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8.まな板の上の贄
路地裏の物陰に隠れて、乱れた呼吸を出来る限り潜める。
追手の声と足音が複数、眼の前の大通りを通り過ぎていくのを確認して、クロードは小さく息を吐き出した。建物に背を預けたせいで脱力しそうになる足に、もう一度力を入れる。
今が夜で本当に良かった、と思う。もしも日中ならば、すぐに見つかってしまっていただろう。幸いにもクロードは夜目が利く。この街の地形も頭の中に全て入っている。暗い場所を進むのはお手の物だ。
それよりも、と抱きしめた旅行鞄がぐしゃりと歪む。心配なのは、途中で囮になって二手に分けれたエイヴのことだ。
お前が逃げられれば良い、と彼はニヒルに笑っていたが、果たして捕まらずに済んだだろうか。
「いたか!?」
「いねぇ! 何処行きやがったんだクソが!」
「チッ! さっさと見つけろ愚図共!」
怒号と慌ただしい足音がすぐ近くを通り過ぎていく。
これ以上人数が増えたら厄介だ。一秒でも早く此処を離れないと。
クロードは姿勢を低くして辺りをキョロキョロと見回す。確かこの辺りには街の外までつながる下水道があったはずだ。人一人が入れるくらいのマンホールを探して、できる限り音が鳴らないようにふたをゆっくりと開ける。特有の臭いが鼻腔を襲って、思わず顔を背けた。
でも背に腹は変えられない。捕まって殺されるよりも、この臭いを嗅ぎながら街の外に出たほうがまだマシだ。逃亡生活が長く続いたとしても。
意を決したクロードは、そのマンホールの口に身を滑り込ませて、開けたときと同じように静かに蓋を閉めた。
断続的に雫が落ちる音が聞こえる中を、クロードは独り歩く。
自分以外の足音を聞き逃さないように耳をそばだてながら、慎重に先に進む。
静寂の中で頭を巡りだすのは、あの小型の盗聴器。あのスーツを最後に着たのは、半月も前のことだ。どれだけ持ちが良くても充電は切れている可能性が高い。
否、と思う。俺自身がそう思いたいだけだな。
冷静に考えてみれば、あれは遠隔式の盗聴器だ。四六時中電源が入っていたわけでもないだろう。必要な時やクロードを怪しいと思った時に電源を入れれば良い。そうすればもしかしたら半月くらいは持つのかもしれない。機械の知識はエイヴの方が多い。最新型は特にだ。彼が可能性が高いというのならそうなのだろう。
でも一体何のために? 理由が全く分からない。……いや、冷静に考えれば分かる話だ。ダンテは最初から俺のことなんて信頼していなかった。俺が『信頼されている』と思い込んでいただけだった。そう仮定すれば、辻褄は合う。他のところに情報が流れていないか確認していた可能性もある。あいつほどの組織になれば、俺の素性や友好関係だって一日あれば調べがつくはずだ。あいつの組織の内情を調べたことはないから確証はないけれど、俺に盗聴器を仕込めるようなやつはダンテしか思いつかない。口約束でもあいつが出した条件を破った覚えはないが、何かしら気に触ったのかもしれない。それか、まあ、弱みに成り得る情報をもっている俺を始末したいのかもな。
考えれば納得できるような理由はいくらでも出てくる。完璧な将来を約束されているダンテにとって、クロードとの関係は一般論でいくと汚点とも言える。ネットスラングで言う黒歴史というやつだ。
ハッと笑いが漏れる。
「なあんだ。俺だけが浮かれてたっつーことか」
胸に傷などないのに、ジクジクと痛むような感覚が走る。落ち着かせるようにそっと自分の胸を撫でた。やっぱり手を引いて正解だったな、と思う。自身の選択は間違いではなかった。それだけは救いだ。これで晴れた心持ちで心機一転できる。むしろありがたいことだ。クロードはそう思い込むことにした。そうすれば、少しは胸の痛みが減った気がしたからだった。
しかし、クロードは思考に意識を向けすぎていた。
忍び寄ってきていた足音に気づいたときにはもう遅かった。
後ろから羽交い締めにされた瞬間、男の急所を狙おうと踵を上げたのと同時に、視界が歪む。何が、と思ったときにはぐにゃぐにゃになった世界で、上も下もわからずにその場に蹲って嘔吐していたのだ。
いったい、なにが。
何が起こったか分からないクロードの薄れゆく視界と意識の中で、男たちは下卑た笑みを漏らしていた。
「身近な奴ほど疑うのはこっちの世界の常識だぜ、ニーチャン」
***
瞼の裏をカッと光が灼いて、あまりの眩しさに眉を顰めた。そこでやっと自分が瞼を閉じていることを理解したクロードは、手で光を遮ろうとした。のだが、腕が動かない。
嗚呼、と思い出す。俺は捕まったんだった。
口の中に胃酸の味が充満していて気持ちが悪い。瞼を閉じたまま地面に唾を吐き出してから、顔を上げながら言った。
