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17.極上の君
「よし、全快だね。おめでとう」
「ありがとうございます、アザミさん」
満足げに身を引いたアザミにお礼を言って、寝間着のボタンを閉める。
あの事件が起きてから、もうすでに一ヶ月近く経過している。
後から聞いた話だが、クロードは悪質なドラッグを注入されてから、二日間は意識が朦朧としていたらしい。一時危ない状況にもあったそうだが、ダンテを始めとする組織の人たちが尽力してくれたおかげで、無事に廃人に成らずに済んだという。
クロード自身は気付かなかったが、目が覚めたのはあの日からもう三日以上経っていたらしかった。
結局あの後ダンテに散々好き勝手にされて――でもちゃんと回数は一回だった――ベッドでぐったりしていたクロードを見つけたアザミは、当然ブチギレた。
意識が戻りたての人間を襲うなんて獣以下だ、と散々扉の外でダンテを罵った挙げ句『許可するまで接触禁止』を言い渡していた。部屋の中からそれを聞いていたクロードは、やっぱり母さんって強いんだな、と呑気に考えていたのも束の間。
次の日にダンテの代わりに部屋を訪れた、彼直属の部下のジオスは目元に濃いクマを作って疲れた顔をしていてこう言ってきた。
「貴方に逢えないせいで、ボスの機嫌が悪すぎるんです。手に負えない。電話でクロードさんから何か言ってもらえませんか」
あまりにも疲労も心労も溜まっているようだったので、アザミに確認すれば、電話は駄目だがボイスメッセージならいい、とのことだったので、早速撮ることにした。が、まるで救世主でも見るような顔をジオスにされたせいで、やりにくくて仕方なかった。
「あの、ジオスさん。一つお願いなんですけど」
「はい、何でしょう?」
「俺のダンテへの普段の態度は、貴方にとってあまり聞いてて良いものではないと思うんです。それで、あの、腹が立つかも知れないんですけど、不問にしてほしくて」
「勿論ですよ、クロードさん。むしろそれを求めてますので」
いつも通りでお願いします、とジオスに逆に頼まれてしまう始末。
とりあえず、元気であること、部下に迷惑かけるような仕事のできない愚図は最悪だ、という旨を吹き込んだ。聞いていたジオスには、流石ボスが選ぶだけの方ですねありがとうございます、と物凄く感謝されたが、あの後この部屋に訪れていない。
故に、あの録音がどれほど効果があったのかはクロードの知るところではない。
「それで、これからクロードちゃんはどうするのかな?」
不意に言葉を投げかけられて、意識を今へと戻す。アザミは腕を組んで面白そうにクロードを見ていた。
「大人しくダンテに飼われるの?」
「ははっ、まさか。そんな気は微塵もないですよ」
笑いながらベッドから立ち上がって、クローゼットの前に立つ。
その中には、ダンテが運ばせたのか、あの家に置いてきたはずのスーツやらアクセサリーが並んでいる。それを知ったのは、リハビリをし始めた頃だ。その用意周到さに笑ったと同時に、胸の奥がじんわりと温かくなったことをいつかダンテに伝えてやりたいと思う。
シワのないワイシャツに腕を通しながら、言葉を紡ぐ。
「ダンテにも貴女にも、この組織の人にも感謝しています。でも、このまま貴女達を隠れ蓑にして生きていくつもりはありません」
今まで自由に生きてきた。誰かに縛られて生きる人生は性に合わない。もっと正確に言えば、他人が敷いたレールに乗るのは性に合わない。
生家もそうだった。父が引いた『お前には何も期待していない』というレールの上を歩くのは居心地が悪くて、そこから飛び出して今に至っている。
自分の心を奪った相手の敷いたレールならどうか、と言われれば、答えは否だ。
ダンテの言う通り生きる人生なんて歩みたくない。間違いなくそれがきっかけで、二人の関係に亀裂が入るのが分かるから。
「ダンテの傍で生きるのは居心地が悪い?」
「あのぬるま湯にずっと浸かっていたくなるくらいは心地良いですよ」
「じゃあどうして?」
アザミは心底分からないと言いたげだ。
スリーピーススーツに身を包んで、裾を直してから、カブスボタンを手に取る。
「その心地良さに溺れて、何も出来なくなるのが嫌なんです。ダンテがいなくなった時、腑抜けになる自分を俺自身が見たくないから」
ダンテの傍は息がしやすいのは本当だ。
