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1.乱入なんて日常茶飯事

   壁紙の剥がれた長い廊下に、コツコツと足音が響く。  ジジ、と音を立てた頭上の蛍光灯は今にも光を失ってしまいそうだった。  何だってこんな場所に。  思わず舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、小さく細く息を吐き出す。床に転がる酔い潰れた男に見向きもせずに、男は階段を上っていく。  黒みがかった茶色の髪の毛を揺らしながら歩く細身の男の名は、クロード。  皺のないスーツと、右耳のささやかなピアス。清潔感が漂う外見は、きっと街中の人間が見ても、まさか裏社会に生きる男だとは思わないだろう。  指定されたのは二階の部屋だった筈だ。こんな警備体勢が甘すぎる場所を毎回指定してくるなんて、本当に厄介事しか持ち込まない依頼主だとクロードは思う。  だがしかし、如何せん羽振りが良い。  情報が金になる時代に、そこに多くを払う依頼主は、情報屋にとって金のなる木に等しい。まあ今日の依頼主はそれだけに留まらないのだが。  そう思ってしまうのが悔しくて、顔が僅かに歪んだ。誰も見ていないし、今は柔和な優男の仮面を被る必要も無いから直すこともしなかった。  階段を上りきって、部屋番号を確認する。  二〇六号室。間違いはなさそうだ。  ふう、と息を吐いてから胸ポケットに手を入れる。宛名のない白封筒でメッセージカードと共に送られてきた、古くさい鍵を取り出して差し込む。  がちゃりと大きな音を立てて開いた扉。  伽藍堂の部屋だ。  電気が通っていないのか、壁のスイッチを押しても灯りは付かない。 「金があるなら灯りくらい付くようにしときやがれ、くそったれ」  小さく落とした不満は、誰にも聞かれること無く閉めた扉の音と共に消えていく。  足を動かして、窓を覆っているカーテンを思い切り開ける。小気味良い音を聞けばいくらか不満は消えて、傾き始めた西日が目を刺した。  待ち合わせは日没後。  大きな窓から見下ろした大通りには、生憎止まりそうな高級車は無い。  暫く待ちぼうけか。  そう思いながら、窓際のソファの座面を軽く手で払ってから腰掛ける。  クイーンサイズのベッドが一つ置いてあるだけの、ワンルーム。  シャワールームとトイレがあるだけの、古びたビジネスホテル。  一通り部屋を見回してからクロードは思う。  なんでこんな埃の臭いがしそうな部屋なんだ、クソ。  足をするりと組みながら、今度こそ舌打ちが溢れ落ちた。  クロードは裏社会専門の情報屋である。  クラッキングは友人の方が上手いが、人から聞き出す技術はピカイチだ。  幸いにも身なりを整えるのは好きだし、元々顔立ちも目立ちすぎず、髪色や目の色も黒みがかった茶色で、不細工過ぎないのも良いのか、何処へなりともすんなりと侵入し、あっさりと情報を持ち出す事が出来た。  危ない橋を渡ることも多い分、身の危険も多いがその代わり報酬は良い。  危機的状況に陥ったこともあるものの、今日の今日まで生き延びている。  銃の扱いもナイフの扱いも慣れたものだ。  そんなキチンとした仕事振りを買われて、いろんな組織や個人に贔屓にしてもらえているのだが、最近は今日の依頼主からばかり仕事が舞い込む。  その相手がまた厄介な男なのである。  この辺りの裏社会を牛耳るギャングの頭目。  銀糸の髪に、紅混りの灰の目。容姿端麗。冷静沈着。情け容赦はない。極悪非道。血も涙もない。一度目を付けられたら最期。そんな不名誉なラベルばかり貼られる男である。  それが今日の依頼主であり、ダンテという男であった。  