大声を出した。 優芽は動じなかったが、蓮夜は目の前で金切り声を上げられたために心臓が飛び跳ねるほど驚いた。 「前も言ったよね!? ウチには今払える学費なんかないって!! そんな何年後になるか分からない収入より、今お金が必要だって!!! 賢いユーガ君なら分かるでしょおっ!?」 「わかる。分かってるよ。でも聞いて。 俺が『このバイト』で稼げるのなんて、俺が未成年っていう『オプション』があるうちだけだよ。 それに比べて学歴は一生使えるオプションなんだよ。 今ちゃんと勉強して、奨学金を借りてでも大学に行く方が、長い目で見れば——」 優芽が説明しようとすると、都は再び金切り声を上げた。 「うぎゃーッ!!うるさい、うるさいッ!! 難しい計算の話されてもわかんないし!! 長い目って言うけど、あたしそんな長生きする気ないし!! ユーガ君が大人になるまで待ってる間にあたしが餓死したらどうすんの!? ユーガ君責任取れんの!? 親殺しの殺人鬼として生きていけんの!? どうなの、ねぇーーー!!!」 『あ。ダメだ、この人』 蓮夜は、ヒステリックに近くのものを投げ始めた都を見て——理解した。 まともな会話すら成り立たない母親との二人暮らし。 恐らくは未成年の息子に売春をさせ、その斡旋で生活費を稼いでいる母親。 進学したくてもその費用が無く、奨学金を借りようにも母親の理解が得られない。 そして絶え難いほどの不快と苦痛—— 蓮夜は、優芽の死への衝動が何から来ているのかを分からせられた。 自身の身体をもってして。 蓮夜はその日、人生で一番と言っても過言ではない苦痛を味わった。 既に死んだ身だというのに、優芽の身体の感覚を共有しているがゆえに、生きていた頃のように五感に刺激を得る。 しかし生の喜びよりも、生きていることへの不快感が勝るくらいの吐き気と痛みが絶えず襲って来た。 優芽の元に現れた二人目の客は女性だった。 「ユーガ君、センセといけないことお勉強しましょうねっ」 40、50代だろうか。 見た目は都より歳上にすら見える中年の女性が、アダルトビデオの中でしか見たことのないような衣装を着て自分の前に立っていた。 「ユーガ君は今日、悪いことをしました。 お仕置きを受けなければならないことは分かるわね?」 「はい、ごめんなさい、先生」 「じゃあ——いつもの、ね?」 優芽は黙って頷くと、女性客のあられもない場所へ唇を寄せた。 不快な湿気と匂いと喘ぐ声。 蓮夜は何度もえづいたが、優芽はそんな様子はおくびにも出さず、女性客の求める通りに身体を使う。 「えーっと、それじゃ記念に……。 あ、そうそう、写真はオプションだったわね」 女性客は財布から万札を取り出すと、 「これ。後でお母様に渡してね」 と言い、続けてスマホを開いた。 「じゃあー、二人でのツーショットから!」 女性客は優芽と肩を寄せ合った。 「ほら、笑って!笑って!」 「……」 優芽が唇の端を上げると同時にスマホのカメラがシャッターを切る。 「次はぁ〜、ユーガ君のソロチェキね!」 女性客はアウトカメラに切り替え、優芽の前にスマホを構えた。 「んー。ポーズはどうしよっかなぁ。 あ、うちのワンちゃんみたいなポーズにしてもらおうかしら。 ユーガ君、股間が映るように脚を広げながら、手はワンワンみたいにして」 女性客の指示に従い、優芽は両脚を広げる。 『っ、ユーガ!?そんな格好の写真撮らせて、万が一流出したら——』 蓮夜は叫んだが、優芽はそんな声は全く聞こえていないかのように振る舞い、にっこりと微笑んでみせた。 「まぁーっ可愛い!ウチの子より可愛いかも!」 女性客は満足げに頷くと、 「待受画面、これにしちゃおっかな」 と口にした。 ——女性客が帰って行くと、優芽は再びシャワーを浴びに行った。 浴室の床に、血と濁った液体が滴り落ちる。 蓮夜は、無表情で身体中を洗っている優芽を、黙って見届けるほかなかった。 「お疲れ〜」 浴室から出ると、都がダイニングテーブルに食事の用意をしていた。 『えっ。これって——』 テーブルの上に並べられていたのは、昨日のトンカツの残りだった。 冷蔵庫に入れていなかったのか、怪しい匂いが漂って来ている。 『ユーガ。この肉ちょっとマズくない?』 蓮夜はそう告げたが、優芽は黙ってそれを口にした。 腐った肉の味が蓮夜の味覚を刺激する。 