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ローヌ川を重ねて③
次の朝目を覚ますと、都はもう家に居なかった。
彼氏のところへ行ったのだろう、と優芽は言い、朝食の支度を始めた。
「でもラッキーだわ。あの人が家を空ければ、冷蔵庫使い放題だし。
こうして朝ごはんにありつけるってわけ」
『食材使ったのバレない?』
「バレた試しがない。あの人ズボラだから。
冷蔵庫の中、賞味期限切れの食べ物でいっぱい」
優芽はその中から辛うじて期限の切れていない卵やハムを引っ張り出し、ハムに乗せた目玉焼きを焼いた。
「あー、うま」
『セ・ボン』
「今度はなんて?」
『美味しいって言った。短い単語だから通じるかと思ったんだけどな』
「だんだんフランス語マウント取るようになってきたな、このアラサー幽霊」
トーストを口に入れながら優芽が悪態つくと、蓮夜はむっとした声で言った。
『アラサー、アラサーうるさいよ。
ユーガだっていずれは通る道なんだよ?』
「俺がアラサーになる頃には、レンヤはアラ——あ」
優芽はそう言いかけて、静かにコーヒーを流し込んだ。
「……俺はその頃には生きてないし、レンヤはとっくに生きてないんだったな」
『ユーガの場合はまだ確定じゃないけどね』
「確定だよ」
『生きてる可能性も微レ存』
「……もうツッコむのもダルくなってきたな。
可能性が微粒子レベルで存在するとしたら、レンヤがいつまでも成仏できなくて、俺がそれに付き合ってやってる場合とか、かな」
『そんなこと言われたら、俺、絵の完成を引き延ばしまくっちゃうよ』
「やめてくれ」
優芽はため息をつきながら後片付けを始めた。
「俺の自殺願望は消えてないから。
——昨日の客、見ただろ。
あんなんをずっと繰り返しながら生きてかなきゃならないんだ。
着たくもない服を着させられて、開けたくもない穴を開けられそうになって、出されたくない場所に出されたりなんかもして。
自分の意思で自分の身体をどうこうできない人生なんて、レンヤだったら送りたいか?」
『……少なくとも生きていれば、自分の意思で手足を動かせる。
描きたいものが描けるし、好きなところへ行くことができる。
身体を失ってしまった状態より、自由はあるよ』
蓮夜の言葉に、優芽は何も返さなかった。
——その後優芽は出かける支度をし、蓮夜のアトリエに向かった。
「必要なのはキャンバスとイーゼル、あと絵の具と筆?結構重労働だな」
優芽は、多摩川の河川敷まで持ち運ぶ『絵描きセット』が思ったよりも重く嵩張ることに困惑していた。
『画家も案外体力勝負なのよ。お分かりになって?』
「何キャラだよ」
蓮夜と会話をすることで気を紛らわせながら、重い道具を持って河川敷まで辿り着いた優芽。
『夕焼けはまだまだ先だから、ゆっくり背景のアウトラインを決めるところから始めよう』
優芽の意思と関係なく足が動き出す。
「おい。貸すのは手だけじゃなかったのか」
『手足お借りしまーす』
蓮夜は河川敷を練り歩き、一番良い構図を描ける場所を見つけ出すと、そこにイーゼルを置いてキャンバスを広げた。
『鉛筆で下書きしていくよ』
「言われなくても、絵を描くのは任せてるから」
それから優芽は、しばらく自分の手が勝手に動くのをぼんやりと眺めていた。
迷いのない手つきで、サラサラとキャンバスの余白に線を入れていく蓮夜。
よくこんなに迷いもなく線を引けるものだな。
下書きだから遠慮なく描けるってだけか。
そんなことを考えながら、目の前のキャンバスに線が増えていくのを眺めていた優芽。
『ふー。こんなもん?』
実に二時間近く手を動かし続けた後、蓮夜の手が止まり、身体の意思が優芽に戻ってきた。
『下書きは完成。あとはひたすら色を塗っていくだけ』
「もうできたの?あっという間に完成するじゃん」
