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第二部 22.前触れ
弦楽器の音色で満ちるラウンジを、ゆったりとした速度で歩く。煌びやかな装飾が施された照明の光が、その下で歓談している人々を優しく撫でている。
そんな間を縫って、先に進んでいくクロードの口元には淡い笑みが浮かんでいた。
今日の相手は、随分と昔からクロードを贔屓にしてくれている顧客だ。
情報屋という、闇社会では甘く見られがちな立場にいるクロードを一度だって軽視したことはないし、報酬も駆け出しの頃からきちんと見合った額を払ってくれている大切な、そして、気の置けない友人のような人である。
その人の後ろ姿を、中庭が見える窓際の席に見つける。クロードは歩く速度を少しばかり上げて、彼の背中へと声を掛けた。
「ルカ、お待たせ」
クロードの声に、ゆっくりとその男が振り返る。少し長めの暗い金の髪に、まあるい瞳の碧眼。実年齢よりも若く見えるのが嫌なんだよね、と言いながら、ヒゲを生やそうとはしない天邪鬼さをみせる彼がすぐさま立ち上がって、満面の笑みで出迎えてくれた。
「久しぶりだね、クロード。また会えて嬉しい」
「俺も。変わりないみたいでホッとした」
挨拶代わりのハグと頬へのキスを済ませて、促されるまま横の席に腰を下ろす。すぐさまウエイターに声を掛けたルカは、ロイヤルミルクティーをもう一つ、とクロードの意図通りの注文をしてくれた。商売相手として大切にしてくれている姿勢は、今も変わっていないようだ。
ルカは、ダンテのようなギャングではない。
ギャングではないが、ギャング相手に色んな物を売り捌くやり手の実業家だ。
彼に頼めば、武器だけではなく、兵力、工作用の人質、替え玉用の死体も、何だって手に入る。ただし麻薬だけは、ルカの信条に反するらしく、取り扱わない。
そんな彼の市場調査に、情報屋として協力するのが主なクロードの仕事だった。それにプラスして、商売敵に探りをいれることもよくやっていたのだが。
最近は彼からの依頼はめっきり減っていた――それだけ商売敵をコテンパンにしていた――ので、こうして実際に顔を合わせるのは、実に一年ぶりだった。
「で? もう長いこと独壇場のルカが、今日は俺にどんな頼み事なんだ?」
席の肘掛けに頬杖をつきながら問いかける。
正直に言えば、ルカが自分に頼みたい事に全く心当たりがない。
市場調査が必要ないほどに、この地域のギャングはルカの組織に頼っているのが現状だ。正確で迅速な対応に、クオリティも高い。更には、情報を全く相手に売らない中立を貫く姿勢も、ギャングたちからは一目置かれていると聞いている。
そんなルカが、一体クロードに何を頼みたいと言うのか。
ルカは息を溢すように笑ってから、クロードと同じように頬杖をついてニンマリと攻殻を吊り上げた。
「今日はただ単に、クロードに会いたかっただけ」
「会いたかっただけ?」
「うん。今の君が幸せなのか、そうじゃないのか、見極めたくてね」
どういう意味か分からずに首を傾げると、ちょいちょい、と手招きされた。体ごと顔を近付ける。
隠すように口元に手を添えたルカが耳元で囁いた。
「ダンテ=スヴェトラーノフがクロードを力尽くで我が物にした、って噂で持ちきりでね。でも君は力に屈するような人間じゃない。だから直接会えばその真偽が分かると思って」
まさか、そんな噂が回っているとは。
おおかたダンテがした根回しだろう。クロードがダンテに無理矢理従わされている、と思わせられれば、ダンテに攻撃の矛先が向く事があっても、クロードには向かない可能性は上がる。ダンテはぶっ飛んでるところがあるので、それが正しい解釈なのかは不明だが。
歯を見せてニヤリと笑ってやる。
「実際会ってみて、どうだった?」
「ムカつくくらい幸せそう」
ルカはやや不満そうに、でも悪ガキのような笑みを浮かべてそう言った。ご明察、と拍手を送る。ルカも人相手の商売をしているだけある。噂がただの噂にすぎないことを、会ってすぐに理解してくれたらしい。
「でも安心した。ダンテ=スヴェトラーノフは噂よりもずっと情がありそうだし、そのピアスを見る限り、君も満更じゃないみたいだし」
「はははっ、やっぱルカにはバレちゃうか」
「そんな惚気丸出しでよく言うよ。……でもちょっと残念だなぁ」
肩を竦めたルカが、心底ガッカリしたようにため息を吐いた。湯気を立てるミルクティーに口をつけながら、彼は言った。
「もし無理矢理従わされてるなら、ボクが連れ去って二人でランデヴーでもしたかったのに」
ふっと思わず吹き出してしまった。ルカの大胆さは未だ健在らしい。
彼はそれだけの力がある。本気で逃げようと思えば、顔だって変えてくれるツテを持っているのがルカ・ブラックという男だ。実際、この街から逃げようとしたときも、ルカが頭を過った。しかし、止めたのだ。ルカに迷惑は掛けられなかった。ルカに会っていなくても、ルカの情報を全く仕入れていないわけではない。
