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初恋

年の瀬。 俺、神崎徹は、都会の探偵という姿を脱ぎ捨て、神職の息子という、もう一つの顔に戻っていた。 実家である調布市にある緑豊かな神社は、大晦日の喧騒に、まるで熱を帯びたように包まれている。吐く息は白く、かじかむ手で参拝客に破魔矢やお守りを手渡す。冷たい風が、着慣れた白衣と袴の隙間から容赦なく入り込んできて、肌を刺した。 「はい、次のお客様、どうぞー」 流れ作業のように声を張り上げた、その時だった。 授与所の前に、ひょこりと見慣れた顔が現れた。ダウンジャケットのフードを深く被り、マフラーに顔をうずめている。でも、間違えるはずもなかった。相葉隼人だ。 「…お前、なんでここにいる」 「あ、神崎さん!やっぱりいた!明けましておめでとうございます!」 まだ明けてもいない新年の挨拶を、彼は満面の笑みで繰り出す。その笑顔は、凍えるような寒さを、一瞬だけ忘れさせてくれた。 「なんでって…初詣ですよ、はつもうで」 「まだ年開けてないだろ。それに、お前の家は、ここからかなり遠いはずだ」 俺の詰問にも、彼は全く動じない。それどころか、まるでずっと隠していた宝物を見せびらかす子供みたいに、目をキラキラさせながら言った。 「言ったじゃないですか、俺の初恋だって」 隼人は、授与所のカウンターに、一つのお守りをそっと差し出した。 「小学校受験の時から、毎年、あんたに会いに、ここに来てたんですよ。そして、あんたからお守りを買ってた。これが、一番最初にもらったお守りです」 差し出されたのは、色褪せて、角が擦り切れた、小さな小さなお守りだった。 でも、俺はそれを見て、息を呑んだ。忘れるはずもない。その、特徴的なデザインは…。 「これ…」 「覚えてますか?この年だけ、特別だったんですよね」 そうだ。この年は特別だった。 この神社の氏子地域でもある、地元、調布出身の陸上選手が世界大会で金メダルを取った記念に、特別に奉製された、駆け抜ける人の姿と必勝祈願の刺繍が入ったお守り。そして、それは確か――。 「…これは、十五年前のものだ」 俺が呟くと、隼人は得意げに、そして、少しだけ照れくさそうに、はにかんで笑った。 「十五年前。俺、まだ6歳でした」 「…………」 俺の思考が、完全に停止した。 十五年前。6歳。 目の前の、この生意気で、大人びていて、時々どうしようもなく子供なこの男が、まだ小学校に上がるかどうかの、ほんの小さな子供の頃から? 俺は、絞り出すように、声を出した。 「…初恋って、お前、いったい、いくつからだよ」 「だから、6歳ですって」 隼人は、まるで当たり前のことのように、こともなげに言った。 「神社の片隅で迷子になって、べそべそ泣いてた俺に、当時高校生だったあんたが『大丈夫か?』って、このお守りをくれたんです。その時からずっと、あんたは俺のヒーローで、俺の、たった一人の初恋の人ですよ」 嘘だろ。そんな昔のこと、俺は全く覚えていない。 でも、目の前にある、十五年という、あまりに長い時間を経たお守りが、彼の言葉が真実であることを、何よりも雄弁に物語っていた。 俺は、目の前の男 ―― 相葉隼人を、初めて見るような気持ちで見つめた。 こいつの、この途方もない想いの前では、俺がずっと囚われてきた過去のトラウマも、意地を張っていただけの、ひねくれたプライドも、あまりにちっぽけで、取るに足らないものに思えた。 「……ばかやろう」 やっとのことで出たのは、そんな悪態だけだった。 でも、その声が、自分でもわかるくらいに少しだけ震えていたことに、こいつは、気づいてしまっただろうか。 ゴーン、と、除夜の鐘が、一つ、鳴り響いた。古い街並みに、厳かに、そして優しく響き渡る。 目の前で、十五年の時をその瞳に凝縮したみたいな顔で、相葉隼人が笑っている。 俺、神崎徹の、固く凍りついていた時間が、この年の瀬に、ようやく静かに、そして温かく溶け始めたのを、感じていた。 新しい年が、もうすぐ、始まろうとしていた。

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