『ここからが長いんだよー』
蓮夜は、油絵で色を重ねていくためには時間と根気が必要なのだと力説した。
『——で、ホントは今日、夕焼けを待って色塗りを開始しようと思ってたんだけど……』
蓮夜は、優芽に空を見上げるよう言った。
『めちゃくちゃ曇り。これは夕方になっても綺麗な夕焼けは見れないね』
「とすると?」
『俺んちに戻って、キャンバス置いて帰ろう』
「——了解」
道具を片付け、再び蓮夜のアトリエに戻ってきた優芽。
『そういえば、他の部屋どうなってるかな』
画材を戻して部屋を出ようとすると、蓮夜がそう言って呼び止めた。
『寝室とか、空気の入れ替えしたいな』
「もう使わないだろ」
『ユーガが使えばいい』
蓮夜はさも当たり前のように言った。
『この家、相続する人がいないから。いずれは空き家として国の所有物になるだけだし。
家主の俺に代わって、ユーガが管理してくれるなら、ユーガが好きに使ってくれて構わないよ』
「……高校生に一軒家の管理は無理だろ」
『とりあえず、空気は換気したい』
「——はいはい」
優芽は仕方なく、寝室だと教えられた部屋のドアを開けた。
暫く空気が密閉されていたからか、古い家独特の匂いが鼻をついた。
「窓開ければいいんだよな」
そう言ってベッドの向こうにある窓の方へ近づこうとした時。
ふと、ベッドサイドのテーブルの上に何かが乗っていることに気がついた。
「……写真?」
優芽が近づいていくと、そこには一枚の印刷された写真が置かれていた。
「……」
優芽は、写真の中に写っている人物に釘付けになった。
見たこともないくらい、綺麗な顔立ちの青年が椅子に座っている写真だった。
灰色の瞳に、灰色の髪。
日本人離れした顔立ちをしているが、しかしどこか日本人のような印象も拭えない。
目鼻立ちがくっきりとした、20代後半くらいに見えるその青年は、写真の中で穏やかに微笑んでいた。
「……綺麗だ……」
そう呟いていた。
無意識のうちに出てきた言葉だった。
『照れる〜』
すると、蓮夜の声が聞こえてきた。
『見惚れちゃった?それ、俺』
「——嘘だァ!?」
思わず、反射的にのけ反ってしまった優芽。
「こっ……こんっ……な……!
こんな美青年の幽霊が、俺に取り憑いてるとでも言うのかよ!?」
『事実なんだよなあ』
「これがレンヤ……!?
アラサー幽霊むっつりスケベ早死に画家のレンヤなのか!?」
『なんという罵詈雑言』
蓮夜は苦笑しながら言った。
『その写真で自画像を描いてみようと思ってたんだよね。
それより先にあの絵を完成させなきゃって、自画像用の写真を撮るだけで作業止めちゃってたけど』
「嘘つくなよ……。
レンヤがこんなイケメンなんて信じられるかよォ……」
『なんでショック受けてるの?
イケメンハーフ超絶絵の上手いお兄さんに取り憑かれるのがそんなに悲しい?』
「ほらぁ……こんなふざけたキャラなのに、写真の中のこいつはこんなにイケメンで……脳がバグる……」
優芽はふらふらとした足取りで、とりあえず窓を開けた。
外の空気を吸って、少しでも冷静さを取り戻そうと考えたらしい。
「はーっ……、すぅーっ……」
『深呼吸するほど乱れてたの?俺の顔見て』
「……実際、変な感じだよな。
今まで顔も何も知らなかった相手の顔をいきなり知るって」
『しかもイケメン』
「そう、イケメン——って、自分で言うのかよ」
『ユーガがそう評してくれたから』
「……否めないのが悔しい」
優芽は改めて、写真の中をまじまじと覗き込んだ。
涼やかな目元、すっと通った鼻筋、長い手足。
童話の中に出てくる王子様のような風貌をしている。
「……本物の王子様なら、シンデレラを見つけてくれるし、白雪姫を生き返らせてくれるのにな」
ぽつりと呟く。
そしてハッと口元を覆ったが、遅かった。
『王子様?王子様に見えちゃった?俺のこと』
「レンヤのことだとは言ってねえし!
