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18年後
「藤峰先生っ!今夜の新歓、19:00開始ですからね!」
「ぜったい、ぜーったい来てくださいよ!」
——優芽は書類から目を離すと、こちらを真剣な眼差しで見つめてくる男子学生達に笑みを浮かべた。
「おう、仕事が終わったら駆けつけるわ」
「仕事が終わったら、じゃなくて!
19:00に間に合うように仕事を切り上げてください!!」
「別に俺一人遅れてったっていいだろ〜。
教授陣はともかく、俺は非常勤講師なんだから」
「藤峰先生がいると女子の食いつきが違うんですって!
将来フランス文化研究ゼミに入りたいって思ってくれる女の子をたくさん誘致したいので、先生も一肌脱いでくださいよ!」
「んじゃ19:00に上がれるよう頑張るから、散れ散れ!」
男子学生達を部屋から追い出した後、優芽はふと窓の外を見つめた。
あれから18年——
苦労の連続だった。
高校を卒業した後、母親に黙って家を出た優芽は、友人を頼ってルームシェアをしたり、仕事を紹介してもらいながらがむしゃらにお金を貯め、人より遅れて大学へ進学した。
大学でフランス語を専攻し、優秀な成績を収めた優芽は、卒業後に母校のフランス文化学科の非常勤講師になった。
収入は多いとは言えないが、優芽はもっとフランス語やフランスの文化への造詣を深めたいと思っていたため、この道を進み続けた。
優芽にフランス語を習った生徒は、優芽が一度もフランスに行ったことがないという話を聞いて大層驚いた。
本当は留学したいという夢もあったが、日常生活もままならないほどの貧乏暮らしだったため、その夢は叶うことなく気づけば34歳になっていた。
高校を出てから、身体を売るようなことはしていない。
身体を売る以外の稼ぎ方があると蓮夜に教えてもらったから。
贅沢はできないが、誰かに何かを強いられることも、苦痛を味わうこともない。
ただ自分の好きな研究を突き詰めて、たまに贅沢して美味しいものを食べる、そんな今が充分に幸せだと思えた。
唯一、自分の人生に足りないと感じるものがあるとすれば——
「せっかく、あいつを罵れるようなフランス語を覚えたのにな……」
授業では決して教えないような汚い言葉も、
大切な人にしか使わないような特別な言葉も、
今ならばいくらでも伝えることができるのに。
「——もう良い時間だな」
優芽は腕時計をちらりと見ると、荷物を片付け、新入生歓迎会の開かれる談話ルームへ向かった。
途中、走って来た学生とぶつかりそうになり、優芽は咄嗟に足を止めた。
「っ、すみません!!」
学生は優芽にぶつかる寸前で立ち止まると、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、歓迎会に遅れそうだったもので——」
その瞬間、優芽の脳にビリビリと電流が走る。
この声——
心が解けていくような、耳の奥へ響く優しい声。
酷く懐かしくて、ずっと聴きたいと願い続けてきたような——
優芽は目の前で頭を下げている学生の頭をまじまじと見つめた。
暗くて見えにくいが、髪が街灯に照らされて、キラリと反射しているのが目に入った。
「……綺麗な髪」
「えっ?」
学生が頭を上げると、髪の色と同じ、グレーの瞳と視線が交差した。
写真で見た『彼』の容姿に良く似た——
写真よりも、ひと回り若い顔立ちをした青年。
「っ……レン——いや」
そんなわけないか。
「……新入生かな?」
「はい。あなたは……」
「俺は藤峰優芽。ここでフランス語を教えてるんだ」
「フランス語の……先生」
彼は優芽を見つめると、唇の端を上げて言った。
「Enchanté. J’ai l’impression de vous avoir déjà rencontré quelque part.」
——初めまして。でも、どこかでお会いしたことがあるような気がします——
優芽は目を見開き、しばし彼を見つめた後、ふと笑みを浮かべた。
そして柔らかい声でこう答える。
「Enchanté. Mais je crois que nous nous sommes déjà rencontrés quelque part autrefois.」
——初めまして。でも多分、俺たちは昔どこかで出会っている気がします——
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