「ルカが独り身だったらそれも考えたけどな」
持っていた情報をぶつけてやれば、ルカはキョトリと目を丸くした。
実際、書類上のルカは独り身だ。これから先も、国の法律が変わらない限り、独り身を貫くだろう。
しかしクロードは知っている。彼には溺愛している恋人がいることを。
「なんだぁ。知ってたの?」
ぶすっと頬を膨らませてジト目を向けてくるルカに、肩を竦める。
誰かにリークするつもりは全くない。が、情報収集が一種の趣味のようになってしまっているせいで、知っていた。彼が家に匿うようにして一緒に暮らしている存在を。
「勿論誰にも言うつもりはないから安心してくれ」
「まあバレるのも時間の問題だから良いけどね。でもクロードがボクを売るようなヤツじゃないってのはわかってるつもりだよ」
ウインクは余計だが、そう思ってもらえているのは素直に嬉しかった。
信頼関係が崩れるのは一瞬だ。身内だと甘く見てしまいがちだが、ルカとは飽くまで商売相手。金というツールを挟んでいる関係である分、かつての同居人よりもずっと信じられる。
お待たせしました、とテーブルに置かれたロイヤルミルクティーを手にとって口をつける。少しシナモンが入った仕様のこのミルクティーは、クロードのお気に入りだ。ひとくちを大切に味わっていると、ルカが言った。
「もしもクロードがダンテ=スヴェトラーノフに愛想を尽かしたら、いつでも声掛けてね。全面的に協力するから」
ちらりと見たルカの碧い瞳が楽しそうに歪んでいる。まるでそれを期待しているようでもあったし、ただ揶揄いたいだけのようにも見えた。お祭り騒ぎが好きなルカのことだ。多分前者だろう。
この世界にいるだけあって、ルカも大概イイ趣味してるよなぁ。
期待に光る碧色に肩を竦めながら笑った。
「そんな日が来ないことを願ってるよ」
はぁ~アツアツじゃん、なんて不機嫌そうな声が追い掛けてきて、クロードはまた笑った。
ルカとの話に花を咲かせていたクロードは、仕事モードから完全にプライベートモードになっていたせいで、辺りに全く気を配っていなかった。
だから、知らなかった。
そんなクロードの様子を、じっと見つめている人間がいた事なんて。
***
会計はボクがしとくから、というルカに甘えて、クロードは絨毯の敷き詰められた廊下を歩いていた。この後のスケジュールは特に無い。てっきりルカから依頼を受けるものだとばかり思っていたから、わざわざ空けていたのだが。
折角だからパティスリーでも覗いていくか。
「クロード・シャルルさん」
そんなことを考えていたクロードの背中に、少し高めの声が掛けられた。
人違いか、と思ったのは一瞬で、足を止めて、ゆっくりと振り返る。
クロードは基本的に名字を名乗ることはしない。実家を飛び出した時にただのクロードになったからだ。しかし何かと不便なことが多く、闇社会で生きるためにつけた名字が『シャルル』だった。それを知っているということは、間違いなくカタギではないだろう。
振り返った先。
ゆるいウェーブがかかった亜麻色の長い髪に、同じ色のまあるい瞳を持った女が、立っていた。きらびやかなネックレスに、シャンパンゴールドのシフォンのワンピースを身にまとっている。
見たことのある顔だ。一秒も経たずにその顔と一致する名前を弾き出して、にこりと営業用の笑みを浮かべた。
「ボクに何か御用ですか? イザベラ・ファヴェーロさん」
クロードの言葉に、女――イザベラは僅かに眉を動かした。身体の前で結ばれた両手に、ぎゅっと力が入ったのが見える。
イザベラ・ファヴェーロ。
ダンテの組織と並ぶギャングの頭目、アルマン・ファヴェーロの愛娘だ。実際に会うのは初めてだ。アルマンが溺愛するあまり、外に出さずに家の中でほぼ過ごしてきた随分な箱入り娘、と噂は聞いていた。だから、まさかこんなところで会うとは思わなかった。しかも、情報屋の自分に声を掛けてくるなんて。
一体彼女が何の用で自分に声を掛けてきたのか、一切見当がつかない。
真っ赤なルージュが引かれた唇を震わせて、イザベラがゆっくりと口を開く。
「クロード・シャルルさん。貴方とゆっくりお話をしたいの。今お時間、よろしいかしら?」
鈴を転がすような可愛らしい声で、彼女は言った。
普通の男なら鼻の下を伸ばしそうな声にも、クロードの胸の内は凪いでいる。笑みを崩さないまま、応える。
「もちろん構いませんよ。どちらで話しますか?」
「実は、あまり他の方には聞かれたくないことだから、落ち着いて話せる場所を用意しましたの。着いてきてくださる?」
したたかな人だな、と思う。下手に出ているようでいて、その実、従わせる気満々だ。噂に違わない我儘娘なのかもしれない。まあでも、大口の取引先が増えるのは良いことだ。もしもダメそうなら断れば良い。気楽に構えていこう。
そんなことを思いつつ、クロードはイザベラの背中を追いかけることにした。
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