てか、もう名前がおかしい!
なんだよ桔梗坂蓮夜って。
お前そんな和風な名前似合わねえだろ!」
『酷いな。これでも半分は日本人の血が流れてるんだよ?
——まあ桔梗坂蓮夜は芸名だけど』
「芸名かよ!やっぱりな!!」
優芽は声を荒らげた。
「こんな珍しい苗字と名前の組み合わせ、ほんとに居るのかって疑ってたから!
つうか芸名で俺に近づいたのかよ!」
『もういいでしょ、本名とか。
俺はレンヤ。君はユーガで浸透した関係なんだし』
「良くない」
『それにさあ、ユーガだって相当珍しくない?そっちこそ本名です?』
蓮夜が煽ると、優芽はムッとして言った。
「俺は間違いなく本名だよ……ッ!
強いて言うなら——ほんとはあの母親、女の子が産まれてくることを期待してたっぽくて
『優芽』と書いて『ゆめ』と読ませるつもりだったらしい。
それが産まれてきたのがこの通り男だったから、漢字は変えず読みだけ『ゆうが』って男っぽい響きに変えたんだとよ」
優芽が名前の由来を告げると、蓮夜は『へーそうだったんだー』と返した。
『で、ユーガ氏』
「なに」
『見目麗しい俺の姿を見て、絵を描くモチベーション上がった?』
「あがんねえよ。
描いてるの背景だし、モデルもお前じゃないだろ」
『つまり俺がモデルだったらモチベもアップしたと?』
「はあー?」
優芽はため息をつきながら、ぼふっとベッドに倒れ込んだ。
「はー、疲れた。
歩き通し、絵描きっぱなしで午前中から活動して……。
——ちょっとここで寝てっていい?」
『構わないけど。カビ臭いよ?』
「腐った肉よりマシ。おやすみ」
そう宣言したものの。
優芽はなかなか寝付けなかった。
身体は疲れているはずなのに、なぜだか頭は覚醒している。
さっき見た、写真の男が頭から離れない。
なんなんだよ。
あいつ本当に蓮夜なのか?
見た目の凛々しさと中身のギャップありすぎだろ。
気がつくと優芽は、再び写真を手に取っていた。
じっくりとその顔を眺めていると、不意に下腹部に違和感を覚えた。
——いや、まさか。
『なんか、股間熱くない?』
その時、蓮夜の声が聞こえてきた。
「っ!!」
優芽は慌てて写真を戻したが、遅かった。
『もしかして興奮してるの?俺の写真見て』
「しっ……してなっ、そんなわけ——」
優芽は慌てて立ち上がり、キャンバスの前に戻ると、じっと絵画を見た。
先ほど感じた身体の違和感を掻き消してしまいたかった。
冷静さを取り戻すために、絵を見るなんて行為は生まれて初めてのことだった。
これからこの背景に色を塗っていくことになる。
鮮やかな夕焼けの色を、余白の白い部分すべて塗り潰すようにして。
そんな中、やはり中心に居座る人物に目がいってしまう。
この綺麗な人が、レンヤの恋人なんだな。
……敵うわけないよな。
でも。
「レンヤ。この絵、完成させるから」
『ありがと』
「完成させるから、その代わり、さ——」
『うん?』
「完成したら、この絵——俺の手で届けさせて。この絵のモデルの人に」
——それからおよそひと月。
バイトのない日は蓮夜のアトリエに寄り、画材を持って多摩川へ通うことが日常となりつつあった。
その過程で、嫌でも目に入ってくる、黒髪の美女。
艶やかな長い髪は、自分が持っていないものの象徴のように感じてしまう。
そして印象的な深い色の瞳が見つめてくる、キャンバスの向こう側——
そこで筆を取っているのは、俺ではなく、俺の身体を借りたレンヤだ。
……あの写真を見てしまったせいだろうか。
あれ以来、なんだかレンヤのことをどんな風に受け止めればいいのかわからない。
