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プロローグ
8月の土曜日、午後もずいぶん傾いた時間。アスファルトに残る熱気がまとわりつく神保町。大通りから一本入った、昭和の面影を残す古い雑居ビルの3階に、俺の城がある。 ドアに掲げた「神崎探偵事務所」というプレートの、涼しげなシルバーだけが、この古いビルには少し不釣り合いに真新しい。
「モモちゃん!ああ、本当に、よかった…!神崎さん、何度お礼を言っても足りません…!」
応接用のソファで、初老の女性が、涙声で腕の中のケージをそっと撫でている。その中の三毛猫、モモちゃんは、そんな感傷的な再会はどこ吹く風と、迷惑そうに「にゃあ…」と短く鳴いた。 この子が家出してから三日。聞き込みと張り込みを重ね、ようやく近所の公園の植え込みで、この気まぐれな小さな女王様を発見したのだ。
「…ご確認いただけましたら、こちらにサインを」
俺は、感傷を断ち切るように、少しだけ低い声で成功報酬の受領書を差し出す。こういう時、どんな顔をすればいいのか、昔から少し苦手だった。
女性がペンを走らせている間、俺は改めて自分の城を見渡した。 がらん、としたワンルームの殺風景な空間。長年使い込んだデスクと、その上で物言いたげに鎮座する黒電話。破れた革を何度も補修したソファは、今夜、俺のベッドになる。 スチール製の書庫には、かつて俺が未来を夢見て読み込んだ法律専門書が、まるで過去の自分の墓標のように、整然と並んでいた。壁に貼った都内の詳細な地図と、窓際で静かに湯気を立てるコーヒーメーカーだけが、ここが機能している事務所だと、辛うじて主張している。
「本当に、これだけで申し訳なくて…」
女性が、申し訳なさそうに薄い封筒を差し出す。猫探しの報酬なんて、たかが知れている。それでも、今の俺には、その日銭すら命綱だった。
カラン、とドアベルが寂しげな音を立て、女性は何度も振り返りながら帰っていく。 再び一人きりになった静寂の中、俺はデスクの上の、どこまでも白いスケジュール帳に目を落とした。そこに書き込まれた次の予定は、何一つない。
――家賃の支払い日だけが、赤い丸で無慈悲に迫ってくる。 どうしようかと、本気で途方に暮れていた。
俺は、大きく息を吐くと、立ち上がって凝り固まった体を伸ばした。軋む背骨の音が、やけに大きく響く。 事務所のブラインドを降ろし、入り口のドアに「CLOSE」の札をかけ、内側から鍵をかける。これで、今日の探偵・神崎徹の仕事は終わりだ。
そして、ここからは、ただの神崎徹としての時間が始まる。
応接用のソファを手際よくベッドに変形させ、座面の下からくたびれた布団を引きずり出す。仕事と、ささやかな生活を隔てる、これが俺の境界線だった。
部屋の隅にある給湯スペースで、インスタントの味噌汁に湯を注ぐ。コンビニで買ったおにぎりを一つ、無言で胃に流し込む。空っぽの胃袋を満たすだけの、味気ない夕食。だけど、今はこれで十分だった。
食事を終えると、書庫の扉を開ける。そこには法律書の隣の箱に、数枚の着替えとタオルが詰め込んである。着替えとタオル、小さなかごに入れたアメニティグッズをナップサックに放り込み、俺は再び事務所のドアを開けた。
向かう先は、このビルから歩いて5分の場所にある、コインランドリーと24時間営業のスポーツジム。
夜風が、火照った頬を優しく撫でていく。見上げれば、ビルの隙間から、欠けた月が、まるで道標のように浮かんでいた。 快適とは、お世辞にも言えない。でも、悪くもない。 弁護士バッジの重圧に心をすり減らし、虚構の正義を追い求めていたあの頃より、ずっと、自分の足で立っている実感があったから。
俺は、誰に言うでもなく呟いた。
「…さて、汗でも流してくるか」
カギを閉め、階段を降りた。 ジムで汗を流し、シャワーを浴びて、コインランドリーで乾いた洗濯物を回収する。それが、今の俺の一日の終わりを告げる、ささやかな儀式だ。
その背後、誰もいなくなった事務所のデスクで、この静かな夜には不釣り合いな、けたたましい電話の呼び出し音が鳴り響き始めたのを、俺はまだ、知らなかった。 その一本の電話が、止まっていた俺の運命の歯車を、再び大きく動かすことになるなんて、思いもせずに。
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