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ローヌ川を重ねて①
優芽は思わず咳き込みそうになった。
「フランスって——あのフランス?!あのヨーロッパにある?」
『もち。フランスはヨーロッパにしかないよ』
「それはそう」
『描き始める時もモデルと一緒にローヌ川を歩いて、この辺りを背景にしようかって話して描き始めたんだよね』
「マジか……。背景描くために、わざわざフランスにまで行って描いてたんだ」
優芽が驚いていると、蓮夜は「ああ」と思い出したように言った。
『わざわざフランスに、というか——逆なんだ』
「え?」
『俺は元々フランスに住んでいて、フランスにいる時にこの絵を描き始めたんだよ。
で、日本に移り住んできた後、この絵の続きを描こうとしたところで息絶えたわけ』
え?フランスに住んでた?
レンヤって帰国子女なのか?
優芽が考え込んでいると、それを見透かしたかのように蓮夜が言った。
『俺ね、ハーフなの。
フランス人と日本人の間に産まれてさ。
産まれてから、もうずっとフランスに住んでた』
「……そうなんだ」
『あ、でもこの通り、日本語はネイティブレベルで話せるから!
家の中ではフランス語と日本語どっちも当たり前のように使っていたからね。
流行りの言葉までバッチグーよ』
「……ああ、どうりで流行の言葉が二廻りくらい遅れてるんだ……」
優芽は、29歳を自称する蓮夜がなぜか上の世代の流行語を織り交ぜて話す理由に納得した。
きっと父親か母親、日本人の親の方が蓮夜にそれを教えたのだろう。
『それでさ、できれば現地の風景を見ながら背景を描きたいなとは思ったんだけど……。
さすがにね?フランスに飛んでくれとは言えないよね……ユーガにはさ』
「そうだね。もっとお金持ちの人に取り憑けば良かったね。
——まあお金に恵まれた人で自殺志願者がいるのかって話だけど」
優芽が皮肉を込めて言うと、蓮夜は苦笑いをした。
『はは……まあ、お金があっても不幸な人は沢山いるよ。
それはともかく——場所はローヌ川じゃなくていい。
だけど川辺を背景にして描きたいんだ』
優芽はため息を吐いた。
『面倒だなと思ってる?』
「部屋ン中でダラダラ描いてりゃいいのかと思ってた。
絵を描くためにわざわざ移動しなきゃならないとか、ちょっと怠い」
『川辺ならどこでもいいんだよ、そんな遠い場所じゃなくても。
良い感じに景色が綺麗な河川を見つけられればより嬉しいけど』
「首都圏の川はそんなに澄んだ色してないけど」
『そこは多少、色味で調整する。
近場にない?良い感じの川辺』
「……徒歩圏内に多摩川があるな」
『タマちゃんね!アザラシに会えるかも!』
「情報が古いんだよなあ……」
こうして二人は、絵を描く場所を探すロケハンの旅——徒歩圏内——に出た。
「——ほら。もう多摩川が見えて来たよ」
歩き始めて10分程度。
優芽が視線を上げてみせると、蓮夜の視界にもその光景が飛び込んできた。
広い河川敷の先に多摩川が流れ、その奥には東京側の景色が見える。
『あのビルが集中してるとこは?』
「ニコタマらへんかな」
『にこたま?』
「二子玉川。俺みたいな貧乏人じゃ住めないようなところ」
『えー。川を渡ったらすぐなのにね』
「あっちとこっちじゃ、まず県が違うからね。
日本は地形的に、山とか川で町村とかの住所が区切られてるところが多いんだよ。
多摩川を挟んでこっち側が神奈川、向こうが東京ってわけ」
『ユーガ、博識〜』
「ずっと住んでる場所だしな。
ってか、レンヤの自宅からすぐじゃん。
なんでレンヤは多摩川が徒歩圏内にあることを知らないんだよ」
『あー……』
蓮夜は少し言葉に詰まっている様子だった。
「どうかした?」
『……いや!うん、そうだね。
この辺に住んでるのに、この辺のこと、全然知らなかったな。
せっかく日本まで来たのに、日本をあまり見て回らないうちに死んじゃったんだな、俺——』
途端、しんみりした空気になる。
バツの悪くなった優芽は、「で」と話題を変えた。
「ここからの景色、どう?」
『ん、悪くない。
向こうにビルが見えるから、夜景も綺麗かもしれないね』
「確かに夜もまあまあ明るいかもな」
『日が沈むまでここにいて良い?』
「……いーけど」
優芽は河川敷沿いに設置されたベンチに腰掛けた。
はたから見れば、男子高校生が一人で河原を見て黄昏ているように映るだろう。
しかし優芽は日が沈むまでの間、ずっと蓮夜と会話を続けていた。
「そういえばさ、蓮夜は俺の身体に入らないと身体を動かすことはできないけど、
俺の口を使わなくても会話はできるんだな」
『正確には、ユーガの脳内に語りかけてる感じ?
