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ローヌ川を重ねて②

俺は『好きな人』との経験はまだ何もない。 人を好きになったことがないから。 恋愛を知らないのに、色んな人間の身体を知ってるなんて、滑稽な話だよな。全く。 『えーと、じゃあさ……』 蓮夜は少し気恥ずかしそうに尋ねた。 『自分でする時とか……は、男性と女性、どっちをオカズにしてんの?』 「今俺、アラサーの幽霊に下ネタ振られてる? すっげえシュールだな」 『あ、ちなみにシュールって言葉はフランス語が由来ですん』 「逸らすなよ」 『すいません。アラサー幽霊の出来心です。 ……いやほら、これから暫くこの身体に同居させてもらうわけだからさ。 ユーガがしたくなった時、席を外す……は出来ないけど、強制的に意識を飛ばすくらいはやれなくもないかな、と思って』 蓮夜がこそこそ、と耳打ちするような囁き声で言うと、優芽はあっさりと答えた。 「心配しなくても、俺、しないよ」 『マジでぇ!?』 蓮夜は、実体があったら飛び跳ねていたのではないかというくらい驚いてみせた。 『えっ……えっ……。 しないの……?マスタベイション?』 「ちょっと発音良くして誤魔化すな。 ——嫌でも数日おきに出させられるから、自分で処理しなきゃいけないほど溜まらないんだよ」 『……お客さんに抜かれても、ちゃんと気持ちよくなれてる……?』 「自分の感覚で確かめてみればぁ? ちょうど明日はお客さん連れて来られる日だし」 優芽が意地悪く笑ってみせると、蓮夜はあわあわと動揺した。 『えっ。えっ。あれ、でも昨日の二人のお客さんの時は射精してなかったよね……? することもあるってこと?』 「出させられるのもオプション」 『すげえ。君のママ、何にでもオプション付けるんだね。 てか事後にそれ母親に報告させられるの、きついな』 「むしろ俺が出した時より、俺が中に出された時の方が、オプションが発生したか必ず聞かれるよ。 尻の中に出されると腹壊すからさ、翌日のバイトに影響することもあるし」 『ふ、ふ〜ん……? そういうものなんだあ……?』 「すんごい人の性事情に踏み込んでくるじゃん、この幽霊」 『ははっ。29はまだまだ若いですからな!』 軽口を叩き合いながら、優芽はふと思った。 母親がいない夜は、平穏に過ごせる夜だった。 家に誰もいない時の方が、心穏やかに居られる。 その時間が何よりの癒しだった。 けれど、蓮夜に出会ってからのここ三日、蓮夜とお喋りしながら過ごす夜も悪くない。 でも——やっぱ深入りはよそう。 いずれ俺の身体から抜けていって、消滅する存在なんだから。 成仏したらそれっきりの相手と友情のようなものが芽生えたとして、そこには何の生産性もないのだから。 ……桔梗坂蓮夜。 もし生きて会うことがあれば、どんな風に出会っていただろう。 家は思いのほか近かったけれど、歳が一回り離れていて、俺の専門分野外である芸術の世界に生きている人間。 フランスでの暮らしが長くて、それにちゃんと——異性の恋人がいる。 絵を描くって、お金がかかることだ。 画材道具もそうだけど、絵だけで食べていくのが難しい世界だから、絵を描くために働かなきゃならない。 絵を描くために、お金を稼がなければならないって事は、つまりお金がかかるということ。 それにもし美大を出ているなら、美大の学費は普通の大学の比じゃないはずだ。 そんな、金銭的余裕がなければ続けられないようなことを仕事にしている人間なのだから、蓮夜はたぶん、お金に困ってはなかったと思う。 俺みたいに、食う金に困って売春させられて、大学にも行かせてもらえないような高校生活は送ってこなかっただろう。 フツーに生きて、そして死んでいったアンタが羨ましいよ。 そう考えたら、蓮夜と良い友情を結べるかもしれない——とほんの少し期待した気持ちを、うまく掻き消すことができた。 翌日、学校から帰ってきた優芽は、またシャワーを浴びて仕事着に着替えた。 しかし今日は学校の制服姿ではない。 『ええ……。何、この格好』 「これもオプション。衣装の指定も有料でやってるんだ、母親が。 衣装代はお客さん持ちで」 『にしたって、チアリーダーて。 