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7.死神の目覚め

「俺、この街から出ていこうと思ってんだ」  朝陽が差し込む部屋の中で切り出すと、エイヴは口の中に入れていた棒付き飴をぽろりと床に落とした。あまりにも間の抜けた顔をするから、思わず笑ってしまう。その笑いを聞いたエイヴはハッとしたように言った。 「はっ? えっ、冗談か? クロード」 「冗談でこんなこと言わねぇよ」  ソファから立ち上がって寄ってきたエイヴをひょいと躱して、キッチンに向かう。冷蔵庫を覗き込んで、二日前に買っておいたスムージーを取り出す。その間も心配そうに眉を下げたエイヴが子犬のようについて回ってくる。 「なんでだよ? 情報屋の仕事は?」 「辞めるつもり。別に特段こだわりがあったわけでもないしな」 「はあ? あんなに楽しそうにやってたのにか?」 「ははっ、楽しそうに見えたならよかったよ」  まあ確かに楽しんでいた節はあったが、苦労も多い仕事ではあった。  死にかけたときもあったし、礼儀知らずの輩と命がけの鬼ごっこをしたこともある。ハイリスクな分、報酬は良かったから文句はないけれど。 「仕事が嫌になったのか?」 「いやそういうわけじゃない。でもまあそれなりに長くやったし、新しい場所で心機一転しても良いかなって思っただけ」 「じゃあ別にここから出ていかなくてもいいじゃねぇか」 「それこそ冗談だろ。此処に残るにはリスクが高すぎる。俺、色んなとこから恨み買ってるしな」  本当はそれが理由ではないが、自分の恋情で仕事を出来なくなるのが嫌だ、なんて彼に言えるわけがない。あまりにも理由がくだらなすぎる。ただし、心機一転したいのは本当だった。全部が嘘ではない。  はぁああ、と大きなため息が聞こえた。振り返って見たエイヴは、頭をガシガシと掻きながら下を向いていた。 「突然すぎるだろ、クロード」 「それは悪いと思ってる」 「理由は詳しく聞かねぇけどよ。でも、そんな気持ちになる前に、俺に一言相談してくれりゃあ良かったんだ。俺のことそんなに信用できなかったのか?」  不満げに顔を顰めているエイヴに、胸の奥がじんわりと温かくなる。こぼれた笑みのまま首を横にふった。 「んなわけねぇよ。俺が故郷を飛び出して出会ってから、誰よりも信頼してる」  家族仲が悪かったわけでは決してない。しかし、家族の中に混じった生活は居心地が悪かった。出来が良い兄に期待の目を向ける父は、クロードに見向きもしなかった。当然だろう。父は娘が欲しかったのだ。優秀な兄が後継ぎとして盤石だった父にとって、猫可愛がり出来る娘がいたら彼の人生は完璧だった。だから、父にとってクロードは生まれた瞬間から期待外れの存在だった。幼い自分は振り向いて欲しくて頑張った。でもいくら頑張っても父からの目は冷たいものだった。  その父の目に嫌気が差したクロードは、居場所を求めて家を飛び出した。  自分だけの人生のために飛び出した先で、一番初めに出会ったのがエイヴだったのだ。  実の兄のように接してくれるエイヴに、どれだけ救われたか分からない。本当に感謝している。 「本当にエイヴには感謝してるんだ。でも、だからこそ言えないこともある」  数年前にエイヴに淡い恋心を抱いていたこと。  それを誤魔化すようにあのダンテの誘いに乗ったこと。  そして今度は、そのダンテに似たようなもの、否随分と爛れたような想いを抱いてしまったこと。    勿論エイヴの所為だと言うつもりは微塵もない。言ったところで多分気にする質ではないだろう。だが世話になったからこそ、変な禍根を残していきたくないというクロードのわがままだ。  長い長い息を一つ吐いたエイヴは少しの沈黙の後、わかった、と言った。 「お前は一度決めたらテコでも動かないもんな」 「よく解ってくれてて嬉しいよ」 「今日すぐに発つのか?」 「いや、荷物の整理もしたいしな。でも数日以内には発つつもり」 「わかった。必要なモンがあったら言ってくれ」 「何から何までありがとうな、エイヴ」  とん、とエイヴの肩を叩けば、水くせえよ、と笑われた。  突如、二人の談笑を切り裂くように着信音が鳴り響く。おっと俺だ、とジーンズのポケットから端末を取り出して自室に向かったエイヴを見送った。  スムージーを飲みきってゴミ箱に放り込んだあと、クロードもまた気合を入れて自室へと向かう。  持って行くものは最低限にしよう。それよりも、処分しなければいけない機密文書の方が問題だ。  シュレッダーは今日フルタイムで働いてもらわないとな。  そんなことを思いながら、クロードは早速身辺整理に取り掛かったのだった。  ふーっと息を吐いて顔を上げる。  見回した自室はすっかり片付いて、家具以外は八個ほどのゴミ袋だけになっていた。  結局、書類を片付けるのに丸一日半以上使ってしまったが、どうにか全て処分できた。  最低限の宝飾品と数着の服を旅行鞄に入れてある。  家電や家具は置いていって良い、とエイヴに言われた。  女でも連れ込むのか~? と冗談交じりに聞いたら、アホ、お前が帰ってきた時用だよ、と髪の毛を乱暴に掻き混ぜられた。帰る場所を残しておいてくれるなんて本当に良い奴だな、とむずかゆい気持ちになったのは一生心に留めておこうと思う。  あとはゴミを捨てて、お気に入りの店へ挨拶に立ち寄ったらもう未練はない。  そう思ったのと同時に、浮かび上がったのはダンテの顔。  なにか一言言っていくべきだろうか。だとしても、何を? 言うことなんて何もない。