出会ったのはもう一年以上も前の事になるが、関わり始めて彼が噂ほど嫌な奴ではないということは分かった。  流石裏社会の住人だけあって、ネジが外れているのは随所に見受けられる。  だが、それは己も同じ。  何処かの良識の無いギャングのように必要以上に人間を痛めつけたりはしないし、自分から進んで喧嘩をふっかけるわけでもない。案外まともな人間、というには少々問題があるが、全く話の通じない奴ではない。クロードよりも年下だというのに、かなりの遣り手だ。組織を回すのもとても上手いのだろう、彼に付き従う部下達は、どいつもこいつも手練れ揃い、という印象を受ける。  それなりの仕事をすれば、それなり以上の金を出すし、クロードからは何の文句もない。と、言いたいところだが、一つだけ不満に思う事はある。  がちゃり、と音を立てた扉。コツコツと革靴が床を叩く音。  下げていた瞼を持ち上げる。すでに日が陰り始めていた部屋は、不気味な血色に染まっていた。  音のする方に視線を向ける。整髪料で髪をオールバックにしたスーツ姿の男が立っていて、クロードと目が合うと緩やかに頬を持ち上げた。 「流石は早いね、クロード」 「お前もな。ギリギリになるって言ってたのに」 「案件が早く終わったんだ。着替える余裕まであったよ」  今にも鼻歌が零れそうな上機嫌な声のまま、ダンテはこちらへと長い足を動かす。真ん前に立ったダンテを見上げれば、その美術館に飾ってありそうな彫刻の如く整った顔が、ぐっと近寄ってきた。  僅かに身を引いても、笑んだ目元のまま更に距離を詰められる。肘掛けに彼の両手が置かれているせいで、逃げ場もない。無論、逃げるつもりは毛頭ないのだが。  至近距離で見つめてくる瞳が、僅かに傾く。 「怒ってるの?」  不思議そうに首を傾げるダンテに、大きな大きな溜め息を吐いてやる。  もしも彼の組織の人間に見られたら、首を掻き切られてしまうだろうが、幸い此処には二人しかいない。じろりと睨んで、口を開いた。 「今にも虫が出てきそうな部屋を選んだ理由は?」 「ははっ、不満なんだ」 「当然だ。仕事をした後だっていうのに、こんなクソみたいなもてなしをされて不満じゃない奴がいるなら呼んで来て欲しいね」  不満を垂れれば、ふふっ、と笑い声が聞こえる。全く笑い事じゃないんだが、と睨み付けてもダンテの笑みは消えない。 「アンタがクソっていうと、凄く興奮する」  思わぬ発言に危うく白目を剥くところだった。 「……変態かよ。お前、ドSなんじゃなくて、ドMの間違いだろ」 「ドSとドMは表裏一体だろ?」 「誰の受け売りだ」 「僕かな」  呑気にそう言って唇を近づけてくるから、思い切り顔を背けてやった。  知った仲でなかったなら、或いは、ダンテの機嫌が最悪だったら、今頃クロードの首は床に転がっている頃だ。  ダンテは、こんな言葉の応酬を部下とはしない。他にもそういう相手がいるのかは知らないが、クロード相手だと、どうにも極悪非道とは程遠い顔をしてくる。  ただそういう彼に慣れてきている自分もいるものだから、気に入らない。 「避けないでよ。キスしたいんだ」 「俺はしたくないが」 「ホントに? でも準備してきてくれたんだろ?」  肘掛けに置かれていた彼の右手が、そっと首筋に触れた。彼にも伝わってしまったであろう鼓動の早さ。クロードの口からはまた舌打ちが漏れる。満足げにまなじりを垂らすダンテが更に顔を近づけて言った。 「僕に抱かれたい、って素直に言ったらどう? クロード」 「……ハッ、笑わせるなよ、ダンテ。お前が、俺を抱きたい、の間違いだろ」  睨みを躱して、にんまりと口角を持ち上げたダンテは、うんそれは間違ってないけどな、とすぐに言葉を受け入れた。どうしてそんなに余裕があるのか分からない。