そして——レンヤが大切な人だと称するこの女性に対しても、関心が強まっていく。
レンヤに愛されて、こんなにも魅力的に絵として描き残してもらえた女性って、どんな人なのだろう。
彼女は、レンヤがもうこの世にいないことは知っているのだろうか——
日に日に背景の色数が増えていくのを見届けながら、優芽は尋ねた。
「この女の人を描いた時は、フランスに住んでたんだよね?」
『そうだよ。フランスに居る時に、彼女にモデルになってもらった』
「じゃあ、モデルの彼女は今もフランスに住んでるんだ」
『……そうだね。
だから——この絵が完成したら、ユーガに届けてもらおうかな、フランスまで』
「なんか嬉しそうだな」
優芽は、蓮夜がやけに明るい声で言うのが気になった。
彼女と再会できるのが待ち遠しいのだろうか。
そう思ったが、そうではなかった。
『これで、フランスの地に降り立つまで、ユーガは死ぬことができなくなったわけだ』
「あ——」
そうだ。
俺は一日でも早くこの世から消えて、楽になりたいと思っていた。
それなのに——
蓮夜と一緒に絵を描きながら過ごす、この日常にいつのまにか馴染み始めている。
この絵の完成が待ち遠しいなんて。
そして絵を届けると言う口実で、蓮夜が愛した人と対面することを期待しているなんて。
会ってどうするんだよ。
この絵の人にとって蓮夜は恋人でも、それを届けにいく俺は縁もゆかりもない他人だろ。
俺は蓮夜の声が聞こえているけれど、この人には蓮夜の姿も、声すらも感じない可能性が高い。
そんな相手の元に俺が突然現れて、『桔梗坂蓮夜さんから預かってきました』なんて告げたところで、怖がらせるだけだろ。
第一、フランスに行く資金なんか作れるわけがない。
『暗くなってきたね。そろそろ帰ろうか?』
蓮夜が提案すると同時に、両手の自由が戻って来る。
「……」
『……ユーガ?』
「……フランスって、いくらあったら行けんの?」
『えっ』
蓮夜は少し考えるように言った。
『——時期と航空会社にもよるけど、飛行機代と、ある程度滞在する費用を合わせて……
2、30万はかかるだろうねえ……』
「2、30万……」
その金があったら、色んなことができる。
大学の年間の学費には届かないけれど、俺が想像しうる欲しい物はなんだって買える額だろう。
——でも。
もし、俺がバイトで稼いだお金——客が母親に渡している金額を丸ごと俺が受け取れるとしたら……
十数回バイトして耐えれば、それくらい貯まるんじゃないのか?
「……じゃあ、さ。
もし——仮にだけど、自由に使えるお金がそれくらい貯まったら——
俺、ほんとに絵のモデルに会いに行っていい?」
『いや、けど……。
絵を届けるためだけにそんな大金を使うのは勿体無いよ』
「何言ってんだよ。
たった今、レンヤが俺に絵を届けて欲しいって頼んできたんだろ」
『……本当にそれが叶うと思って言ったわけじゃ——』
「俺はただ——完成した絵がモデルの元に届けられないせいで、レンヤが成仏できなかったら、ずっと取り憑かれ続けるのがダルいってだけだから……ッ」
ユーガが言うと、レンヤは困ったように笑った。
『そっか。そうだね、確かに俺がいつまでもそばにいるのは、ユーガに迷惑かけちゃうね』
優芽は何も答えなかった。
その数日後——
その日、優芽はバイトの予定は入っていなかった。
この日もまた都が彼氏の家へ転がり込んでいるため、客を連れて来ることはない。
優芽は自室の机から小さな紙切れを取り出すと、スマホを開き、電話アプリを立ち上げた。
「——優芽です」
『ユーガが電話をかけてる?
