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正義の在処 -11-
交渉が始まる、その直前。俺と桐島は、城戸との最後の意思統一を図っていた。一筋縄でいく相手ではない。城戸は、百戦錬磨の、プライドの高い経営者だ。素直に負けを認めるはずもなかった。
「…理想論だな。絵に描いた餅だ。そんなものに、会社のリソースを割けると思うのかね」
城戸は、隼人の提案を一蹴する。圭吾が、法的なリスクと、この提案がもたらす長期的な企業イメージの向上について、冷静に、そして理路整然と説得を試みる。それでも、彼は頑として首を縦に振らない。あくまで「隠蔽」こそが、最も損害の少ない道だと信じている。
約束の時間まで、あと数分。交渉が始まる前に、味方であるはずの城戸を説得できなければ、全てが崩壊する。その、暗礁に乗り上げかけた時だった。
「…一つ、よろしいでしょうか」
苛立たし気な城戸の視線が、俺に向いた。
俺も、まっすぐに城戸の目を見た。
「あなたのおっしゃる通り、隠蔽すれば、この訴訟で勝利を得られるかもしれない。でも、そのために、あなたはこれからも嘘をつき、人を欺き、いつかバレるかもしれないという恐怖に、怯えながら生きていくことになる」
「……なんだと?」
「もう、いい加減にしませんか。その、隠蔽っていう体質。あなたほどの男が、そんなこと続けたって、ただ、かっこ悪いですよ」
それは、法律論でも、経営論でもない。 ただの、シンプルで、どうしようもない、一人の男としての言葉だった。
城戸の眉が、ぴくりと動く。彼の、鉄の仮面のように決して揺らぐことのなかった表情が、初めて、わずかに崩れた。
その隙を、圭吾は見逃さなかった。
「――社長。神崎の言う通りです。そして、あなたの息子さんである隼人君が示したこの道こそが、あなたの、そして新星ジャーナルの『誇り』を守る、唯一の道です。過去の過ちを清算し、未来を創造する企業として生まれ変わる。我々はそのための法的サポートを、全力で行います」
圭吾の完璧なフォローが、最後の楔を打ち込んだ。 しばらくの沈黙の後、城戸は、深く、長い息を吐いた。その目は、目の前の俺たちではなく、少しだけ成長した、自分の息子の顔を見つめていた。
「…好きにしろ」
それは、紛れもない、降伏の言葉だった。
こうして、城戸という最大の障害を乗り越えた俺たちは、ついに、本当の戦場へと駒を進めた。
その翌日、パレスホテル東京の特別会議室でその交渉の席を設けた。
その部屋は、戦場と呼ぶには、あまりに静かで、美しすぎた。 磨き上げられた、一枚板のマホガニーのテーブル。深く、座る者を包み込むような、重厚な革張りの椅子。壁にかけられた現代アートは、この部屋を借りるだけで、一体いくらかかるのか想像もつかないほどの価値を静かに主張している。 そして、大きな窓の外には、まるで計算され尽くした借景のように、皇居の深い緑と、丸の内のビル群が広がる。
そのテーブルを挟み、向かいには、原告である下請け制作会社の社長と、彼の代理人である百戦錬磨といった風情のベテラン弁護士が、硬い表情で座っている。 そしてこちら側は、中央に担当弁護士である桐島圭吾。少しだけ距離を置いて、腕を組み、冷徹な表情で正面を見据えている男――俺たちの依頼人、新星ジャーナルの社長、城戸彰文。 そして、その末席に、俺、神崎徹は控えていた。
「…どうぞ」
俺は、サイドテーブルに用意されていたティーセットから、恭しく、しかし無駄のない動きで、それぞれの前にお茶を淹れて回った。これは、俺の仕事ではない。でも、こうして自ら動くことで、相手との物理的な距離を詰め、その表情、呼吸、指先の微かな震えまで、全てを観察することができる。探偵としての、俺の癖だった。
部屋の空気は、高級な茶葉の香りがしてもなお、氷のように張り詰めていた。
交渉の序盤、相手方の弁護士は、強気の姿勢を一切崩さなかった。
彼は、テーブルに分厚い資料を広げると、冷徹な、しかし、よく通る声で語り始めた。
「―――まず、契約上支払われるべきであった制作実費のうち、現在まで未払いとなっている金額が、XXX円。これに、本来得られるはずであった利益を加算します。これが、直接的な金銭的損害です」
彼は、淡々と、しかし一切の隙を見せずに続ける。
「ですが、問題はそれだけではありません。貴社(新星ジャーナル)が、一方的に『品質が低い』と断じたことで、私の依頼人の会社は、業界内での信用を著しく毀損されました。これにより失われた、将来的な受注機会に関する損害は、計り知れないものがあります」
そして、彼は、隣に座る依頼人である番組制作会社の社長の、疲れ切った顔を一瞥した。
「そして何より、大企業である貴社から受けた、この誠意のかけらもない対応。これにより、私の依頼人である社長が、心身をすり減らし、眠れない夜を過ごしてきた精神的苦痛は、筆舌に尽くしがたい。以上の、直接的損害、信用毀損による逸失利益、そして精神的苦痛に対する慰謝料、並びに、本件訴訟に要した弁護士費用。その全てを合算し、我々が妥当と考える慰謝料は、総額で金〇〇円と考えます。これ以下の金額で、示談に応じるつもりはありません」