『うっ……。うぇ……っ!』 食べたことのない、明らかに食べてはいけない味のするそれを、優芽は黙って平らげていった。 その向かいで、都はコンビニで買ったと思われるスムージーを飲んでいた。 「あー、ダイエットつらー。 でもこんくらい制限しないと体型キープできないよね〜」 そう言いながら、札束を一枚ずつ数えている。 「じゃー、ハイッ。ユーガ君のお小遣いね」 十数枚はあると思われる万札の束から都が渡して来たのは、1000円札一枚だった。 「……母さん」 優芽は、少し気を遣った声で言った。 「来週、友達とカラオケ行く約束したんだ」 「はぁ?昨日もカラオケ行ったって言ってなかった?」 「それとは別の友達グループ。 学校での付き合いもちゃんとやらないとさ。 先生に心配されたりしたら、また家庭訪問の電話とかかかってきちゃうから」 「……あー。来たことあったね」 都は思い出すように言った。 「電話ずっとスルーしてたら、ウチに押しかけて来たよね、あの担任。 一年生の春だっけ? 『うちの高校は文武両道を重んじる校風なので部活は全員加入制としています。 優芽君もいずれかの部活に入部させるように』——だっけ? サッカー部に入ったらサッカー選手になれんのかって話だよね。 意味のない努力にお金と時間を費やすとか、校風マジ終わってるよね」 けらけらと笑う都。 優芽は真剣な表情で続けた。 「俺が遊びの誘い断りまくってたら、『金欠ならユーガんちに集まってゲームでもしよっか』って話題になってさ。 大勢で高校生が押しかけて来たら、母さんにも迷惑かかるでしょ?」 「確かにぃ。ゆっくりしたくて家に居るのに、爆音でゲームなんてされたら寝れないじゃん。 ……しっかたないなぁ」 都は渋々と言った様子で、優芽にもう2000円渡した。 「言っとくけどー、ユーガ君が一日に三人客取れるようになったら、お小遣いだってアップできるんだからね? ユーガ君が『体力的に二人が限界』って言うからさぁ……」 「ごめんね。お小遣いありがとう」 ユーガは千円札3枚を握りしめると、「じゃあもう寝るね」と言ってキッチンを離れた。 ——その後、ユーガが向かったのはトイレだった。 「っ……うえぇ……!!」 今食べたトンカツを便器の中に吐き出して行く。 「っく……。うぅ……」 喉の奥に手を突っ込み、胃の中のありったけを吐き出すと、レバーを回し、何事もなかったかのようにトイレを出る。 洗面所で歯磨きを済ませ、自室に戻ってきた優芽。 部屋の中には、一人目の客の体液や、二人目の客の香水の匂いが充満していた。 優芽はそんなことにはお構いなしに、身体をベッドに横たえた。 優芽の意識はあっという間に眠りに落ちていったが、その日蓮夜の意識はずっと覚醒していた。 こんな人生最悪の日を味わった直後、何事もなかったかのように眠ることなど到底できなかった。 「——約束したから、画材買いに行くけどさ」 翌日、放課後。 優芽は歩きながら、自分の中に同居する霊・蓮夜に向けて話しかけた。 「3000円で足りるかな?」 『……足りる。というか——やっぱ画材、買わなくていいよ』 「は?」 優芽は画材家に向かっていた足を止めた。 「買わなくていいってどういうこと」 『……あれだけ辛い思いをして稼いだ3000円でしょ。 俺の描く絵のためじゃなく、友達とカラオケでも行くのに使いなよ』 「じゃあ、あの絵の続きはどうなんの?」 『それは……』 蓮夜が迷っていると、優芽は再び歩き出した。 「別にカラオケなんて行かなくていーし。 カラオケ行かなかったくらいでハブられるような関係でもないから」 『……ユーガさ……』 蓮夜は躊躇いながらも言った。 『学校で、あんなに楽しそうに、仲間に囲まれて笑ってて—— 授業もしっかり聞いて、勉強も頑張ってて……。 ……なんというか、強いんだね……』 「強い?」 『俺、ユーガよりずっと歳上だけど、あんなことがあったら——もう学校でも笑っていられるかわからないな、というか……』 すると優芽は、ふっと鼻から息を吐いてみせた。 「昨日の客は『良い人達』だったから、一日寝れば元気になるし、普通に笑えるよ」 『良い人達……?あんなのが……?』 「もっと酷い客もいっぱい相手にして来た。 もう何年も——」 何年も。 その言葉に、蓮夜の心がずきりと痛む。 