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騒音 -1-

8月の土曜日の午後。 空調の効いた窓の外では、真夏の太陽がアスファルトを焼いている。ここは東京・丸の内。日本のビジネスの中心地。ガラス張りの高層ビルから皇居の緑を見下ろす、清廉な法律事務所の一室は、まるで別世界のように静かだった。 普段なら、クライアントである大企業に合わせて静まり返っているはずの、週末のオフィス。それでも、所長の気まぐれな『社会貢献』と、新人弁護士の『研修』という、もっともらしい理由が重なった時だけ、この扉は例外的に開かれる。 ガラス張りの応接室に差し込む西日が、磨き上げられたテーブルに金の筋を描き、落ちる影を長く、長く伸ばしていた。 「――それで、その騒音というのは、具体的にはどのような…」 新人弁護士の高槻(たかつき) (わたる)が、教科書をなぞるような生真真面目さで問いかける。緊張からか、彼の額には真珠のような汗が薄っすらと滲んでいた。 向かいに座る依頼人――相葉(あいば) 隼人(はやと)は、その芸術品のように整った顔を、隠すことなく不満げに歪ませる。歳の頃は二十歳そこそこ。白いTシャツから伸びる腕は、しなやかでいて、鍛えられているのがわかった。快活そうな、そして少しだけ、育ちの良さを感じさせる学生。それが彼の第一印象だった。 「だから! ドン!…ドン!って、まるで床を殴りつけてるみたいな鈍い音が、夜中じゅう続くんです! 昨日なんか朝の4時まで! さすがにもう、我慢の限界で!」 情熱的に、そして少しだけ焦れたように訴える隼人の言葉を、高槻は慌ててメモに書き留めていく。その斜め後ろで、俺――神崎(かんざき) (とおる)は、気配を殺してノートパソコンのキーを叩いていた。 今日の俺の役割は、産休に入ったパラリーガルの代理。だから、彼女が担当していた裁判の準備書面の事実関係を整理したり、過去の判例をリサーチしたりするのが、本来の業務のはずだった。こんな、ただの記録係として、新人の法律相談に同席するなんて、聞いていない。この場に、俺の感情が入り込む余地はない…そう、思っていたはずだった。 「なるほど…それはお辛いですね。では、その音というのは…」 高槻が、またしても核心をつけない、曖昧な質問を重ねようとする。その瞬間、俺は思わず、キーを打つ手を止めていた。イライラする。この非効率なやり取りが、無性に。 「相葉さん」 低く、静かに紡いだつもりの声が、やけにクリアに部屋に響いた気がした。隼人と高槻の、二対の瞳が、声の主である俺へと注がれる。俺はパソコンの画面から目を離さないまま、続けた。 「その音は、腹に響くような重低音ですか? それとも、何かを引きずるような甲高い音?」 「え…?」 「発生する曜日に、何か規則性は? 例えば、週末の夜に集中しているとか」 「あ…えっと、言われてみれば、金曜と土曜が特にひどい、かも…」 「結構です。お住まいの住所と、建物の構造を教えてください。分譲か、賃貸か。マンション名も正確にお願いします」 事務的に、でも矢継ぎ早に質問を重ねる俺に、隼人は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。そして、すぐに淀みなく答える。 「江東区豊洲の、分譲タワーマンションです。タワーの名前は…。あ、俺名義で買ったんで、賃貸じゃないです」 「…………」 豊洲のタワマンを、学生が、自分で購入…? 一瞬だけ、キーを打つ指が止まった。 こいつ、一体何者だ。 頭に浮かんだ疑問符を、即座に思考の隅へと追いやり、俺は感情を消してタイピングを再開する。隼人の答えを淡々と打ち込みながら、最後の質問を投げた。 「管理会社や、上の階の住人本人に、直接苦情を伝えたことは?」 「いえ、それはまだ…逆恨みされたら怖いですし…」 「なるほど」 短い相槌と共に、俺は再びキーボードに指を走らせ、影のような記録係に戻る。 けれど、もう応接室の空気は、元には戻らなかった。 それまで担当弁護士である高槻をまっすぐ見ていた隼人の視線が、まるで磁石に引き寄せられた砂鉄のように、完全に俺へとロックオンされていたのだ。その、あまりにまっすぐな眼差しに、少しだけ居心地の悪さを感じる。 高槻が咳払いをして、なんとか仕切り直そうとする。 「えー、では相葉さん、今後の対策ですが、まずは内容証明郵便を…」 「あの!」 隼人の声が、高槻の言葉を鮮やかに遮った。その声と、熱を帯びた視線は、寸分の狂いもなく俺に向けられていた。 「神崎さん…でしたか。俺、どうするのが一番いいと思いますか? 法的に、とかじゃなくて、現実的に。一番早く、静かに眠れるようになるには、どうしたらいいですか」 「…それは、担当の高槻弁護士にお話しください」 俺は視線も上げず、突き放すように答える。これ以上、面倒事に関わるつもりはなかった。 なのに、隼人は諦めない。それどころか、その瞳は、獲物を見つけた獣のように、爛々と輝きを増していた。 「いえ、あなたに訊いてるんです。俺の担当、あなたに代わってもらえませんか」 「……は?」 思わず、素っ頓狂な声が出た。 隣で、高槻が「え、ちょっ…相葉さん!?」と、悲鳴に近い声を上げているのが聞こえる。 こうして、俺の平穏なはずだったパラリーガル代理生活は、始まったその日に、猪突猛進で、そしてあまりにまっすぐな瞳を持つ大学生によって、終わりを告げたのだった

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