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桔梗坂蓮夜
蓮夜はフランス人の父と日本人の母の間に生まれたハーフ。
母親はフランス語の通訳をしていた。
母は若い頃にも一度結婚しており、その頃に日本人男性との間に娘を産んでいた。
しかし日本人男性が幼い我が子が泣くたびに手を上げるようになったため、母親は娘を連れて離婚。
その後母親は通訳の仕事で食い繋ぎながら娘を育て、その時に日本へ出張に来ていたフランス人——のちに蓮夜の父となる男性と出会う。
彼は母親にプロポーズし、娘を連れてフランスへ移住することに。
そこで蓮夜が誕生し、蓮夜は家族が日本語とフランス語を使う家庭環境の中で育った。
『俺たち四人家族、本当に仲が良かった。
姉さんは綺麗で優しくて日本のことを沢山話してくれて——
俺は行ったことのない日本に憧れた。
母と姉の故郷である日本に、いつか行ってみたいと思いながら大人になった。
……そして……その夢は、望まない形で実現したんだ』
あるとき蓮夜は、自分の描いた絵を売った金で、家族に旅行をプレゼントした。
家族四人は南仏を訪れ、そこでひと月ほど、穏やかな時間を過ごした。
そこにはローヌ川が流れており、ゴッホのファンだった姉のために、蓮夜はこの川を背景にして絵を描いてあげることにした。
しかしこの地で悲劇が起こる。
蓮夜と姉が絵を描くためにローヌ川のほとりに滞在していた最中、宿で休んでいた父と母が強盗に襲われ惨殺されたのだ。
両親を殺した犯人はすぐに捕まったが、絵を描くどころではなくなった蓮夜たちは自宅に戻り、両親の葬式をあげた。
暫く悲しみに暮れていたが、あるとき姉が、日本へ引っ越さないかと提案する。
日本には母親が生まれ育った家がある。
今は誰も住んでいないが、母親が相続していたため、今は自分たちが家の権利を継いだことになる。
フランスに居ても両親を一度に失った悲しみから立ち直れないため、母や自身が生まれ育った場所で暮らしてみないか——姉はそう言った。
幼い頃から日本に憧れていた蓮夜はこれを了承。
画材や、姉をモデルにした描きかけのキャンバスを荷物に詰め込み、二人で日本へ移り住んできた。
元々日本語が話せることに加え、姉が小さい頃住んでいた地でもあるため、幸い生活にはそれほど困らなかった。
日本で暮らし始めて一年が経つ頃、姉が結婚することを告げた。
蓮夜は大いに祝福し、そして描きかけの絵のことを思い出す。
姉の披露宴で、美しい姉の姿を描いた絵を飾れたら、会場がより華やかになるだろうと考えた蓮夜は、絵の続きを描くことを決意する。
ところが——
『……姉さんも亡くなってしまったんだ。交通事故だった』
結婚式を目前に控えたある日、姉は婚約者と共に相手の実家へ挨拶に訪れていた。
婚約者の家が電車の通っていない地方にあったため、婚約者の運転する車で彼の両親に会いに行った帰り道——
高速道路で対向車線をはみ出して来たトラックに衝突され——即死だった。
綺麗だった姉と、見るも無惨な姿で対面を果たした蓮夜は、父と母が殺された日の光景がフラッシュバックされた。
激しく鳴る動機と、絶えず繰り返す嘔吐。
幸せだった四人家族は、もはや自分ひとりになってしまった。
自分にとってはまだ馴染みのない、住んで一年の国に、たった一人残されてしまった蓮夜。
とはいえ成人し、絵の他にもアルバイトで収入を得ていた蓮夜は、一人でも生活を成り立たせることはできた。
再び絵筆が止まってしまった姉の絵のことを頭の片隅に置きながらも、その絵を見ると姉のことを思い出して辛くなってしまうため、他の絵を描いたり仕事をしたりして心の傷を埋めていった。
一人でも、母と姉の足跡が残るこの日本の地でどうにか生きていこうとしていた——
『……けれど俺は、家族の中で一番マヌケな死に方をしたんだ。