珍しいな、いつも学校の友達とはメッセージアプリでやり取りしてるのに』
蓮夜は不思議に思い、ユーガの話す声へ意識を集中した。
「はい、良かったら、また……。
母を通さなければ、金額面も相談できます」
『……なッ』
「——はい。今夜、待ってます」
ユーガが電話を切ると同時に、蓮夜は声を張り上げた。
『な……にしてたの?今!』
「客引き」
『どうしちゃったんだよ、ユーガ!?』
蓮夜は動揺し、自然に早口になっていた。
『今自分からお客さんに売り込みの電話かけてた!?
なんでそんなことするんだよ。
せっかく、ママがいなくて自由に過ごせる日だろ!?』
「——気づいたんだよね。
あの人を介さなければ、客の金、丸々俺に入るじゃん」
『……っ』
「そしたらフランスに渡航する金だって、すぐに——」
バシン!!
一瞬、何が起こったのか、優芽には理解できなかった。
無意識のうちに、優芽は自分の頬に平手打ちを決めていた。
「痛ッ……」
『ユーガ、よく考えて!
自分の意思で売春しようとしてるんだよ!?』
「——やることは母親が斡旋してる時と変わりないだろ。懐に入る金額が違うだけ」
『変わる!全然、意味が変わってくる!』
蓮夜は必死で、優芽を説得しようと語気を強めた。
『今までのユーガは、母親の被害者だった。
母親に無理やり客をつけられて、その環境を受け入れざるを得なくて従っていた。
でも自分から客を引いて来るのは、もう母親とやってることが変わらないんだよ!
ユーガは自分のことを加害者にしてしまったんだよ!!』
「俺が……加害者?」
優芽は蓮夜の言葉を繰り返した。
「意味、わかんない。
電話をかけた相手は、もう何度も俺をリピートしてる常連客だよ。
いつもは母親と客とでやり取りしているのを、今日は俺が窓口に立っただけ。
客とやることは変わらないんだけど?」
『……そうまでして、フランスに行って欲しいと思ってない』
蓮夜は声を震わせた。
『——絵なんて国際便でも送れる。
俺はユーガに、身体を売ってまでフランスへ行って欲しいなんて思ってないから!』
「言ってることがさっきと違うじゃん」
『俺はただ、ユーガに自分を大切にして欲しいだけ。
ユーガが自分を殺そうとしたり、自分を売ろうとしたりするのを止めたいだけなんだよ……!』
「お節介はやめろって言ったろ!
俺がこんな暮らしを送ってること——
レンヤにはどうにもできないことなんだから!」
優芽が叫んだその時、玄関のチャイムが鳴った。
「……はっや。さっきのお客さん、もう来たみたい」
『!——出なくていいよ』
「出なきゃお金稼げないだろ。
……せっかく生きてるうちにやりたいこと——フランスに行ってから死のうってモチベができたんだ。
レンヤの恋人に一目会ってから死のうって」
「!……ユーガ、待っ——」
蓮夜が止まるのを待たず、優芽は玄関を開けた。
するとそこには電話をかけた常連客・富田の姿があった。
しかし、その背後に見慣れない人影が二人——
「電話くれて嬉しいよ、ユーガ君」
「富田さん。……その人達は……」
「ああ。せっかくユーガ君から誘ってくれたしね?
いつもなら『ママNG』の出るオプション、付けさせてもらおうかと思ってね」
「NG……?」
あの母親がNGを出していたオプション?
そんなものがあったのか……?