「それ、眩しいから止めてくれるか? もう目も覚めた」
照明の光が弱まって、ありがとな、と言いながら瞼を上げる。滲んだ視界をクリアにした先に居たのは、ダンテではなかった。
「やあ、クロード君。数日ぶりだね」
「……ああ、アドルフォさん。貴方でしたか」
パイプ椅子に縛り付けられているクロードとは対照的に、目の前のバーガンディのスーツを着た男は、一人掛けのソファに腰をかけていた。
自分の前にいるのが数日前に会った、不埒な接触を図ってきた礼儀知らずな男――アドルフォだったのは意外だった。てっきりダンテがあの冷ややかな目を向けているのだと思っていたのに。
「貴方だとは知らずにタメ口を聞いてしまいすみません。てっきり知り合いだと思ったのですが」
「それはダンテ=スヴェトラーノフのことかな?」
「よくお分かりで。こんな無礼な真似をするのはアイツくらいでしてね」
「なるほど。噂通り、君と彼はイイ仲のようだ」
嫌味を込めて笑みとともに告げてやったのに、気にした様子もなく、アドルフォはそう言った。歯を見せて口の端を釣り上げるアドルフォが、椅子からゆっくりと立ち上がる。
「君がこの仕事から足を洗うと聞いたからね」
指先を動かしてみる。どうにか指は動くが、クロードを縛っているのは普通の縄ではない。金属を織り交ぜて作られた特注の縄だ。服の裾に隠し持っているカミソリの刃で切るには時間がかかりすぎる。現時点での脱走は難しい。諦めて目の前の男に向き直った。
「クロード君には本当に世話になったから、送迎会でも開こうかと思ったんだ」
「ハハッ! 送迎会って地獄へのですか? 全く感謝されてる気がしませんが」
コツコツと革靴の踵を鳴らして得意げになってクロードの周りを歩くアドルフォは、勝ち誇ったような顔していた。全くムカつく顔のクソ野郎だな。クロードが思ったことといえばそんなことだった。
「心配しなくても、地獄ではないさ。むしろ天国に君は行くことになる」
なにが天国だこのクソヤロウ。むしろ嫌な予感しかしないが。まあダンテが俺に嫌がらせした上で始末しようと考えてたなら、この男を使ったのは大正解だ。俺にこれほどの嫌悪感を抱かせるこいつはある意味、天晴だよホントに。
そんな考えはおくびにも出さず、笑みを張り付けた。
「天国? つまりどっちにしろ死ぬことには変わらないってことですか」
「まさか! 君を殺す気なんてないさ、クロード君! 君ほどの男を簡単に殺してしまったら勿体ないじゃないか!」
後ろから勢いよく肩を掴まれて、肌が粟立つ。それでは飽き足らず、すりすりと肩と腕を何往復も撫でられる。気持ち悪すぎるだろコイツ。後ろから顔を覗き込んでくる金に茶の交じる瞳は、横目で見ても欲情した動物のように爛々と輝いている。紳士の皮を被った化け物と言って相違なかった。
「なるほど。俺に貴方の夜伽をしろって?」
「それは副業に過ぎない。君にはもっと大事な役割がある」
突如顎を掴まれて上を向かされる。睨みつけてやればアドルフォは恍惚として目を細めてきた。その間にも首筋を撫で回してくる不埒な手。もしもクロードがいまナイフを手にしていたら、迷わずアドルフォの手を切り落としていただろう。
「君にはね、クロード君。ダンテ=スヴェトラーノフを誘き出し、奴を絶望させるための餌になってもらう」
「………は? どういう意味です?」
「そのままの意味だよ。ダンテ=スヴェトラーノフ。あの男を絶望させるための大事な餌、それが君だ」
意味がわからない。クロードが描いたのは、ダンテがこの男に自分を売った、という筋書きだった。しかしアドルフォの文脈的に、その筋書きは在りえない、と言われている。
理解できないというのが顔に出ていたのか、嗚呼、とアドルフォは面白そうに口の端をさらに釣り上げた。
「君はダンテ=スヴェトラーノフが君を裏切ったと、そう思っているのか。くくっ、それはね、クロード君、私の部下が君にそう思い込むように仕向けただけさ。ダンテ=スヴェトラーノフは君を裏切っちゃいない。裏切ったのは、――ほら、その先はもう言わなくても分かるだろう?」
嘘だ、と小さく声が漏れた。
私の部下がそう思い込むように仕向けただけ。
その言葉が指し示しているのは、たった一人だけだ。
クロードが唯一この仕事から足を洗うと話した、必死になって一緒に逃げてくれた、囮となってクロードを逃がしてくれた、お前は大事な奴だと言ってくれた。
「アドルフォさん、それは言わない約束だっただろ」
聞き慣れた声が鼓膜を叩く。油の切れた機械のようにぎこちなく流れた視線の先。
そこに居たのは、後頭部を掻きながら気怠げに立つエイヴだった。
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