ミニスカート姿とか、人生で初めての経験だよ』 「俺もだわ」 優芽がチアリーダーの衣装で玄関で客を出迎えると、客は嬉しそうに顔を輝かせた。 「今日は先輩のこと、一生懸命応援します!」 棒読みでそう言うと、手作りのポンポンを両手で振ってみせる。 ポンポンを作ったのは客だ。 「いやー、嬉しいな。 学生時代、アメフト部で最後までレギュラーになれなくてね。 こんな風にチアの子に自分の名前を呼んで応援してもらいたかった夢が叶ったよ」 『本気で夢を叶えたいなら、男子高校生にコスプレさすなよ』 蓮夜が独り言を呟いた。 「……ぶっ!」 その瞬間、優芽が噴き出す。 「なっ……」 「ちょっと、ユーガ君!?」 客の目の前で噴き出した優芽を見て、唖然とする客と、その後ろで目尻を吊り上げる都。 優芽は慌てて真顔に戻ると、 「先輩。お部屋に案内しまーす」 と棒読みで背を向けた。 優芽は階段を登りながら、心の中で蓮夜に文句を言った。 噴き出してしまうようなことを囁くなよ!! ——部屋の戸を閉めると、客は早速優芽の唇を奪ってきた。 「んっ……」 優芽が心の籠っていない声を漏らすと、客は満足げに歯を見せて笑った。 「ユーガ君と言ったっけ。 いやー、可愛いなあ……。現役の高校生なんだって?」 「はい!先輩と同じ高校に通ってます!」 「あ、キャラ設定はもういいから。 こっからはもうヤるだけだし」 それを聞いた優芽が「ならば」と、さっさと衣装を脱いでしまおうとすると、客は慌ててそれを止めた。 「服は!!チアリーダーの!!ままで!!」 「っ、はい……」 「着衣エロもオプションのうちなんだから! 終わりまでちゃんと身に付けててよね!」 客は憤慨しながら言うと、優芽の露出した肌に舌を這わせていった。 生温かい舌が、お腹や二の腕、太ももをねっとりと這っていく。 優芽——そして蓮夜は、その感覚にぞわぞわと身悶えしながらも、この時間が早く過ぎてくれることを祈っていた。 「ユーガ君はさあ、オプション付ければ生でもやらせてくれるんでしょ?」 「そうですね」 「SMも対応できるんだよね」 「可能な限り」 「それって実質、NGナシって考えてもいい?」 『いやいや、もっとディープなものあるよ? それこそ◯◯の◯◯とか、××を××するヤツとか……』 蓮夜が客に聞かれることのない独り言をごちる。 「俺さー、アメリカのチアガールみたいな、ブロンドでちょっと生意気そうな感じの子が好きでさあ。 日本人の顔に金パは似合わないから、ブロンドの再現度は求めないんだけど……。 ピアスとかタトゥーなんかが入っていたりすると興奮するんだよねえ」 優芽は思わず後ずさった。 「ね、ユーガ君。ピアスかタトゥー、オプションでやらせてくんない?」 「……身体に痕が残るものは、さすがに……」 「君のママに聞いてみよっか」 「!!」 優芽が止める間もなく、客は部屋のドアを開け、「ママさーん!」と呼んだ。 「なんですかぁ〜?」 一階から都が上がってくる足音が近づく。 「この子、ピアスとかタトゥー、いけるクチです?」 「あー……」 都は、はだけたコスプレ衣装に身を包み、困惑した表情を浮かべる我が子を一瞥して言った。 「タトゥーは専門のスタジオに行かないといけないからね〜。 ピアスなら、ピアッサーがあれば……」 「任せてください、ママさん。 ピアッサーなら持ってきています」 「まあ、準備がいいのね!オプション代は——」 「!!待って」 優芽は思わず叫んでいた。 「ピアスは無理だよ。内申に響いたら——」 「いーじゃない。どうせあなた進学しないんだし」 「っ!」 「学校にバレるのが嫌なら、舌ピなんかがいいんじゃない? あ、喋った時に見えちゃうか。おへそとかどう?」 「っ……」 「まあスタジオでやってもらうわけじゃないし、無難に耳がいっか。 お客さん、片耳でこんくらいね」 都は客に向かって両手の指をパッと開いてみせた。 「取るねえ……」 「この子の『初めて』を奪うんだから、それくらい上乗せさせてもらわないと!」 「確かに。男子高校生のファーストピアスを開ける権利を買ったと思えば……。 俺がこの子に一生の痕を付けるってことだもんなあ」 「じゃ、あとは二人でごゆっくり〜」 「っ……!」 客がじりじりと近寄ってくる。 嫌だ。怖い。 助けて。 「たすけっ……レン——」 ——そうだ。 