その言葉に、城戸の眉がわずかに動いたのを、俺は見逃さなかった。 だが、桐島は、表情一つ変えずに頷いた。
「先生のおっしゃることも、ごもっともです。ですが、我々も、今回の件について、社内の過去の記録を徹底的に調査しました。その結果…」
桐島は、そこで一度、ゆっくりと言葉を切った。俺は黙って、相手の弁護士の目を、ただ静かに見つめる。
「今回の件とは直接関係ありませんが、5年ほど前に、別の制作会社様との間で、いくつか…デリケートな問題があったことが判明しましてね」
相手方の弁護士の眉が、わずかに動く。
「…何が言いたいのですかな。5年前の話など、本件とは無関係でしょう」
「ええ、おっしゃる通り、別件です」
桐島は、穏やかに、しかし、どこまでも冷たい笑みを浮かべた。
「では、もしこのまま交渉が決裂し、裁判が長引いた場合。当時の担当者と、我々の事務所の先代(桐島壮介)との間で交わされた、ネット上での風評操作に関する通信記録なども、公になる可能性がある、とだけ申し上げておきましょう」
相手方のベテラン弁護士の顔色が変わった。
その言葉が持つ、本当の恐ろしさを、彼は瞬時に理解したのだ。
桐島は、相手が動揺している、その完璧なタイミングで、次のカードを切った。
「我々が望むのは、そのような破滅的な結末(スキャンダル)ではありません。我々は、あなた方と争いたいわけではないのです」
そして、桐島は、隼人が考え、そして、ここにいる城戸も一度は「理想論だ」と切り捨てた、最後の切り札を提示した。
「そこで、我々のクライアントからは、全く別の、未来へのご提案があります」
桐島は、隼人の企画書を元に、その画期的な「仲介案」を、冷静に、しかし、確かな熱を込めて語り始めた。 制作費の全額出資、ゴールデンタイムでの放送、そして、クリエイター支援財団の設立…。
相手方の社長と弁護士は、最初は呆気に取られていた。だが、その提案が持つ、単なる賠償金以上の価値に、次第にその表情を変えていく。
それまで沈黙を保っていた城戸も、息子の考えた突拍子もない、しかし、あまりにも眩しい提案を、弁護士である桐島が見事に語るその様を、ただ静かに、複雑な表情で見つめていた。
桐島は、彼らにとどめの一言を告げた。
「我々は、過去の過ちを清算し、あなた方と共に、新しい未来を創りたい。そのための提案です。…どちらの未来を選ばれるか、お決めください」
それは、脅迫ではない。
選択肢の提示だ。
数分間の重い沈黙の後、相手方の弁護士は、深く、長い息を吐いた。
「…その提案、前向きに検討させていただきたい」
その瞬間、桐島は、ちらりと背後の城戸に視線を送った。城戸は、わずかに、しかし、確かに頷いてみせた。交渉成立の合図だった。 桐島の口元に、初めて、わずかな笑みが浮かんだ。 完璧な、交渉の勝利だった。
◇◆◇◆◇
示談が成立して、数週間後。新星ジャーナルは、下請け企業への謝罪と、彼らの新規プロジェクトへの出資を正式に発表した。さらに、若手クリエイター支援財団の設立も公表され、その英断は、世間から驚きをもって、そして好意的に受け入れられていた。
圭吾の執務室に、三人の男が集まっていた。圭吾が、祝いのために取っておいたという高級なシャンパンを、三つのグラスに注ぐ。
「――というわけで、本日、原告側との交渉も、完全に成立した。すべて、丸く収まったわけだ」
「乾杯」
圭吾の言葉に、俺と隼人もグラスを掲げる。 カチン、と澄んだクリスタルの音が、部屋に心地よく響いた。俺は、黄金色のきめ細やかな泡を、そっと喉に流し込む。
(…本当に、終わったんだな)
隼人が描いた、あまりに青臭い理想の骨組み。それに、俺が探偵として掴んだ、誰も否定できない事実という肉付けをし、 そして最後に、圭吾が、弁護士として完璧な理論で仕上げた、奇跡のような示談交渉。
泥沼化するはずだった訴訟は、正式に取り下げられ、俺たちが見つけてしまったパンドラの箱 ―― あの忌むべき5年前のメールが、法廷に提出されることは、ついになかった。
隠蔽するか、しないか。
俺たちを絶望の淵に追い詰めた、あの悪魔的な選択を迫られること自体が、なくなったのだ。
「いやー、本当によかったですね、神崎さん!」
感傷に浸る俺の隣で、隼人が、子犬のように心底嬉しそうな笑顔を向けてくる。俺は、もうそれを振り払おうとしなかった。
「…ああ」
過去の呪縛は、解けるのかもしれない。
目の前には、最高の友と、そして、太陽のように眩しい、少しばかり厄介な『初恋』を、見事に拗らせている男がいる。
悪くない。 心の底から、そう思った。
窓の外に広がる東京の夜景が、今夜は、やけに優しく、そして、俺たちの未来を祝福してくれているように、きらきらと輝いて見えた。
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