実際に声帯を震わせて、空気の振動となって発信されているわけじゃなくて、
俺がこう喋りたい、っていう念みたいなものを飛ばすと、それがユーガの頭の中にはダイレクトに伝わる、みたいな?』
「なるほどね。
じゃあやっぱり、分かってはいたけど、傍目からすれば俺は一人で喋り続けてる感じに映るんだ」
『恥ずかしい?』
「ってか、やべー奴だと思われてんだろな、って」
『死のうとしてたのに、周りに気を遣うんだね』
蓮夜は優芽と同じ景色を瞳に映しながら呟いた。
『自死って、自分を死なせることでしょ。
それって自分に対して優しい行為ではないよね。
ユーガは自分に優しくないのに、他の人たちのことは気にする優しさを持ってるんだ』
「自分に優しく、って言うけどさ。
どうやったら自分に優しくできたって言えるわけ?」
優芽が切り返す。
「自分を甘やかすことが優しさ?
嫌なことから逃げるのが優しさ?
——それができるなら、とっくにやってる。
自分を甘やかすことも、逃げることも許されない環境だから、俺は死に救いを求めたんだ」
『それでも……。
俺はユーガのような前途ある若者に、命を絶って欲しくはないよ』
蓮夜が静かな声で告げる。
『もし、俺が成仏できるってなってもさ……。
ユーガがその後こっちに来てしまわないか心配で、結局この世に居座っちゃうかも』
「うざいから、とっとと成仏してよ」
『今時の若者ってみんなこうなの?
ユーガってたまにチクチク言葉使うよね』
蓮夜がむすっとした声で言うと、優芽はくすっと笑い声を上げた。
「っくく……。
逆にレンヤは、古めかしかったり、子どもっぽかったり、変わった言葉遣いをするよな」
『俺のは親から仕込まれた日本語だから』
「そういや、フランス語も話せるんだっけ。
なんか話してみてよ」
『ボンジュール』
「ベタ過ぎん?」
『だって流暢なフランス語で話しかけたところで、ユーガは意味を理解できないじゃん。
一単語で伝わるような言葉がちょうど良いでしょ』
「じゃ、ボンジュール以外で。
今この景色を見ての感想とか」
『……セ・マニフィーク、かな』
「意味は?」
『ググれカス』
「!?」
『あれ?日本で流行ってない?この言葉』
「古いよ……。
あと、俺の中に居候している身分の相手からカスと言われるとは思ってもみなかった」
優芽はそう言いつつ、大人しくスマホで検索してみた。
「素晴らしい。綺麗。見事……そんな感じの意味?」
『そーそー。日本語だとそんな感じ!』
「あーでも、確かに……」
話しているうちに日が落ちかけ、空は赤い夕焼けに染まっていた。
眩しい西日が水面に反射し、キラキラとした光の粒がいくつも煌めいている。
「この夕日は、確かにセ・マニフィークって感じかもな」
その後、どっぷり日が落ちるまでベンチに座っていた優芽。
「……一つ、言って良い?」
『良いよ』
優芽は辺りに広がる暗闇を見つめながら告げた。
「街灯の灯りとか、二子玉川駅を行き来する橋の上の電車とか、確かに雰囲気があって綺麗なとこだよ。
ここで絵を描くのには申し分ないロケーションって気がしてるよ」
『奇遇だね。俺もここ、ベストポジションかもって思い始めてたとこ』
「ただ、さ——暗すぎて、手元が見えなくない?」
座っているベンチの辺りには街灯はなく、イーゼルにキャンバスを載せても辺りの闇に溶け込んでしまいそうな始末。
「これじゃ筆を持っても、手元が見えないんじゃない?」
『それな』
「撤収するか」
『——あ、でもさ』
蓮夜は立ち上がりかけた優芽に呼びかけた。
『さっきの夕焼け、すごい綺麗だった。
あの時川に映っていた水の色を描いてみたいな』
「あれがいいの?」
『あれがいい!』
「……レンヤがそれで納得して成仏してくれるってんなら、いいけど」
優芽は立ち上がり直すと、自宅へ帰るため歩き始めた。
「いいけどさあ——
夕焼けが見れる時間って限られてるよ?