エイヴとはまた違う、心地良さがある。ダンテは頭も良い。同じ目線で、同じ理解力を持っていて、話も合う。会話だって軽やかだ。皆まで言わなくても通じる事が多々ある。偏見も羨望も嫉みも、土俵が違うからなのか、単に他人に興味がないだけなのか、ダンテから向けられた事は今まで一度だってない。その心地良さは、筆舌し難い。
ただ、それに慣れすぎてしまうのが嫌だった。
この世界は何があるかわからない。今日あった命が、明日には急に散っている可能性だってある。
ダンテに甘やかされ過ぎた自分の末路は、きっと酷いものになる。だから、ダンテにだけ依存することは、したくないのだ。
「ここに居たら皆で君を守れるのに。本当に出て行ってしまうの?」
「ありがたいことですけど、与えられてばかりなのは性に合わないんです。これでも商売人ですし」
「でも、君が本当の危機に陥った時、助けられないかもしれない。私としては君が此処に残ってくれる方が安心できるのだけど」
お気に入りのピアスを付けてから、アザミに向き直る。彼女は心底心配してくれているようだった。アザミにとってダンテは家族同然で、その家族が大事にしているものを大事にしたいと思ってくれているのだろう。小さく笑って、彼女の前に足を進める。
「ごめんなさい。これを言うと貴女は怒るかもしれないので、最初に謝っておきます」
「? 一体どんなことだい?」
「アイツは俺にこう言いました。『僕の人生にはあんたが必要不可欠なんだよ』って」
今でもその顔とその時の瞳の熱を簡単に脳裏に描ける。全身がカッと熱くなって心臓が震えてしまうほど嬉しかった。でもこうも思ったのだ。本当にそうなのか? と。
「だから、ちょっと試してみたい気持ちがあるんです。ああ、勘違いしないでくださいね。わざとそうするつもりはありません。でもその『もしも』が起きた時、アイツがどうなるのか見てみたい」
我ながら歪んでいると思う。
でも、実際に見てみたい気持ちがあるのだ。クロードにもしものことがあった時、本当にダンテは言葉通りクロードの後を追ったり、無気力な人間になるのか。それともその言葉は口先だけのものだったのか。どっちに転んでも別に構わない。その結末を知りたかった。
「ふっ、あははは!」
静寂を破ったのはアザミ。彼女は腹を抱えてひとしきり笑うと、目の端の涙をこすりながら言った。
「さすが、あの子が惚れ込むだけのことはあるね! うんうん、そうこなくっちゃ!」
ぽん、と肩を叩かれてアザミを見る。彼女は、偶然街で会ったクロードの母と同じ顔をしていた。目元を緩めた優しい光を帯びた瞳だった。そのままそっと抱き締められた。
「君がそう決めたなら、私はそれを尊重する。まああの子がどう言うかはわからないけれど。でも、時々顔を見せてくれると嬉しいし、困ったらいつでも頼ってほしい」
「ありがとうございます、アザミさん」
同じ力で抱き締めて、離れる。満足そうに頷いたアザミは扉の前まで行くと、じゃあダンテを呼んでくるから、と部屋を出て行った。
ふぅっと漏れた息をその場に落として、窓際に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろす。
窓から見える緑は、穏やかな光を反射してきらきらと光って見える。ダンテたちの屋敷は少し街から外れている場所にあるらしく、自然に囲まれていた。植物をゆったりとした気持ちで眺めるなんて、エイヴと暮らしていた家ではなかった。あそこはコンクリートに囲まれていたし、そもそも景色を眺めている余裕なんてなかったから。
「……エイヴ」
ついこの間まで家族同然だと思っていた彼は、一体どうなったのだろう。ちゃんと腹を割って話が出来ていたら。また違った未来があっただろうか。同じだけの傷を、と思って彼が言われたくないことをすべて口から出してしまった。今までの礼も伝えるべきだったのに。と、考えたところで、否、と思う。礼など言われても嬉しくないだろう。唾と一緒に吐き捨てられるに決まっている。
やめよう。もう済んだことだ。
エイヴとは道を違えた。ただそれだけのことだ。
はぁ、と落とした溜息を、バンッと勢いよく扉が開いた音が遮った。
思わず肩を揺らして振り返った先。乱れた髪のまま息を切らせているダンテがいた。
ふはっ、と笑いが漏れる。
「お前、急ぎすぎ。そんなに急がなくても俺は、……ん」
