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6.決意と隠微

 ベッドがわずかに沈んだ感覚に、クロードは意識を持ち上げた。  一体、俺は何をしていたんだっけ。  曖昧なままの意識を泳がせながら、瞼をゆっくりと上げる。  見えたのは、視界一面に広がる見覚えのない夜景。月の傾き的に、夜明けにはまだ遠い時間であることも知れた。クロードが住処として使っている寝床は、窓がないし、高層ではない。だからこんな夜景が見えるはずがなかった。  つまり此処は、自分の家ではない。  心臓が跳ねた音を他人事のように聞いて、自分の置かれた状況を冷静に分析する。  まず手足は拘束されていない。目だけを動かして見た部屋の内装は、ホテルのスウィートルームで間違いない。記憶の中の資料から、何処のホテルだったか、と探しながら、視線を下げる。背広とスラックスがバスローブに変わっているが、乱れてはいない。  危害を加えるつもりは、ほとんどないと判断していいだろう。  ゆっくりと細く息を吐く。耳を澄ますと、遠くの方で水が流れる音がする。その時ようやくホテルの名前と、何をしていたのか思い出した。  思わず出た舌打ちを隠さずに部屋に放って、布団を被り直す。  さっきの水音はダンテだろう。  無理矢理連れ込まれたトイレの個室で気を失ってしまったクロードを丁寧に洗い上げてから、シャワーでも浴びているに違いない。寝たふりをしていれば、多分朝には勝手にいなくなる。  少なくとも報酬をやり取りする時は、いつもそうだ。 『ゆっくり休んでいって。またね』  そんな書き置きを残して、ダンテはいつもクロードが目を覚ますよりも早く居なくなる。  ダンテが寝ているところを見たことがない。流石に寝首を掻かれることを警戒されているのか、そもそも人前では眠れない質なのか。それでも懇意にしているはずのクロードにすら隙を見せないのが、腹立たしかった。  クロードはダンテに弱いところも寝顔も知られていると言うのに。  ハッ、と自分自身を笑い飛ばす。  ダンテと自分の違いを比べるなんて、気を失って頭が馬鹿になってしまったのかも知れない。  そもそもダンテとは依頼主と請負人の関係だ。報酬の一部にたまたま体の関係があるだけで、それ以上でも以下でもない。ダンテが『僕専属になったらいい』というのだって、情報屋としてのクロードを手中に収めたいだけだ。  完璧を体現したような男の下に自ら歩み寄るなんて、プライドが絶対に許さない。どれだけ心を揺さぶられようが、自分からは心を明け渡してやらない。そう決めてきた筈だったのに。自分がこんなに女々しい一面を持っているなんて知らなかった。  でも、と思う。  ダンテが死にもの狂いで求めて来ないのだったら応えてやらない、と考えていた時点で、もう負け戦だった。感情が彩る灰色の瞳を見るたびに、歓喜と優越をぐちゃぐちゃに混ぜたような想いに心臓が高鳴っていた時点で、白旗は半分上がっていたのだ。  いっそのこと俺から専属になると言ってみるか?   そう考えて、バカバカしい、と頭を振った。  大抵の人間は、手に入らないから欲しいと思うのだ。逃げて行くと捕まえたくなるのと同じ。手に入らない内が、なにより甘美なのだから。  もしも本当にダンテがクロードに惚れ込んでいるのなら話は別だが。  それはないだろうな、とすぐに否定する。あの男はクロードを揶揄って遊びたいだけだ。クロードをこれでもかというほど翻弄するのが好きな男だから。  はあ、とため息を吐いて瞼を下ろした。  これ以上依頼を受けるのは止したほうがいいかもしれない。惚れた腫れたの恋愛感情は、仕事に支障が出るに決まっている。現に今だって冷静さを欠いている。弱みにもなりかねない。  手を引くなら今だ。  関わりを無くすために、いっそこの仕事を辞めて誰も知らない土地に行くのも良いかもしれない。ダンテが率いる組織は、裏社会でも幅が利きすぎる。本気で関わりを断つつもりなら、この地を離れるべきだろう。