レンヤに頼んだところで、実体のないこいつにできることなんて何もなかったな。 優芽は抵抗するのを諦めて、大人しく片耳を差し出そうとした。 その時—— 自分の意思と関係なく、両手が動く。 『優芽の手』は、客の手からピアッサーを踏んだくると、客の上に馬乗りになった。 一瞬のことで、何が起きたのか理解できていない様子の客の耳を引っ捕まえると、 素早くピアッサーを耳たぶに当てがい、力強く押した。 ガシャン。 大きな音が鳴り、次の瞬間には、客の片耳にピアスが通っていた。 「なっ……。な……!?」 客は起き上がり、自分の耳をペタペタと触った。 「穴っ……、穴が空いてる……!?」 『開けたがってたじゃん、穴』 呆然とする優芽のそばで、蓮夜の声が響く。 それを耳にした優芽は、今の一連の行動は蓮夜の意思による動きだったとようやく理解した。 『似合ってるよ、この客に』 「お似合いですよ、お客さん」 優芽は、蓮夜の言葉の後に続けるようにして口を開いた。 「は……っ、はあぁ……!?」 客はまだ動揺した様子で、耳に手を当てながら怒鳴った。 「ふっ、ふざけるなあっ!! 俺は——俺は会社では真面目にサラリーマンやってんだぞっ! こんな良い歳した男の俺がピアスなんか付けて出社したら、どんな後ろ指を指されるか——」 「ピアスを外して出社したらいいじゃないですか」 「馬鹿か!?外してもピアスの痕は残るんだよッ! 一度開けたら、簡単には塞がらないんだからな!?」 「それは大変ですね。 俺の耳に穴が開かなくて良かった」 「こんの——」 「何の騒ぎィ?」 そこに、客の怒鳴り声を聞きつけた都がやってきた。 「このガキ……っ、あんたのガキが、俺の耳にピアスを開けたんだよ!!」 「あらっ。おしゃれ〜」 「あんたまで頭イッてんのか」 「えー?男のピアス、セクシーで良くない? あたしのカレも、トラガスとヘリックスに開けてるし」 「あんたの男と一緒にするな!! ——とにかく、さっき払った金は返してもらうからな!」 客は憤慨しながら一階に降りて行き、都は「返金!?うそ、待っ——」と言いながら慌てて着いて行った。 「……はは、は……」 二人の姿が見えなくなった後、優芽は力無く笑うと、その場にへたり込んだ。 「……あーあ、馬鹿みてぇ……。 ピアスより痛い思いなんて、さんざしてきたのに……」 優芽はそう呟くと、静かに瞼を閉じた。 「レンヤ——さっき助けてくれたの、レンヤだよな」 『余計なことしちゃったかな? お客さんもママも怒ってたね』 「……こりゃ夕飯抜きだな」 『でも、ユーガの初めてを守れて良かった』 蓮夜が言うと、優芽は目を閉じたまま、おかしそうに笑った。 「ははっ、はは……。 俺の初めてなんて、とっくの昔、名前も知らない誰かに奪われてるよ」 『でも、ピアスは開けずに済んだ』 「ああ……。別にうちの校則では制限されてないから、内申には大して響かないと思うけどね」 『でも、ユーガは開けたくなかった。でしょ?』 「ん……、ピアスが嫌というより—— 他人の手で俺の身体に消えない痕を付けられる事がイヤだった」 優芽がそう答えると、蓮夜が「じゃあ」と言った。 『ユーガは、自分で穴を開ける分には抵抗がないの?』 「……好んで開けようとは考えてないけど。 他人に開けられるくらいなら、自分で自分の身体を突き破ってやりたいって思うよ」 蓮夜は優芽の言葉を聞いて、確信したように言った。 『——君は、自分を壊す方、壊す方へ向かってしまうんだね……』 「は?」 『ピアスを開けたくらいじゃ、ユーガは壊れたりしない。 生きてさえいれば、穴はいつか埋まるんだよ』 その日は優芽の予知通り、夕食抜きだった。 お腹を空かせた状態で優芽が布団に入ると、同じように空腹感を抱いている蓮夜が言った。 『お腹減ったね』 「減ったな」 『ママより先にダイエット成功するんじゃない?』 「ダイエットしてないのに成功しちゃうのか、俺」 優芽はごろりと横を向いた。 「……明日は学校も休みで、バイトも入ってない。 多摩川まで絵を描きに行こうか」 『アヴェック・プレジール!』 「なんて?」 『喜んで!って言った』 「突然のフランス語講座にびっくりしたわ」

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