「今日は僕の『遊び仲間』の後輩たちを連れてきたんだ。
僕を入れて一度に三人の相手、頼んだよ」
——それは優芽の想像を超える苦痛だった。
三人の若い男達全員を満足させられるよう、休み無しで身体を酷使しなければいけない。
挙げ句、三人のうちの誰かが手持ち無沙汰になるようなことがあれば、容赦なく蹴りを入れられる。
「こいつマグロっすか?超トロいじゃないっすか」
「若いのにダメだねえ、ユーガ君。
ほら、浜野くんへの給仕が疎かになってるよ?」
「稲沢のココも暇になってまーす」
三人の男は笑いながら優芽に暴力を加えた。
そして優芽が要求された体勢を取るたびに、カメラのシャッターが切られる。
「未成年ですけど、写真大丈夫なんすか?」
「ああ。チェキもオプションでOKだから。
ま、アップロード先は鍵垢とか会員制サイトに限るってのが条件なんだけどさ」
「って言いながら先輩、それ鍵ついてない垢にアップしてるじゃないすか!
先輩まで足着いたらどうすんすか」
「大丈夫、大丈夫。ユーガ君はハタチって設定だかんね。
成人のエロなんて検索次第でゴミのようにネットの海から拾えるんだから、この子の裸が一枚二枚流れたところで目をつけられたりはしないさ」
「いやあ……、こんなことしてる俺らが言うのもなんスけど、こんな写真が一生残るとか、ちょっと同情しちゃうなー……ははっ」
『あいつら、一般のSNSにユーガの写真流してる……。
まずいよユーガ……。
将来、あんな写真が万が一にもクラスメイトの目に入るようなことがあったら、学校にだって——』
「いいよ」
優芽は静かに言った。
「これ以上堕ちることもないくらい、地の底にいるし。
——将来のことなんて、俺には無縁だし」
優芽の言葉は、蓮夜に投げかけられていた。
しかし、蓮夜の声が聞こえない男達にとって、それは彼らに向けて発せられた言葉だと受け止められた。
「達観してるね〜。ユーガくん、大人ァ」
「いやいや。画像が出回ることに危機感持ってない時点でガキじゃないすか?」
「って、流出させてんの俺らだけどな!ははは」
そのとき、蓮夜の声が静かに響いた。
『——将来に無縁な人間なんかいない。
生きてる限り、必ず訪れるのが将来なんだから』
次の瞬間、優芽は信じられないものを目にした。
優芽が一瞬目を離した間に、三人の男達が地面に伸びていた。
……え?今、何が起きて——
『ごめん——こんなことしたくなかったけど』
「!レンヤ……!?」
優芽は、気絶して動かない三人の男を見下ろし、狼狽えながら蓮夜に尋ねた。
「今、何が起こった……?
っていうか俺、今記憶が飛んでたような……?」
『身体だけの約束だったけど——
君の意識も、一時的に乗っ取らせてもらった』
「……そんなこともできたのかよ……。
この人らに何をしたの……?」
『死なない程度に殴った』
「なっ……!」
『あとこの人達の持ってきていた財布から名刺とか保険証とか、氏名や会社の名前が載ってるカードを抜いて写真撮っておいた』
「っ……お前、何やってんだよ……!」
優芽は憤り、慌てて客達を起こそうとした。
「まだお金も貰ってないのに……!
