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第4話 眩く波紋と泳ぐ陰-1

身体を動かすのは、気持ちがいい。 元気な朝は、いつものコースを走るのが日課だった。 春から夏へと変わりゆく季節。アスファルトの隙間から香る新緑の匂いが、妙に心地いい。 街路樹の木漏れ日が頬を撫でて、視界を煌かせた。 すれ違う散歩中の犬が、飼い主を見あげては舌を出して幸せそうに尻尾を振っている。 そんな様子を見て、なんとなく笑みが漏れる。 あいつは愛されてる。 表情で解る。 人間以外でなら、この世界にもわりと好きなものがあるのかもしれない。 そんなふうに思える、まばらにあたたかい朝だった。 走った後の汗が背中にじんわり残るまま、近所のコンビニに寄る。 おにぎりとお茶でも、と店内を歩いていると――目に入ったのは、雑誌の棚。 そこに並ぶ艶のある紙面の中、ひとつだけ、視線を吸い寄せられるものがあった。 (……蒼だ) きっちりとセットされた髪。少し挑発的な視線。 無造作に開いた襟元からのぞく胸筋と、腕時計が視線誘導してくる手首。 (本堂蒼特集…。あの人、名前そのまま名乗ってんじゃん、あっぶな) 思わず口の中でそう呟きながら、俺はなぜかその雑誌を手に取っていた。 おにぎりとお茶、それから普段は買わないファッション誌。 レジ袋の中で、それらが仲良く並んで揺れていた。 ◇◇◇ 帰宅後、雑誌をソファに放り投げる。 シャワーで汗を流してから、防音ブースでの収録に備えて、コーヒーを淹れた。 おにぎりに噛みついてコーヒーを啜りながら、届いたシナリオに目を通す。 「耳舐め、手マン、キス、クンニ、挿入……で、フリートークか。俺はインキュバス……で、同棲中ね」 インキュバスと同棲。四六時中エロいのかな、それって。 まともに生活できなさそうだな。 「”もうココ、トロトロになってるね…”ここからクンニね。で、この後に指入れ…」 シナリオ確認中も思考が止まない。 (一人だけとセックスしてるとマンネリして浮気する、なんてこともありそう) どんだけ続くんだ?そういう関係って。 カラダ以外で繋がれば続くのか? 皆好きで結婚するのに、神の前で永遠を誓って、別の相手と腰を振る。 撮影会後のお楽しみ会にいた既婚者のおじさんを思い出す。 ゲイなのか、バイなのか知らないけど、貪るように俺を抱いてた。 続く関係なんてあるのか? 防音ブースのデスクにスマホを置いて、一つ背伸びをすると録音を始めた。 ――この収録中『愛してるよ』と何度いっただろうか。 言うたびに、少しずつ味がなくなっていく。 味がしないその言葉は、もはやためらうことなく口に出せる。 クライマックスを録り終えようとした時。 スマホが震えた。 「……。電源切るの忘れてた」 録音を一旦止め、通知を覗く。 表示されていたのは、蒼の名前だった。 『今日の夕方、ご飯ついでに抱きたい』 ふ、と口の端が緩んだ。 「抱きたいだって?」 下心です、と言い切るその率直さに思わず笑ってしまう。 「い、い、よ、…っと」 そう呟き、スマホをリビングのソファに放り投げる。 その下には、蒼が表紙を飾った雑誌。 その表紙に重なって、新たな通知が届いた。 『早く会いたい』 ◇◇◇ 待ち合わせの場所に着いてみると、そこは随分と高級そうなホテルだった。 久々に会う蒼は、前回の大衆に紛れ込む系ファッションとは違って、体型を活かした綺麗目お兄さんを演出している。 「撮影でもあったの?髪キマってんね。かっこよ」 そう言って褒めると、少し照れながら、蒼は「君に褒められたかった」と囁いた。 あーモテるやつだ、と内心思いながら、昇るエレベータの数字を眺めた。 (俺に褒められたかった…ね) チラッと蒼を横目に見て、この間身体を褒めた時、泣きそうな顔をしてたことを思い出す。 あれってもしかして嬉しかったのだろうか。 「努力してえらいよ、蒼」 そう言って軽く肩に触れると、パッとこちらを見て、すぐに顔を逸らしてしまった。 (ん?違ったか…?) エレベータが食事フロアにつくまで、蒼はガラス張りの外を眺めてなかなかこちらを見てくれなかった。 食事はビュッフェスタイル。フロアも食事も煌びやかで、目にも美味しい。 「すご……選び放題」 俺が並ぶ食べ物に目を丸くすると、蒼は少し微笑んで答えた。 「唐揚げとポテト以外、何が好きなのかわからなかったから。好きに食べられる方がいいと思って」 「サイコー!俺、好きなものを好きなだけ食べられるの、超ー好き」 思わず声が弾む。 気づけば、トングを持った手が忙しく動いていた。 「食べたあと、ここに部屋を取ってある。明日って休み?」 「んー、やることはあるけど……昼までなら、いてやってもいいよ」 そっと耳元で囁くと、蒼の喉がぴくりと揺れた。 彼は、人の目を気にする。 