立ち入りを禁じられていたあの廃ビルの敷地を、道をショートカットできるからって理由で行き来しててさ。
——腐食した材木がちょうど俺の歩いている頭の上に落ちてくるなんて、なかなかレアなことだよね。
俺は材木の下敷きになって、気付いたら魂だけの姿になってて、あの敷地から出られなくなっていた。
……家族を全員失った俺に、生への未練なんて大して残っていなかったはずなのに。
成仏できないのは多分、あの絵——描きかけの姉さんの絵を描き上げられていないからだって気付いたんだ。
それでユーガ、君に取り憑いたって訳だよ』
話を終えた頃にはとっくに蓮夜の自宅へ辿り着いていた。
電気の通っていない暗い部屋の中、アトリエの中央に立ち尽くす。
月明かりで僅かに照らされたキャンバスには、背景の九割近くが出来上がった絵がイーゼルの上に立て掛けられていた。
「……お姉さん……綺麗だね」
優芽は、そっとキャンバスに描かれた姉の絵を撫でながら呟いた。
『うん。外見も——心もとても綺麗な人だった。
姉さんがいろんな日本語を教えてくれたおかげで、俺も日本語を早くから習得できたしね』
「……あのやたら古臭い流行り言葉とか、お姉さんに教え込まれた言葉だったんだ。
——でも、小さい頃しか日本に住んでいなかったんだから、そりゃそうなるか」
『そうそう。だから日本に移り住んできて、もうチョベリバとか言わない世の中なんだって知って、俺がどれだけ衝撃を受けたか』
「はは。でも古臭い言葉と知った上で、今も使ってるんだな」
『言葉も、姉さんが残してくれた形見だと思ってるからね』
「……そっか」
優芽は床に置かれていた筆を取ると、静かにキャンバスと向き合った。
「この絵を完成させないとな」
暗くて手元が見えにくい中、絵の具を取り、キャンバスに描き込む。
今の自分がしたいこと。
蓮夜の絵を完成させること。
辛いことばかりだった蓮夜が、今なお現世に縛り付けられていることに、あまりにも心が痛んで。
家族に愛されていない自分と、愛していた家族を失った蓮夜。
境遇は異なるのに、蓮夜の心の痛みが自分ごとのように流れ込んできて、胸が苦しい。
少しでも早く、蓮夜を楽にさせてあげたい。
そんな思いで、優芽は夢中で手を動かした。
蓮夜は身体の自由を奪わなかった。
優芽はひたすら、自分の描きたいように手を動かした。
ここ数週間、蓮夜が自分を使って動かして来た手で、それをなぞるかのように残りの余白を埋めていく。
「——これは俺とレンヤの合作だ」
すべての余白が埋まる頃、空は白み始めていた。
「この絵の中には、レンヤとお姉さんとの思い出と……
それからちょっとだけ、俺とレンヤが過ごした思い出も込められてる」
蓮夜はキャンバスの中を覗き込むと、くすりと声を漏らした。
『——ふふっ。ユーガが塗り潰したところだけ、絵のタッチが明らかに違うや。
でも……すごく良い。
なんだか賑やかな雰囲気になって、俺好みに仕上がったよ』
「……成仏できそう?」
優芽が尋ねると、蓮夜はこう答えた。
「うん。ようやく絵も完成したし、それに——ユーガとの楽しい時間を過ごせたから。
ただ……ユーガのこれからが心配で、新しい未練ができちゃったけれど」
すると優芽は、少し考えたあと、口を開いた。
「——そんな心配はいらないよ」
『え?』
「それより、さ……。
レンヤが成仏する前に、俺からもひとつ、頼みを聞いてくれない?」
『……もちろん。
ユーレイの俺にできることがあれば、だけど』
すると優芽は静かに立ち上がり、寝室へと歩いて行った。
どさっとベッドの上に身体を投げ出すと、こう口にした。
「……もう少しだけレンヤとの思い出をくれよ」
『ユーガ……?』
「レンヤの意思で、俺の身体に触れてほしい」
優芽は蓮夜の写真を側に置くと、小さく息を吐き出した。