大股で近寄ってきたダンテに、両頬を掴まれたのと同時に口づけられた。ふわりと彼が好んでつける香水の匂いが鼻腔をくすぐる。嗚呼ダンテだ。喜びで心臓が一つ大きく跳ねる。何度も降ってくる唇が溶けそうなほどキスだった。口の端から垂れた透明な液体を仕上げと言わんばかりに吸って、やっと離れていった唇。そのまま抱き締められて、笑みを浮かべたままクロードも抱き締め返す。
「クロード、逢いたかった」
掠れた声が耳を擽る。ん、と返事をして頭を撫でる。
「ちゃんと部下を困らせずに仕事したか?」
「したよ。だから褒めて」
「偉い偉い。偉いぞ~、ダンテ」
「…………全然褒められてる気がしないんだけど」
髪の毛をグシャグシャにされたのが不満なのか、身体を離したダンテは不満げに眉を寄せていて、また笑ってしまった。仕方がないから、顔を寄せて触れるだけのキスをしてやる。
あ、そういえば俺からキスしたの初めてかも。
そんなことを思っていたら、ダンテが目を丸くして固まっていた。
「えっ? は? なに? もう一回」
「ははっ、調子のんな。もうしない」
寄ってきたダンテから顔を背けて、手で彼の口元を押し返す。ぺろ、と手のひらを舐められて肌がゾワリと粟立つが、ふん、と鼻で笑って追い返した。はぁ、と溜息を吐いたダンテはやっと諦めたのか、姿勢を戻して顔を覗き込んでくる。
「アザミに聞いたよ。全快だって」
「おかげさまでな」
「じゃあこれからは一緒にいられるね」
頬を緩ませたダンテの言葉を、いや、と否定する。少し悪い気もするが、元々決めていたことだ。心を明け渡しても、彼が用意した鳥籠に入るつもりはない。
「俺はあの家に帰るつもりだ」
「は? 冗談だろ?」
「本気だよ」
「なんで? 居心地悪かった? 何処が駄目?」
「どこも駄目じゃないところが駄目なんだ」
「どういう意味?」
食い下がるダンテの首の後ろに回した手で、彼の顔を引き寄せる。至近距離で見つめ合ってから、にんまりと笑って言ってやる。
「お前に飼い慣らされて、全て与えられてお姫様みたいに生きるのは御免だ。言ったろ? 俺は従順な犬にはならない」
その言葉を思い出したのだろう、ダンテも片頬を釣り上げて言った。
「アンタらしいね。そういうところも好きだよ」
「……やっぱりお前ドMだろ。進んで振り回されに来るやつがいるか?」
「だって、自由に裏社会を飛び回ってるのがクロードだろ?」
今度はクロードが目を丸くしてしまった。
てっきり自分の手中に収めたいのだと思っていた。しかし、彼は自由に飛び回って良いという。止められて口論になるのを覚悟していたのに。
頬を緩ませたダンテは、僕はね、と言った。
「クロードが僕を、最後に帰る場所にしてくれるなら、それでいい」
「帰る場所?」
「うん。物理的じゃなくてもいい。アンタの心が、僕を拠り所にしてくれるなら、何をしてくれても、どれだけ僕を振り回しても構わない」
力強い言葉だった。
ハッ、と思わず笑いが漏れてしまったのは許してほしい。嬉しさだとか驚きだとか愛おしさだとか、言葉にできない感情が胸の中を暴れ回って、制御しきれなかったのだ。
ダンテは、もしかしたらクロードよりもクロードを理解しているのかも知れない。
誰かに縛られる人生は嫌だというその心で、誰かに心を預けていたいと思う。その矛盾を受け止めてくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。
この何でも持っている男が俺だけに、とんでもない極上の想いをくれるなんて。
「ふっ、あははは!」
「クロード?」
いきなり下を向いて笑い出したクロードを、ダンテは不思議そうに見ている。顔を上げれなかった。いま上げてしまったら、嬉し涙で滲んだ瞳を見られてしまうから。溢れた涙をこっそり拭って、顔を上げる。当然のように欲しい言葉をくれたダンテの灰の瞳が、一心にクロードを見ていた。
いつまでもそのうつくしい瞳を一心に自分に向けていてほしい、なんて思ってしまうのだから、クロードもダンテのことを言えないのかもしれない。
ダンテ、とその名を呼んで、頬に触れる。
なあに、と擦り寄ってきた男に顔を近づけて、いま胸を占めている言葉を囁いた。すると、ダンテはとびきり甘い光を帯びた瞳で笑んで、僕も、という言葉を閉じ込めるようにキスをくれたのだ。
きっとこれからも面倒事は尽きないだろう。
それでもクロードはこの世界で生きていく。この極上をくれる男と共に。
(第一部 おわり)
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