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24.賽は投げられた

 はぁ、と大きく漏れた溜息が地面に落ちていく。  クロードは一人、夕暮れに染まり始めた街を歩いていた。  また一つ溜息が漏れる。  何か別のことを考えようとしても、頭に浮かんでくるのはあのイザベラの顔だ。目ぼしい仕事があれば彼女のことを考えなくて済んだのに、暇なときに限って厄介事が舞い込んでくる。  ルカに会って話が出来た、までは最高の一日だった。  恋人の惚気話なんて、イザベラとのあの十数分にも満たない会話に比べれば可愛いものだったな、と思う。ああいうふうに啖呵を切ってしまったが、万が一イザベラが父親に告げ口をしたら、自分の命が無いかもしれないことを今ふと気付いた。  父親であるアルマンの仕事を引き受けたのは数度で、そこまで信頼関係もない。だから、可愛い愛娘のお願いとクロードの命を天秤に掛けたら、当然愛娘のお願いに傾くに決まっている。  もしかしなくても、俺ヤバいかも。  そんなことを思いつつも、危機感を感じていない自分。無意識的にダンテが後ろに着いてくれていることが安心材料になっているのだろう。それに、彼女だって本気でクロードに危害を加えるつもりはないはずだ。  クロードに手を出すこと=ダンテの組織に喧嘩を売ること、という方程式はアドルフォの一件で闇社会に知れ渡っている。よほどの物好きではない限り、自滅行為をする組織は居ないだろう。イザベラも高慢なところはあるようだが、ただのバカでは無さそうに見えた。  そう考えれば、確率的には殺される可能性は低いだろう。    ただ引っ掛かるのは、彼女が『婚約』と言ったことだ。  組織同士で政略結婚的なことをするのはよくある。しかしそれはお互いの利害が一致した場合にのみ成立することで、それをダンテが条件にするとはとても思えない。逆にダンテが何かしらの条件を出した上で、アルマン側が出した答えが『愛娘イザベラとの婚約』だったのかもしれない。  その仮定があったら、確かに納得がいく。  将来有望な相手であり、かつ娘のお気に入りであれば、父親としても及第点のはず。しかし、果たして本当にその条件をダンテが受け入れるのか、という疑問が残るのだが。  少し考えてみる。  うん、まあ、アイツならやるな。頷きながら妙に納得してしまった。  ダンテならやる。婚約=相手を愛せ、ではない。婚約してただのお飾りにしておく、ということを彼ならやりかねない。目的のために手段を選ばないところがダンテにはあるし、目的に辿り着いた時、何らかの方法で婚約を破棄できるのだとしたら逆にやらない手はない。    そこまで考えたところで、ハッと笑ってしまった。  ダンテが心変わりした可能性を少しも考えていない自分に気付いてしまったから。  どこからその自信が来るのか、と自分で笑ってしまうほど、ダンテを疑っていない自分がいる。でもそれは一重に、ダンテが行動で示してくれているからだ。  引く手数多だろうに、浮名ひとつ流れてこない。  逆に第三者から、力ずくでクロードを自分のものにした、と聞く始末。  これの何処を疑えというのか。  真相が気にならないと言えば、嘘になる。だが婚約の話が本当だったとしても、何かしらの理由があれば彼から言ってくるはずだ。いざという時は自分から聞いても良い。  とりあえず、ダンテの出方を待つべきだ。    辿り着いた結論に、肺に溜まった息を全部吐き出す。現時点で、クロードに出来ることはなにもない。出来ることがないなら、これ以上考えるのは無駄だ。   よし、と気持ちを切り替えて夕食のことを考えることにした。  ***    街の端にある低層マンションを今日の寝床に決めたクロードは、301号室の扉の前に立っていた。そのマンションは、ダンテの組織の人間も数人寝床にしていると聞いていたからだ。イザベラの刺客が来るとは考えにくいが、念の為すぐにでも助けを呼べるところを選んだ。  低層ではあるもののセキュリティはしっかりとしていて、エントランスに入るにもカードキーが必要だった。思わず、おお、と声に出して感心してしまったくらいだ。鍵も何もないところに住んでいた自分が、如何に異常だったか思い知った。勿論この街の治安を知らないわけではないのだが、あまり必要性を感じていなかったのが本音だ。これからはもう少し気にしたほうが良いのかもしれない。  扉の取っ手部分にカードキーをかざす。赤い点滅がすぐに緑に変わって、鍵が開いた音がした。  開いた扉の間に身体を滑り込ませて、そっと閉めた。  その瞬間に、腕を掴まれた。と思ったら、そのまま引き寄せられて温かいものにぶつかる。ふわりと鼻をくすぐった嗅ぎ慣れた香水に、頬が緩んだ。 「おかえり、クロード」 「ああ、お前もな。ダンテ」  ぎゅうっと抱き締められて、ぽんぽんと背を撫でてやる。  ギャングのボスがこんなに早く帰宅してて良いのか、と思う反面、最近忙しそうにしていたダンテと面と向かって会えるのは純粋に嬉しかった。