相手に退路は与えないという自信があるからなのか、それとも、こちらの胸裏を見透かしているからなのか。 「セックスの時みたいに素直になってよ、クロード。……ま、そんなアンタも好きだけどね」  首に添えられていた指先がゆるゆると動いて、黒いワイシャツの第一ボタンをぷつりと外す。肌に走る熱にそしらぬフリをしていたら、息を零すように笑われて。そのまま寄せられた唇が、熱を移すように首筋に押し付けられた。  ぞわりと腰を走る快感。こんな不衛生な場所では絶対に御免なのに。ああもう、と諦めかけたその瞬間、クロードの耳が僅かな音を捉えた。  素早く腰にあったリボルバーに手を伸ばして、目の前の男のこめかみに当ててやる。  ゆっくりと持ち上がったダンテの瞳は、それでも楽しげに歪んでいた。  大きく息を吸って、吐き出す。 「前に、言ったよな?」  目と鼻の先。  今にも触れてしまいそうなほど近い唇を動かして、クロードは目の前の男を睨み付ける。 「面倒事は連れてくるなって」  バタバタと忙しない足音が扉の外から聞こえてくる。  そちらに一度だけ目線をやったダンテは、はあ、と大きな溜め息を吐いた。それが己に向けられたものなら、此処で一発殴っていたが、その矛先が解らない程浅い関係ではない。 「あっちが勝手に着いてくるだけだ。僕のせいじゃない」  ガンッ、と誰かが扉に体当たりした音がする。その所為で僅かに揺れを催すオンボロホテルも腹立たしいが、何よりも腹立たしいのは扉の向こうにいる不埒な輩だ。しかしそれを連れてきたのは、目の前のダンテ。当然、クロードの怒りの矛先は彼へも向けられる。 「大体、こうなることを知ってて此処にしたんだろ、お前」  いくら彼の組織の息がかかっている所だとしても、こんな騒ぎを高級ホテルで起こせば、出禁になることは必須。だからこそ彼はどんな状況になってもいいように、この所有者すら不明の建物を待ち合わせ場所にしたのだろう。知っていた、というのは大袈裟かもしれないが、予想はしていたはずだ。彼ほどの男なら。  やれやれ、と肩を竦めてに身を引いたダンテの目が、ギラリと光ったのが見えた。 「クロードには何でもお見通しだ」 「お前が分り易すぎるだけだ」 「僕の思考を読んでくれるアンタが好き」 「はいはいクサイ台詞をありがとうな」 「えぇ? 真面目に言ってるのにその態度?」 「喧しい。お前がこんな面倒事連れてくるのが悪い」  目の前のご褒美をお預けにされて腹を立てない人間が何処にいるのか、彼自身に聞いてやりたかった。でもきっとその問いを、彼に投げかけることは一生無い。そんなことを口にしようものなら、ダンテの思う壺だと知っている。さっきの彼の言葉を肯定するなんて、死んでも御免だ。自ら墓穴を掘るなんて絶対にプライドが許さない。  それを見透かされているとしても、絶対に自分からは言ってやらないと決めている。  また、ドンッ、と大きな音がする。 「はぁ最悪だ。次にお前が面倒事連れてきたら、二度とお前とセックスしないからな」 「言いがかりだ。向こうが勝手に着いてくるからこっちだって良い迷惑してるのに」  不満げに眉を寄せつつも、懐から愛銃を取り出すダンテは、少しの隙もない。  なんでこうコイツはスマートに何でも熟すんだ。銃持ってる姿も見栄えがいいし、本当に腹が立つ。男としての格の違いを見せつけられている気がするし、プライドをズタズタにしてくる。  嗚呼もう本当にムカつく。そんなコイツに、心を掴まれたままにしている俺自身が一番ムカつく。  苛立った胸を悟られないように、溜息交じりに口を動かす。 「俺はなぁ、ダンテ」  椅子から立ち上がって、扉へと銃口を向ける。  こちらに彼の瞳が向けられているのが目の端で見えても、意地で彼を見てはやらない。 「お前みたいに確立した立ち位置にいるわけじゃないんだ。