俺、いつもこの時間にここへ来れる訳じゃないし、絵を描けるタイミングがそう多く取れない気がするけど」
『まあ、ざっくり構図と色合いを決めたら、細かい作業はアトリエでもできるから』
「うげ、そうか。絵を描くたびに、一回レンヤんちにも立ち寄らないといけないのか」
『まあまあ。腹ごなしの運動だと思ってさ』
「今日はチキン食ったから良いけど……。
毎日ちゃんとしたもんが食える家庭じゃないからさ」
『ユーガは食事作ったりしないの?』
「するよ。母親が家にいない時はね。
でも一緒に家で過ごす時は、手料理を食べさせたいんだとさ。
——俺が太ったり、痩せすぎたりしないよう、カロリー計算したいから。
俺の身体は商品だからね」
『でも二日連続でトンカツ出して、しかも二日目は腐ったトンカツでしょ?
カロリー計算ほんとにしてんのかって気がするけど』
「それな。でもそこを指摘するとヒステリー起こすから……」
『ああ……』
蓮夜はなんと声を掛けたらいいのか分からず押し黙った。
自宅に着き、その日はバイトがないからと、夜は授業の復習の時間に充てた。
『そういえば、まだ帰ってきてないね。ママ』
黙々と公式を解いていた優芽に蓮夜が話しかけた。
「今日は彼氏んとこにでも泊まってるんだろ」
『えーっ。未成年の息子を家に残して?
いや、未成年の息子に買収斡旋してるママだからな……そっちのがマシなのか……』
「そ。あの人は自分が家にいる時しか客を連れて来ないから」
『なんで?』
「自分の知らないところでオプション付けられて、取りっぱぐれるのを避けるためだよ。
終わった後に家にいれば、客から直接申告してもらえるでしょ」
『でも、黙ってればオプション代って誤魔化せるもんじゃない?』
「一応、客が帰る前に俺からその日に発生したオプションを報告するシステムになってる。
昨日の客達は、やったことを母親に全部報告してお金払ってた。
母親からは、もし客が申告してないオプションがあったら、その場で俺が伝えるように言われてる」
『なるほどなあ……』
って、感心するような話じゃないだろ。
蓮夜は慌てて自省した。
『それにしても、息子に売春させて、自分は本命の彼氏とお泊まりデートかぁ。
……そういえばユーガはいないの?付き合ってる人』
蓮夜が尋ねると、優芽の公式を解く手がぴたりと止まった。
「……」
『あ、話しにくいことだったら別に——』
「俺さあ」
優芽は蓮夜の言葉を遮るように言った。
「わっかんないんだよね。
中学に上がる前くらいから、男も女も相手にさせられてきたから。
自分の性の対象が男なのか女なのかもわかんない。
恋愛ってものをマトモに経験する前に、身体で重なることを覚えちゃったから」
『……そっか……』
「反応に困ってんじゃん」
『うん……聞いといてごめん……』
「ちなみに告白されて付き合ったことなら何度かあるよ。
でも身体の接触が、どうしても本能的な嫌悪を感じてしまう。
他人に身体を触られるようなことをされると、客と区別がつかなくなるっていうか。
それでキスから先の関係になりそうになると、自分からフェードアウトしてしまう癖がついた」
『じゃあ彼女は何度かできたことがあるんだね。
キスも——経験済みなんだ』
「キスくらいなら、フツーにするよ」
フツーの人は、キスやそれ以上をするとしたら、ちゃんと『好きな人』とするんだろうな。
優芽は自嘲気味に思った。
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