もう自分の肉体はないはずなのに、確かに心臓が掴まれるような痛みを感じた。 「もしかして、俺に取り憑いたこと後悔してる?」 『えっ?』 「感覚、共有してるんでしょ? 俺の中で随分と痛がっていたよね」 『まあ、うん……。 正直あんな苦痛を経験したのは生きているうちにも無かったかな。 ——あれを何年も続けてきたんだね』 「そーだよ」 優芽はこともなげに言った。 「はぁ……。進路希望、適当に書いて出すか……」 『ユーガ。お節介かもしれないけど——』 「お節介なら言わなくていいよ」 優芽が蓮夜の言葉を制止した。 「レンヤと俺は、絵を描き終えるまでの関係だろ。 それに幽霊のレンヤにできることなんて何もないから。 なんか力になりたいとか、環境を変えた方がいいとか、そういう言葉なら口にしないで。 ——たぶんレンヤが咄嗟に思いついて吐けるような説教は、それを実行できるならとっくにしているようなことばかりだから」 蓮夜は絶句した。 そして、優芽には届かないような小さな声で呟く。 『ああ、どうして俺は——死んでいるんだろう。 もしも俺がまだ生きていて、実体を持っていたら…… この子の頭を撫でてあげるくらいのことは出来るのに』 そう呟いた直後、はっと気づいたように顔を上げる。 「——え」 優芽の右手が、自分の意思と関係なく持ち上がる。 そして手のひらは優芽の頭の上に乗せられ、ワサワサと前後に揺れた。 「っ、今操ってる?俺の身体」 『うん』 「なにしてんの」 『頭撫でてる』 「だからそういうお節介もいらないんだって!」 優芽は自分の手を頭から払い除けようとしたが、いうことをきかなかった。 「俺の身体なのに——なんで俺の意思に勝ってるんだよ、レンヤ」 『わかんない。思いの強さじゃない?』 「外で自分の頭撫でてる奴とか、傍目から見たらやべー奴に見えるじゃん」 『じゃあ人が来たらやめるね』 「……はぁー」 優芽はしばらく、自分の手に頭を撫でられながら歩いた。 目的の画材家で必要な色の絵の具を調達した優芽。 お釣りが出たため、残ったお金でコンビニに立ち寄ると、レジ横のホットスナックの棚から揚げたてのチキンを注文する。 『あー、おいし』 店を出て優芽がチキンに齧り付くと同時に、蓮夜の声がする。 『昨日のトンカツ、あれやばかったよね。 案の定、吐いちゃってたじゃん』 「……食べる前からわかってたよ。 でも母親の前で完食してみせないと、また機嫌悪くされるからさ。 稼いだ分からもらえるお小遣い、3000円まで引き上げるのに成功したのも、あれで少し気をよくしてもらえたからだと思うし」 『息子に腐った肉を食べさせて、自分はコンビニのスムージー飲むとか、君のママ、頭のネジぶっとんでるね。 おったまげなんだけど』 「……また、ふっるい言葉使うのな……」 話しているうちに、一昨日も訪ねた蓮夜の自宅に辿り着く。 「鍵の場所さあ、定期的に帰るとか工夫しなくて大丈夫? 鉢の下に隠すところ不審者に見られてたらやばくない?」 『見られてたっていいよ。どうせ盗られるようなモノもないし』 「絵は大丈夫なの?」 『ははっ、君にも知られていないような無名画家の絵、誰が好んで盗るのさ』 優芽はキャンバスの前に着くと、再び絵の中をじっと見つめた。 今にも絵の中から飛び出して来そうな表情の美女が、こちらに向かって微笑みかけている—— 「聞いてもいい?」 『うん?』 「このモデルの女の人って——レンヤの知り合い?」 すると蓮夜は、少しの沈黙の後に答えた。 『……うん。大切な人を描いた絵だよ』 「ふーん」 大切な人——彼女かな。 優芽はそんなことを思い浮かべたが、すぐに考えるのをやめた。 聞いたところで何になる。 蓮夜の生前のことを深掘りしたところで、絵が完成したら切れる関係だ。 そんな相手と親密度を高めるのはコスパが悪い。 「で、背景のイメージはもう決まってんの?」 『うん。川をモチーフにしたくて』 「川?」 『この絵を描き始めた時から、背景は川辺にしようって決めていたんだ。 当初は、ローヌ川にしようって思ってたけど……』 「……ろーぬ川って何県にあんの……?」 『フランス』 「フランス!?」

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