こんなことして怒らせて、謝礼を受け取れなかったら、何のために俺は——」
すると蓮夜は、優芽の手の自由を奪った。
そして優芽の意識と反し、彼の両手は三人の男達の財布を弄り始めた。
『彼ら、ユーガに正当な報酬を払う気はなかったと思うよ』
「どういうこと……?」
優芽が動揺しつつ尋ねると、蓮夜は三人の財布の中身をそれぞれ広げてみせた。
『見て。現金、千円札しか入ってない。
今までのお客さんは必ず現金支払いで、少なくない万札の数を君のママに渡していた。
それなのにこの人らは誰も現金を下ろしてきてない。
——はじめからユーガが動けなくなるまで楽しんだ後、たいしたお金も置いていかずに去るつもりだったんだよ』
蓮夜はそう言うと、今度は彼らのスマホを鞄から抜き、画面を操作し始めた。
『良かった。画面ロックかかってない。
——まったく、危機感足りてないのはどっちだろうね』
「レンヤ、何して——」
蓮夜は彼らの名刺や保険証を、伸びている身体の上に広げて置くと、彼らのスマホで三人の裸を撮影し、SNSのアプリを開いて撮ったばかりの写真をアップロードした。
『未成年の裸をネットに上げた彼ら自身も、同じような姿——ついでに実名つきで流してあげれば、どれくらいのリスクがある行為なのかを知ってもらえると思ってさ』
そのまま蓮夜は、彼らのアカウントから投稿されている画像をスクロールしていき、優芽の顔が写っているものはすべて削除した。
その後は写真フォルダに入っている画像も完全消去し、他の写真保存アプリにバックアップがされていないかを確認していった。
優芽は、そうして蓮夜が淡々と行動する様を、ただ黙って眺めていることしかできなかった。
蓮夜は写真がすべて消えたことを確認すると、男達のスマホを閉じた。
『——ところでユーガ』
「え?」
『パスポート、持ってるの?』
「……持ってない……」
ユーガは、自分がパスポートを所持していなかったことに気付いた。
「……ははっ」
馬鹿だな。
フランスに行きたくて、勢いのまま、客を取ったのに。
「……はじめっから叶わないことのために、俺——」
優芽が項垂れると、蓮夜はこう言った。
『フランスに行く必要なんかないよ』
「……なんで?」
『ユーガ、フランスに行こうとした理由、言ってみて』
「……死ぬ前に、フランスにいるレンヤの恋人に絵を渡して——ついでに顔を拝んでおこうかと思った」
すると蓮夜から小さな吐息が漏れた。
『——ごめん。あれ、嘘』
「うそ……?」
『絵のモデルには、フランスに行っても会えないんだ。
……ユーガに、フランスへ行くために生きよう、ってモチベーションを持って欲しくて……。
だけどそのせいで、こんな無茶な行動を取らせてしまったこと——ほんと申し訳なかったと思ってる』
蓮夜の言葉に優芽が面食らっていると、続けて彼はこう口にした。
『それから——絵のモデルのことだけど。
ユーガはずっと勘違いしているみたいだから言うね。
あの人は恋人じゃなくて——俺の姉さん』
「は……?」
優芽が大きく目を見開いたとき、伸びていた男の一人から唸り声が聞こえた。
「っ——やば、目を覚ますかも」
『一旦、逃げよっか』
「逃げるってどこに!?」
『俺んち行こ。ユーガの姿がなければ勝手に帰るだろうし。
彼らも未成年を買ったことは公にできないだろうから、子どもに殴られたって警察に突き出すようなことはしないと思うし』
「……」
優芽はスマホをポケットに仕舞うと、足早に家を出た。
「——恋人じゃなかったんだ……」
蓮夜の家を目指し、夜道を歩きながら優芽が言う。
「大切な人とか、そんな言い方をするから、俺てっきり恋人だろうなって……」
『ごめんね。
——はじめは、ユーガが勘違いしてるのが面白くて、どこかのタイミングでネタバラシ的に訂正しようと思ってたんだけど……』
「ほんとだよ。
その場で訂正してくれりゃ良かったんだ。
……そのせいで俺は……っ」
俺は——なんだ?
あの絵のモデルがレンヤの恋人じゃなかったから何なんだよ。
レンヤに恋人がいなかったから何だって言うんだよ。
……なんで心から安堵してるんだよ、俺は……!
「——それに!あれが姉さんとか言われてもピンと来ないんだけど?
だって黒い瞳に黒いロングヘアで、見るからに日本人ぽい顔立ちの美人じゃん!
写真で見た……目も髪もグレーのレンヤとは、明らかに似てないのに……」
すると蓮夜は、少し間を置いてから話し始めた。
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