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騒音 -2-
じりじりとアスファルトを焼く蝉の声が、いよいよやかましくなってきた週明けの午後。 俺、神崎徹は、短期契約のパラリーガルとして、空調の効いた静かなオフィスで、裁判所に提出する書類の最終チェックに没頭していた。その集中を破るように、デスクの固定電話が、内線に切り替わる音を立てる。
『神崎さん、1番にお電話です。クライアントの相葉様からですが…』
受付スタッフの、どこか面白がるような声色。
…またか。
俺は深く、そして誰にも気づかれないようにため息をつくと、こめかみを軽く押さえながら受話器を取った。頭痛の種が、また一つ増える予感がする。
「…お電話代わりました、神崎です」
『神崎さん!俺です、相葉隼人です!あの後、神崎さんのアドバイス通り、騒音日記をつけ始めました!それで聞いてください、昨日の夜は…!』
太陽みたいに明るい、弾むような声。その熱量に、耳が焼かれそうだ。 俺は、彼のマシンガントークを、氷を落とすような声で遮った。
「相葉さん。その件の担当は、高槻弁護士です。進捗の報告は、彼にしてください」
『えー、でも高槻先生、なんだか頼りな…いや、そうじゃなくて!俺、神崎さんと話したいんです!神崎さんの声を聞くと、なんか、こう…勝てそうな気がするんで!』
その、あまりに屈託のない口説き文句に、一瞬、言葉を失う。 俺は無言で受話器をデスクに置くと、事務所の奥で山のような書類と格闘している高槻の、気の毒な背中に視線を送った。そして、無情にも、彼のデスクの内線番号をプッシュする。
数秒後、電話口から高槻の気の抜けた声が聞こえた。
『はい、高槻です…』
「高槻君。相葉さんから、君に報告があるそうだ。熱心なクライアントで、良かったな」
『えっ!?…あ、うん、わかりました!』
俺は、高槻が慌てて別の回線で電話に出るのを確認し、一方的に通話を切った。まったく、時給分以上の気苦労が増える。
そして、その気苦労は、翌日、物理的な形で目の前に現れた。 事務所の入り口が、軽快な電子音を立てる。見れば、大きな紙袋を抱えた相葉隼人が、まるで嵐のように、受付の制止を振り切って、まっすぐに俺のデスクへと突進してくるところだった。
「神崎さん!差し入れです!ここの水炊き、美味いんですよ!」
ドン、とデスクに置かれたのは、老舗料亭の名前が書かれた、明らかに高級そうな紙袋だった。周囲の女性職員たちが「え、すご…」と囁き合い、好奇の視線を向けてくるのが肌でわかる。俺は、これ見よがしに眉間のシワを深くした。
「相葉さん。アポイントもなしに、どういうつもりですか。それに、こういう心遣いは不要です」
「いいじゃないですか!感謝の気持ちですって!あ、それと、これ!見てほしくて!」
彼が、子犬のように目を輝かせて、スマホの画面を俺の顔に突きつけてくる。そこには、天井のぼんやりとしたシミが写っていた。
「上の階の住人、水漏れも起こしてるっぽいんですよ!これって、慰謝料増額の要因になりますかね!?」
俺は、彼のスマホを、人差し指一本でそっと押し返すと、デスクの向こうで固まっている高槻を、顎でしゃくった。
「その判断は、担当弁護士が下します。高槻君と、話してください」
「ええ〜…。神崎さんの意見が聞きたいのに…」
隼人が、不満げに唇を尖らせる。その子供っぽい仕草に、一瞬、毒気を抜かれそうになるのを、必死でこらえる。高槻が、困惑した表情でそろそろとこちらへやって来た。
「あ、相葉さん、こんにちは…。ええと、証拠写真、ですか?」
「ああ、じゃあ、よろしく、高槻君」
俺は、隼人と高槻の間に見えない壁を作り、再びパソコンの画面に向き直った。
背後で、「いや、だからこのシミはですね…」「なるほど、ですがこれだけでは…」「だから神崎さんの意見が!」という、絶望的に噛み合わない会話が聞こえてくる。
うるさい。本当に、うるさい。
こいつのペースに、巻き込まれるのだけは、ごめんだ。 俺は誰にも聞こえない声で呟くと、苛立ちを振り払うように、キーボードを叩く速度を、少しだけ速めた。
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