だから俺は、気づかれないように甘えてあげる。 「ほら、時間もったいないよ。食べようぜ」 トレイの上には、唐揚げ、ポテト、ハンバーグ、それに彩り豊かな野菜たち。 グラスには氷の音が響いている。 俺が選ぶメニューを蒼が覗き込んで「へぇ」と観察してくる。 「みんなが大好きなやつだ」 だいぶオブラートに包んでいるが、要は「お子様」だと言いたいんだろう。 蒼はそうやって少しからかう面があるな、と理解してきた。 そっちがその気なら、と俺は口の端をちろりと舐めて挑発する。 「そう、俺お子様なんだ。だから後でたくさん甘やかしてくれないとね」 「任せて、満足させてあげる」 蒼はローストビーフを盛りつけて、さらりと言った。 (…あれ?蒼、周りの人間見えてるか?) 困らせるつもりで言った言葉を打ち返してくるなんて。 ビュッフェの煌めきの中、俺は蒼の横顔をそっと盗み見た。 その瞳の奥に、色が差していることに、気づいてしまった。 ◇◇◇ ビュッフェのフロアは、シャンデリアの光を反射してまばゆいほどに輝いていた。 静かなピアノのBGM、グラスが触れ合う音、ステーキが焼かれるライブキッチンから香る肉の匂い―― 華やかで満たされた空間に、酔いがじわじわとまわっていく。 数回目の皿の往復で、俺たちはデザートコーナーにたどり着いた。 ケーキ、フルーツ、プリン、ゼリー。 小さなガラスカップに美しく盛りつけられた甘い誘惑が、まるで宝石みたいに並んでいる。 俺はフルーツタルトをひとつ、そして蒼は小さなショートケーキに手を伸ばした。 スイーツを手に席に戻る二人は、どちらの頬もほんのり赤くなっていた。 料理が美味しかったのと、軽く飲んだアルコールのせいだろう。 酔いも手伝って、ほんのりとした熱が胸の奥に灯り始める。 蒼の顔をふと見て、改めて思う。 (……美しい男だな) 本堂蒼、24歳。俺より二つ上。 身長183センチ。引き締まった身体。整った髪。肌には染みも皺もない。 睫毛は濡れているように長く、横顔は彫刻みたいに整っていた。 さっき、なんとなくスマホで調べた。 ちょっと調べれば、どこにでも名前が載ってる。人気モデルなんだ。 写真よりも、目の前の彼のほうがずっと生きていて、ずっと人間だった。 その口元に運ばれたのは、白い生クリームののったケーキ。 「……すごい見てくるね。どうしたの?」 ふ、と蒼がこちらを見て笑った。 唇に残ったクリームを、艶のある舌でぺろりと舐め取る。 「美人だなと思って」 俺が答えると、蒼の眉がぴくりと動いた。 「……え、君って鏡見たことないの?」 「俺なんて、時間と共に失われていく資産だよ。この間カメラマンにも言われたし。抱かれたい時に抱いてもらえるのにも、期限があるよな」 「俺は全然抱くけど」 即答する蒼に、思わず笑ってしまいそうになった。 でもその一言が、逆にリアルに聞こえなかったから、続ける。 「おっさんになったら、さすがに抱いてくれないだろ。今の状況だからそう言える。そんなのはすぐ反転する。状況が変われば、簡単に変わるものはある」 今、この瞬間、 もしも状況が変わったとしたら、 永遠だと思った言葉ですら、いとも簡単に過去になる。 「俺のこと、信じられない?」 蒼のその声は、心なしか少しだけ沈んで聞こえた。 だから俺は、背後のテーブルに目をやり、蒼に目配せした。 「あんたの斜め後ろの女子グループ……本堂蒼に気づいてる。セルフィー撮るフリして、あんたが振り向くのをずーっと待ってる。つまり、今ここで…あの子達には“友達”に見える俺があんたにキスなんてしたら、あんたができる最善策は、俺をはっ倒して“本堂蒼”を守ること」 そう言いながら、俺は身を乗り出して蒼を見た。カトラリーがカチャリと鳴る。 彼の瞳には、揺れる光が浮かんでいた。 少し戸惑って、でも、俺にだけ届く真っ直ぐな光。 「…そんなことしないよ」 真っ直ぐすぎて、俺は笑ってしまう。 わかってない。 人間ってそうなのに。 「わかれよ。 好きだとか、絶対とか、そういうのは、状況が生み出す刹那の迷いでしかないんだから。誰だってヤバい時、咄嗟に自分だけを守る」 突きつける本音に、声を潜める。 そんなに甘くない、それはただの現実。 「“本堂蒼”がそんなに大事なら、俺は君に接触なんてしてないんだけどな」 蒼のその一言に、言葉が詰まった。 そして意を決したような、いや前から腹は決まっていたかのような蒼の顔が。 綺麗な目を細めて、こちらに顔を寄せてきた瞬間―― 俺は、ビクッとして構えてしまった。 「ハンバーグ取ってくる…!」 まるで逃げるように席を立つ。 後ろを振り向けなかった。 蒼の瞳が、まるで覚悟を決めた人間のそれみたいで―― 俺は、それを直視できなかった。 (喋りすぎた…)

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