「……あの絵がレンヤの恋人じゃないって聞かされた時、心の底からほっとした自分がいて——気付いたんだ。
俺、お前のこと……意識してたんだなって。そういう対象として」
『……』
「わかってる。レンヤは俺のこと、ひと回り歳の離れたガキだとしか思ってないってこと。
そもそも男同士だしな。
そんな対象として見れないのは分かってる、だから——」
自然に早口になっているのを自覚し、優芽は顔を赤らめながら、自分の手を頭の上に乗せた。
「あの時みたいに——頭を撫でてくれるだけでもいいから。
レンヤの意思で、触ってほしいんだ……」
すると優芽の意志を離れた自分の手が、優芽の頭を優しく撫でた。
柔らかいタッチで頭の上を滑っていく手に、優芽が目を細めると——
その手は徐々に下のほうへ降りて行った。
そして手はシャツの中に忍び込み、胸元へと伸びた。
「——ッ!?」
優芽は思わず身悶えし、驚いて瞼を開いた。
「な……なに……?」
『——ユーガ、また勘違いしてるでしょ』
「勘違いって……?」
『俺がユーガのこと、子どもだとしか思ってないって。
……そりゃね、取り憑きたての頃はそうだったけれど。
ユーガと身体を共有して、君の暮らしを知って、君の心のうちを知って——
君のことをこんなに知った後で、何の感情も抱かずにいられるわけないでしょ』
「——あっ……」
胸の頂から、甘い刺激が広がる。
思わず声を漏らした後、優芽は目元を僅かに濡らす。
「……こんなこと……ヤじゃない、の……?」
『ユーガはイヤ?ユーガがイヤならやめるよ』
「……ヤ、じゃない……。続けてほしい……」
優芽が答えると、指先が再び動き出す。
そして反対の手も意志を持ち、身体の至る所に触れ始めた。
頬や首、反対側の二の腕や腹を、優しくマッサージするかのように触れていく手に、優芽はほっと心がほどけていくような安心感を抱いた。
気持ち良い。
自分の手の平なのに、触ってくれているのがレンヤだから、レンヤの手で撫でられているみたいで心地良い。
優芽が目を閉じ、蓮夜の与えてくれる温度を感じていると——
やがてその手は、いつのまにか熱くなっていた下腹部を掴んだ。
「ッ……!」
優芽が大きく息を吸うと、その手は上下に動き出した。
「っ……無理してない、よな……?」
『ううん。俺がしたいようにしてる。
——ユーガは、無理してない?』
「……ううん……、嬉しい。
レンヤがそこに触れてくれるのが……嬉しい……」
すると手の動きは徐々に早く、そして力強さを増していった。
「あっ……。あぁ……」
『気持ち良い?ユーガ』
「……ん……」
『俺も気持ち良いよ』
——そっか。
レンヤと俺は、身体の感覚も共有してるんだもんな。
俺が気持ち良いってことは、レンヤも同じだけ気持ち良く感じてるってことだ。
「……身体の感覚と同じくらい……
心もレンヤと同じだったら良かったな……」
優芽がそう漏らすと、蓮夜からこう返ってきた。
『——もし俺に肉体があったら、ユーガのこと、めちゃくちゃ抱きたかったなあ』
「……え……?」
『安心してよ、ユーガ。
心の感覚は共有できないけれど、いま俺、ユーガと同じ気持ちだよ』
「……それって……好き——ってこと?」
おそるおそる尋ねる。
優芽が心臓をバクバク鳴らしていると、すぐ側で柔らかな声が戻って来た。
『そうだなあ。成仏して生まれ変わったら、真っ先にユーガの所へ会いに行くくらいには、君のことが大好きだよ』
「……ッ」
優芽の目元から涙が溢れる。
『……ねえユーガ』
すると蓮夜の手が弱まり、語りかけるような声が聞こえて来た。
『さっき君はさ——ユーガのこれからが心配で未練ができそうって言った俺に、そんな心配はいらないって返したね。
……俺の後を追うつもりだったんじゃない?』
「!!……」
『そんなことさせないよ』
「けど……ッ!
俺、もうレンヤに会えないのは嫌だ……!