雇用契約書でつながっている関係でもないし、ダンテの組織に属しているわけでもない。挨拶もクソもないだろう。お前のせいで俺はこの街を出て行くことにした、どうだ、清々するだろ? なんて。それこそ愚の骨頂だ。    やめやめとダンテの顔を追い出すように頭を左右に振って、ゴミ袋を二つ持ち上げる。  未練はゴミと一緒に捨てていくんだろクロード、と自身に言い聞かせながら、自室を出た。 「おーい、エイヴ。手が空いてたらゴミ捨て手伝って……、あれ? 何処行ったんだ?」  いつも作業をしているソファを見ても、エイヴの姿はない。開けっ放しになっているエイヴの自室を軽く覗き込んだが、そこにも姿はなかった。  首を捻る。  何処かに出かけるという話は聞いていなかった。手伝ってほしかったのに。まあいいか、とゴミ捨て場へと向かう。  往復して全てのゴミを捨て切った頃には、もう太陽は西に沈みかけていた。  もう少し早く片付いたら今日出るつもりだったけど、エイヴも居ないし急ぎでもないから明日にするか。    流石にエイヴに挨拶せずに出ていくのは気が引けた。最後の挨拶になんてするつもりはないが、節目の挨拶は大切にしたい。それほどに世話になった人だから。 「エイヴ、いつ帰ってくんのかな」  休憩がてらソファに身を沈ませる。数日気合を入れて掃除をしていたせいで、疲れが溜まっていたらしい。うつらうつらとし始めて数秒後、クロードは意識を夢の世界へと飛ばしていた。  *** 「……ろ! クロード! 起きろ!」  肩を揺すられる感覚に、ゆるゆると瞼を持ち上げた。  焦ったような顔をしているエイヴが目に入って、緩慢に首を傾げる。 「……えいう゛? どした?」 「マズいことになった」  声を潜めながら、部屋のあらゆる気配を少しも見逃さないように視線を配っているエイヴに、まずいってなにが、とまだ醒めきらない声で問う。 「お前がこの仕事から足を洗うってことがどっかから漏れたらしい。お前に恨みがある奴等が動き出してる」  脳で噛み砕いた言葉に、一気に意識が覚醒する。本当か、と勢いよくエイヴを見れば、真剣に頷かれた。  一体何処から漏れたのだろう。エイヴ以外には仕事を辞めることを、誰にも告げていないのに。  クロードが求める答えをまるで知っていたかのように、エイヴが何かをポケットから取り出した。彼から差し出されたのは、小型の盗聴器だった。 「はっ? どういうことだ?」 「お前のスーツのポケットに入ってた。何か心当たりないか?」 「どのスーツ」 「ストライプの入ったネイビーのやつだ」  どくりと心臓が嫌な音を立てる。  それを着て最後に会ったのは、あの銀糸の髪を揺らす男だ。  ダンテが? 一体なんのために。  寝起きの頭で考えても、結論らしい結論は出てこない。なんで。どうして。そればかりが頭を巡る。 「俺はこれで抜かれた可能性が高いと思うが、そんなことは今はどうでもいい! 一刻も早く此処を離れるぞ!」 「お、おいエイヴ!」  腕を引っ張られて、立ち上がる。  クロードが呆けている間にも、エイヴはテキパキと準備をして、いつの間にか旅行鞄まで持たされていた。それだけ厄介事に巻き込まれたくないのかもしれないな、という想いに反するように、エイヴに腕を取られる。 「ほら行くぞクロード!」 「え、いや、エイヴは行く必要ねぇだろ?」 「バカヤロウ! 此処まで来てお前一人を放り出せるかよ!」  有無を言わせずに腕を引くエイヴの背中は、とても大きく見える。ふっと漏れた笑みを隠さずに足を止める。振り返ったエイヴに笑いながら、腕を掴む手に己のそれを添える。 「エイヴ。俺だって死線は何度も潜り抜けてきた。一人で大丈夫だよ。お前を巻き込むわけには、」 「言っただろ、クロード」    言葉を遮られて口を噤む。有無を言わせない、と言わんばかりにまた強く腕を引かれた。  暗闇が落ちた街に、二人分の足音が響き始める。 「お前は俺にとって、大事なヤツなんだから」  それきり口を開かなくなったエイヴに、クロードは肩をすくめた。思わず漏れたやわらかな笑みは、エイヴには見えていないだろう。 「ありがとうな、エイヴ」  二人の姿は闇に紛れて、いずれ見えなくなった。  *** 「ボス、大変です!」  ノックなしに執務室に駆け込んできた部下に、ダンテはゆっくりと顔を上げた。  その不機嫌な瞳を見てなのか、近くに控えていた右腕のジオスが話に割って入る。 「一体何事です? そんなに急いで」 「ジオスさん! とにかく大変なんです! 俺達が張ってた奴等が、一斉に動き出して!」 「それは、どれのことだ」  氷塊のような絶対零度の声が響き渡る。ダンテだった。 「それがボス、全部なんです! あの住居ももぬけの殻で…! クロードさんも見つかりません!」  語彙力のない言葉でもその意図はダンテに伝わった。  チッと大きな舌打ちをボールペンが折れる音が追い掛けた。 「ボス、どうします?」 「……やることは一つだろ。場所は分かってるか」 「はい! 隠密部隊が随時把握してます」 「そうか。あとジオス、各自配置につくよう指示しろ」 「御意に、ボス」  各々素早く動き出して、執務室にはただ一人ダンテだけが残った。  月明かりが落ちる部屋の中で、ダンテの銀の瞳に紅が滲む。 「僕のモノに手を出したことを、その死をもって償うが良い」  無論、簡単には死なせてやらない。  死んだほうがマシだと思わせるような絶望を味わわせてやるのだ。

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