お前のせいで恨みを買って、仕事しにくくなったら、お前に責任が取れるのか?」  ハッと鼻で笑われる。そんなの、と彼は言った。 「僕専属になれば、万事解決だろう?」  扉の鍵が壊れる音がする。クロードも鼻で笑ってやった。  それこそ笑える話だ、と思う。  誰がなってやるものか。  何でも持っているような男のもとに、自ら赴くなんて絶対に嫌だ。そもそも誰かのモノになることが願い下げだった。己は己のものだ。誰の首輪もつけずに自由の身を謳歌してこそ、己が輝く。何でも持っている彼が、死に物狂いで求めてくれなければ、応えてやる義理などない。  全てくれないなら、何も要らない。  情には流されても、全てを明け渡すなんて真っ平御免なのだ。 「嫌に決まってる。お前、絶対に人使い荒いだろうしな」  大きな音を立てて壊れた扉。  雪崩れ込んできた数人の黒服の男達。狙いを定めて銃撃を喰らわせてやる。双方の銃声に、あっけなく倒れていく黒服たち。残り一人。走り込んできた男目がけて銃を投げて、脳天にぶつけてやればその男もすぐに地面に伏した。 「それにな」  コツコツと足音を立てて、うつ伏せの男に近付く。己のベルトから抜き去ったのは、隠し小型ナイフ。男の後ろに回り込んで腰に乗り上げてから、前髪を掴んで上を向かせた。  目の前にいるダンテに見せつけるように。  そのナイフで、黒服の頸動脈を掻き切る。  見下ろしてくるダンテの灰色の瞳に、じわりと浮かんだ仄暗い光。  ああ最高だ。  笑って言ってやった。 「俺は、お前に飼い慣らされてやるほど、従順な犬じゃない」  死へ追いやった男から立ち上がって、ゆっくりとダンテに近付く。 「俺をもしも飼い慣らしたいなら、それ相応の極上を用意してから言えよ、ダンテ?」  血に濡れた手で彼の首筋を撫でてから、じんわりと広がっていく血色を踏みつけて、爪先を出口へと向けた。  コツコツと立てる足音は、わざとらしくオンボロの部屋に響いている。もう一つの足音は聞こえない。口元に自然と浮かんでくる笑みを隠すことなく、クロードはそのまま部屋を出た。  情報屋をしているからだろうか。  今ダンテが何を考えているか、手に取るようにわかる。今の彼の胸の内は、あの伽藍堂の部屋には似合わないくらい色んな感情でぐちゃぐちゃだ。  情欲。或いは、嫉妬。或いは、憤怒。或いは、高揚。或いは、歓喜。  どれもこれも、さっきのクロードの行動が関係している。感情なんて見せないと噂される灰色の瞳に渦巻く感情の色を、確かに見た。  口元の笑みが消えないまま、オンボロホテルから出る。  路肩に止めてある磨き抜かれた黒の車を一瞥して、そのまま歩き出す。大通りの車は忙しなく音を鳴らして走っている。後ろは振り返らない。  高いビルに反射する夕陽の橙が消えていこうとしたその時、強く腕を引かれた。  ゆっくりと振り返った先。  灰色の瞳が見下ろしている。その口元には僅かな笑みがある。 「まだ何か用か?」  口角を釣り上げて言ってやれば、うん、とダンテは素直に認めた。握り締められた腕が、ぎちりと音を立てる。その痛みすら今はどうでもよかった。  そっと近付いてきた形のいい唇が、耳へと寄せられる。 「報酬、上乗せするから、一緒に来て」  脳を溶かして侵食するような甘露の声。背中に駆け上がった情を我慢するクロードではなかった。ハッ、と零れた笑い。こういうところが狡い男なのだ。命令されたら絶対に蹴ると直感的に理解しているのか、はたまた別の理由があるのか。  まあでも今は、そんなことはどうでもいい。  腕を掴んでいる手の甲をそっと指先で撫でながら、言ってやった。 「そういうことなら、喜んで」

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