ここ一週間ほどは、クロードが寝ている間に来て、目を覚ました時にはいない、ということが多かったから。  身体を離して顔を覗き込む。目の下に薄いクマがある以外は、いつも通りだ。親指の腹で目の下のクマを撫でると、懐くように目を閉じるダンテ。幼い仕草に小さく笑ってしまうのもいつも通り。 「ちゃんと寝てるのか? 倒れたら洒落になんねぇぞ?」 「身体と頭が休めるくらいには寝てるよ。ありがと。クロードは元気そうだね」 「まあお前よりは暇人だしな」  ダンテと恋人になってから、それなりに仕事量は減った。  ダンテに頼まれたわけではないし、彼が強要してきたわけでもないが、体を使った仕事はなるべく避けるようにしたのだ。勿論どうしても、という時はその限りではないが、仕事を依頼してくる人たちも、ダンテの支配下にある、と思っているのか、無理難題を振ってくることはない。それどころか、最近彼とはどうですか、と興味津々に聞いてくる人も多い。舐めた態度を取ってくる連中は、最近めっきり音沙汰がないから、快適で順風満帆な生活を送っているのが現状だ。 「夕飯食ったか?」 「まだ。アンタは?」 「パニーニ買ってきた。一応お前の分もあるぞ」 「すき」 「しってる。足りない分はコンソメスープな」  引っ付き虫のダンテを引きずるようにして歩いて、キッチンへ向かう。  忙しそうにしているダンテに少し悪いな、と思う反面、アンタはそれでいい、と言ってくれた彼に甘えている。それに、いつ愛想を尽かされて殺されるか分からないのだから、今を十分に謳歌させてもらっている。だから今日もいい気分でルカに会ってきたのだが。 「? どうかした? クロード」  イザベラの顔が思い浮かんで、パニーニを切り分けていた手が止まったのを、ダンテは見逃してはくれなかった。いや、と言いかけて、少し考える。今ここで聞いてしまおうか。すでに話が来ているのなら、何かしらの反応はあるはずだ。もしも話せないことなら『話せない』というだろうし、はっきりさせた方が、のちのち厄介事になったりしないかもしれない。  一度手を完全に止めて、くるりと振り返る。  不思議そうな銀の瞳と目が合う。 「ダンテ、今、俺に話しておきたいことはないか?」  この聞き方なら、今話せることであれば話してくれるだろう、と踏んだ。『今は話せないよ』なのか『ないよ』なのか『それ以外』なのか。  ダンテは何度かの瞬きを繰り返して、視線を逸らすことなく首を傾げた。 「ないよ。どうして?」 「……そうか。なら良いんだ」  目を伏せてから、パニーニに向き直った。ナイフで完全に切り分けたパニーニの中から、トマトの果肉がぽろりとまな板に落ちていく。 「嗚呼そうだ。お湯沸かしてくれるか?」 「うん、わかった」  素直に離れていくぬくもり。  肺に少し溜まった息を細く静かに吐き出して、クロードはさっさと手を動かす。妙に冷えている頭で、冷静に考えが巡っていく。  ないよ、という言葉が嘘だいうことには確信が持てた。ダンテの嘘が見抜けないほど、耄碌していない。それが『理由があって話せないこと』なのか『後ろめたくて話せないこと』なのかは、まだ分からないが。ただ、何かしらの考えがダンテにあってすでに行動に移しているは間違いない。と思う。  この分だとあのイザベラ嬢の『婚約』の話は本当である可能性が上がった。  本人だけが道化のように踊るだけなら看過出来るが、もしも。  もしも、ダンテがあの令嬢に惚れているのだとしたら。   約束は守らないと、約束の意味がないよな? なぁ、ダンテ。    でも、と思う。今はまだ動くときじゃない。もうしばらく静観するのが賢い選択だ。  ナイフの刃を見つめてから、シンクにそっと置く。お気に入りの皿に切り分けたパニーニを乗せてから、まな板に乗っているトマトの果肉に気づく。指で掬ってぺろりと舐め取れば、酸味が交じる甘みが口の中に広がった。  数日後、届いた手紙を見てクロードは自分の考えが正しかったのだと知ることになった。  ポストから取り出したときに見えた封蝋。あのルージュと同じ色のそれに、すぐに差出人を理解した。ご丁寧にペーパーナイフで開けた封筒の中の手紙には、『ダンテ=スヴェトラーノフ』と『イザベラ・ファヴェーロ』の名前が大きな字体で並んでいた。極めつけは『婚約パーティへのご招待』の文言。更にご丁寧に、ぜひいらしてくださいね、という直筆のメッセージとあの日と同じ色のリップマークがあったのだ。  ハッ、と漏れた笑い。当然悲しみなど宿ってはいない。  なくさないように、きちんと玄関横に備え付けられた棚の、よく見える場所にその招待状を置いた。 「全く最悪な趣味をしてるな、本当に」    笑い混じりの言葉を玄関に置いて、クロードはその数日後に迫ったパーティの準備に取り掛かったのである。

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