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エピローグ

春の気配が、まだ少しだけ遠い、2月の土曜の夜。 俺、神崎徹は、代官山にあるカフェのテラス席で、すっかり冷え切ったコーヒーを啜っていた。視線の先は、通りを挟んだ向かいの、瀟洒なジュエリーショップ。今日の依頼は、シンプルな浮気調査。ターゲットの男が、妻ではない女に高価なプレゼントを買い与える、その決定的な瞬間を押さえる。ただ、それだけの仕事。 息を殺し、気配を消し、夜の街の風景に溶け込む。探偵の基本だ。 その、完璧なはずだった擬態を、背後からの、太陽みたいに能天気な声が、いとも容易く打ち破った。 「あれ、神崎さん? こんなところで奇遇ですね! これって、やっぱり運命じゃないですか!?」 心臓が、一瞬だけ、嫌な音を立てて跳ねた。 振り向くと、案の定、目をキラキラさせた相葉隼人が、満面の笑みで立っていた。 「…静かにしろ、バカ。仕事中だ」 俺は、声量を殺して、でも最大限の苛立ちを込めて言い放つ。隼人は、俺のただならぬ雰囲気に、はっと息を呑んだ。そして、子供みたいに「しーっ」と自分の口に人差し指を当てると、俺の視線の先を盗み見て、全てを察したようだった。 「…尾行、ですか」 囁くような声で尋ね、俺がこくりと頷くと、彼は音もなく、まるで猫のように俺の隣の席に滑り込んだ。 それから数十分。ターゲットが出てくるのを、二人で待つ、奇妙に甘い緊張感が漂う時間が流れた。 その瞬間は、突然訪れた。 ジュエリーショップのドアが開き、ターゲットの男と、腕を組んだ若い女が出てくる。女の指には、ショーウィンドウで見た、明らかに高価そうな指輪が光っていた。今だ。 俺が、テーブルの上のスマホをさりげなく持ち上げようとした、その時。カフェの店員が、タイミング悪く俺たちのテーブルに伝票を置きに来た。まずい、見られる。 そう思った瞬間、隣に座っていた隼人が、すっと立ち上がった。 そして、まるで何でもないことのように、俺と店員の間に、壁を作るように立つ。彼は、壁にかかったメニューボードを指さしながら、わざと大きな声で言った。 「へえ、この店のパフェ、すっごく美味そうだなあ。神崎さん、今度一緒に…」 その、俺を守るための広い背中が作る、完璧な死角。 俺は、その一瞬を逃さなかった。スマホのカメラアプリを起動し、無音でシャッターを数回切る。指輪をはめた女の手元、そして、親密そうに笑い合う二人の顔。完璧な証拠が、手に入った。 俺がスマホを置くのを確認すると、隼人は役目を終えたように、何食わぬ顔で席に戻ってきた。そして、得意満面の笑みで、褒めてほしそうに胸を張る。 「どうです? 俺、役に立つでしょう。ちゃんと、空気も読めるし」 俺は、撮ったばかりの写真を確認しながら、深く、長い息を吐いた。 こいつのせいで、寿命が縮んだ気もするし、助けられた気もする。まったく、心臓に悪い男だ。 「…余計なことを」 いつもの塩対応。隼人の肩が、がっくりと子犬みたいに落ちるのが見えた。 その、しょげた背中を見ていると、胸の奥が、ほんの少しだけ、ざわついた。 「…でも、助かった。ありがとうな」 顔も上げないまま、小さな声で付け加える。 「え…」 「今度、ラーメン奢る」 その言葉に、隼人は数秒間、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。やがて、その意味を理解すると、彼の顔が、ぱあっと、夜を照らすイルミネーションみたいに輝いた。 「はいっ! 絶対ですよ! 約束ですからね! 新宿の、あの美味い店がいいです! チャーシュー増しで!」 さっきまでの静寂はどこへやら、興奮してまくし立てる隼人。 「デートだ。これってデートですよね」 「デートじゃねえよ。単なる礼だろ」 「デートです」 俺は、その声を聞きながら、知らず知らずのうちに、自分の口元に笑みが浮かんでいることに、まだ気づいていなかった。 もう少しだけ、この厄介で、まっすぐで、そして、どうしようもなく温かい男との日常が続くのも、悪くない。 そんなことを、柄にもなく、思っていた。 もちろん、今の俺の最高のパートナーは圭吾だ。 癒えない傷を共有し、光と影となって互いを補い合う、歪だけど最強のバディ。その関係は、これからも変わらないだろう。 でも、目の前で、ラーメンデートのことで頭がいっぱいになっているこの男が、数年後、この街に新しい風を吹かせる弁護士になることも、俺にはもう、わかっていた。 法律書だけを武器にしない、太陽のようにまっすぐな弁護士。 そして、その隣には、きっと俺がいる。彼が掲げる理想を、揺るぎない事実に変えるための、唯一の探偵として。 光が影を支えるのではなく、光が、より大きな光を照らし出すための物語。 そんな未来が、ここから始まるのかもしれない。 …まあ、それは、また別のお話。

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