でもレンヤが成仏できず、家族に会えないままなのも嫌だ……」
『——自殺しても、君は俺と同じ場所には来れない。
君が死んだら、俺と君は本当に離れ離れになるんだよ』
「そんなこと言ったって!!
俺は元々、とっくに生きることを諦めてたんだ。
それがレンヤに出会って、レンヤと過ごす時間が楽しくて、もう少しだけ生きていようって気持ちになって——
でもレンヤが居なくなったら、俺にはまた、死にたい気持ちしか残らない……」
すると蓮夜は、再び優芽の下腹部を握り締めた。
「ッ!……何して——」
『成仏して生まれ変われたら、ユーガに会いに行くよ』
「……」
『だからユーガは、俺が会いに来るその日まで、ちゃんと生きて』
「……でも……」
『身体を売ることだけが、君の稼げる手段じゃない。
君の人生は、母親のためにあるんじゃない。
ユーガはこれから家や学校以外の世界を知って、もっと大人になって、それから——
もう一度俺と出会ってよ』
生まれ変われたら会いに来る?
そもそも生まれ変わりなんてものがあるのかもわからないのに?
「……そんな不確かな約束はしたくない。
俺はレンヤが俺の身体から離れて行ってしまうくらいなら、レンヤと同じように——」
『ユーガ』
「……ッ!」
だめだ。
レンヤのせいで、勝手に身体が昂って、思考することができなくなる。
レンヤとの別れが近いことを確信しているのに、今はただ、レンヤが与えてくれる快楽に包まれているってことしか感じられなくなって——
『俺ね、ちゃんとユーガに触りたい』
「……え……」
『ちゃんと俺の身体で、ユーガの体温を感じたいよ。
ユーガの手じゃなくて、俺自身の手でユーガの頭を撫でてあげたいし、いっぱい気持ち良くしてあげたい。
今までユーガが受けて来た痛みが全部帳消しになるくらい——
そのためには、ちゃんと生まれ変わって、新しい身体を手に入れなきゃ』
「……絶対……」
優芽は激しくなっていく動きに荒い息を吐き出しながら告げた。
「絶対……会いに来てくれるなら……」
『絶対、会いに行くよ。
だから——ちゃんと生きるんだよ、ユーガ』
「ん——ッ!」
次の瞬間、ユーガはレンヤに導かれ、果てていた。
「……人に身体を触られるの、不快でしかなかった」
明るい陽の光が差し込むベッドの上で、優芽が呟く。
「でも、自分の手で抜いた今は、すげえ気持ちよかった。
……レンヤに触ってもらったから」
優芽は白濁した液のついた手のひらを見つめたあと、ぎゅっとそれを握り締めた。
「もっと早くにレンヤのこと聞けば良かった。
……あーあ。
俺のほうが現世でやり残したこと、できちゃったじゃん」
——もう、返事をしてくれる声も聞こえない。
優芽は果てる寸前、確かに耳元で声を聞いた。
『ジュテーム、ユーガ』
本当かよ。
こんなガキの俺のこと、本当に愛してくれていたのか?
言うだけ言って成仏しやがって。
「賢者タイムに放置されるとか、最悪……」
そう毒付いてみても、もう返事は聞こえてこない。
優芽は静かに起き上がると、大きく伸びをした。
これから面倒臭いことが沢山待ってる。
俺——じゃない、レンヤがぶん殴った客達からクレームが来るかもしれないし、勝手に客を取ったことを母さんに咎められるかもしれない。
大学にもきっと行けないだろうし、大したものにはなれないまま、俺は大人になるだろう。
だけど——そんな想像をしてしまうくらいには、生きていくことを意識している自分がいる。
レンヤが呪いをかけたせいだ。
生きていれば、いつか生まれ変わったレンヤにまた会える日が来るんじゃないか、なんて……
レンヤの言葉引っ張られて、俺の中から「死」という選択肢が消えてしまった。
レンヤになんか出会わなければ良かった。
死んでるくせに、生きてる人間の心を掴むだけ掴んで、自分が満足したら勝手に成仏して——
勝手なやつ。
俺を置いていった、最低のやつ——
「……なにがジュテームだよ……!
『今度』会ったら——お前のことフランス語で罵倒してやるからな……!!」
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