別に未練があるわけでもない。エイヴには申し訳ないが、無理矢理引き止めることは彼もきっとしない。今まで稼いだ金品は最低限しか使っていないから、しばらくは人間らしい生活ができるはずだ。落ち着いたら、適当にアルバイトでもして細々と暮らしていくのも良い。    ガチャと開いた扉の音に、揺らいでいた思考を遮られる。  大きく肩が揺れたが、見られてはいないだろう。この客室が奥まった場所に浴室がある部屋で良かった。大理石の床を歩く足音がする。目を閉じたまま、耳だけで気配を探る。近くで足音が止まって、ベッドが沈んだ感覚が体に届いた。  瞼の向こうが少し暗くなって、覗き込まれているのだとわかる。  ふっと笑みを含んだやわらかな息が落ちてくる。  血も涙もない冷徹漢と言われるのに、こういう一面があると知っているのは一体何人いるのだろう。容姿も浮世離れした美しさを有している上に、地位もある男だ。男女問わず引く手数多だろう。そのうちの一人でしかないと言い聞かせてきたけれど。つくづく人間というのはギャップに弱い生き物だな、と他人事のように考える。  勿論、目は開けてやらないけれど。  そっと触れてきたダンテの指先が、するすると柔らかに頬を滑って、クロードの顔にかかっていた髪を耳へとかけてくれた。それだけで済むのかと思いきや、優しく髪を梳かれる。飽きもせず何度も何度も行き来する指先。  人の心を読み解くのを得意とするクロードにも、ダンテの行動の真意を読み取るのは難しかった。恋愛ベタな人間だったら、崖の上から真っ逆さまにダンテの思惑の奈落へと落ちていただろう。クロードはなんとか、間一髪で踏ん張っている。  やっぱりこれ以上は無理だ。これ以上気のあるような仕草をされたら、本当に取り返しのつかないことになる。  この瞬間に、クロードは決めた。  今の仕事から足を洗おう。仕事自体にも別に執着しているわけじゃない。俺と同等かそれよりも手際と効率良く情報収集できる人間は山程いる。俺一人居なくなったところで問題はない。  ハイリスクだが、それに楽しく効率良く金を稼げるという理由でクロードはこの仕事を続けていた。最近は変な噂も立っているようだし行方を|晦《くら》ませるのが吉だ。万が一情報屋が名残惜しくなったら、また新しい場所で始めれば良い。  思考の結論が出たのと同時に、携帯端末の着信音が鳴り響く。  ぴくりとダンテの指先が止まる。鳴り止むことを期待していたのだろうか。数秒間早く出ろと言わんばかりに部屋に響き渡る着信音。  はあ、と不機嫌なのを全く隠さない溜息を吐いたダンテは、やっとベッドから立ち上がったらしい。  ぬくもりが遠ざかって、数度の着信音の後に不機嫌そうな「なんだ」が聞こえた。  何度かの相槌を打ちながら、ダンテの気配がバスルームの方へと遠ざかっていく。  ゆっくりと瞼を持ち上げた。  話し方からして多分彼の部下からの電話だ。前にセックスの最中に掛かってきた電話には、クロードの前で出ていたのに。やめろ、と小声でいったのに、楽しげに笑いながらそのまま揺さぶり続けてきた顔を思い出して、すぐさま頭の中でぐちゃぐちゃにしてやる。  しかし今回は、よほど聞かせたくない内容なのかもしれない。  そう思考を巡らせかけたところで、小さく笑いを混ぜた息を吐いた。  仕事中毒か、俺は。  もうどうでも良いことだ。朝を迎えたらもうこの仕事からはおさらばなのだから。  そんなことよりも、と柔らかな布団を被り直してもう一度目を閉じる。  二度と泊まれないであろうスウィートルームのベッドを堪能することにしよう。  明日からは忙しくなるのだから、少しでも休息を取らなければ。  クロードから本物の寝息が聞こえ始めた頃、ガラス窓を雨粒が叩きだした。  そのまま大降りになった雨が強く窓を叩いていたのを、長い電話から戻ってきたダンテが険しい顔で見ていたのを、クロードが知ることはなかった。

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