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第1章_どうして_第1話_レモンバームの香りに
「あっついなあ……。和葉 の部屋のカーテン開いてるみたいだけど、日焼けしちゃいそう」
僕は一人でそう呟くと、振り返ってバスが去っていくのを見やった。のっそりと走り出した車体は、疲れて眠り込んだ受験生をそれぞれの家へと運んでいく。
高校三年の夏休みとあって、授業は休みではあるけれど毎日のように塾や図書館での勉強に明け暮れている。
今は全国模試を受けたばかりの体を引きずるようにしてバスに乗り込み、束の間の休息時間を堪能しようと、大好きな人がいる所へとやって来た。
ジリジリと照りつける太陽が夕暮れになってもその威力を残したままで、降り立った病院前のバス停でも肌が焼けそうに痛む。慌てて手にした日傘は、今年の誕生日に恋人の樋野和葉 がプレゼントしてくれたものだ。
僕も和葉も一月十五日生まれで、誕生日は真冬だ。それなのに、なぜ日傘なんだろうと不思議に思ったのだけれど、
『晴れ雨兼用傘だから、一年中朋樹 の事を守れるだろう?』
と優しく笑いながら答えてくれた。彼の言う通り、この傘はそれからずっと僕を守ってくれている。肌身離さず持ち歩いているから、ゲリラ豪雨に見舞われても濡れて風邪をひくこともなかった。そして、今日のように暑い日には、真っ赤になって痛みだけが残る弱い肌を、強烈な日差しから守ってくれている。
取り出した傘を小脇に挟み、バッグを背負い直す。そして、和葉の笑顔を思い浮かべながら傘を開いた。
左手に傘を持ち、歩き始めようと一歩を踏み出す。その時無意識に伸ばしかけた右手に、ふと笑ってしまった。
「一人なんだってば、もう」
そう自分にツッコミながらも、涙がじわりと目を囲む。
いつもこの手を握ってくれていた彼は、隣にはいない。僕らが生まれた日から、つい一ヶ月前まで毎日のようにこの手を握っていたその手は、今はあの静かな部屋で主人の体の側に横たわったままだ。
「……っ、早く顔見ようっと」
顔を上げて傘の内側に描かれている植物の柄を眺めながら、涙と悲しみを飲み込んだ。
和葉は、一ヶ月前の登校中に交通事故に遭った。道路に飛び出した小学生が車に撥ねられそうになったところを通りがかり、その子を助けようとした拍子に自分の体を道路に叩きつけてしまった。それからずっと眠り続けている。
検査では何も問題がなく、物理的な損傷も見られないのに昏睡状態が続いていて、病院としてはもう出来ることはないんだと言われた日には、樋野のおばさんと一緒に涙が枯れるまで泣いた。
でも、諦めたわけじゃない。いつかはあの柔らかな笑顔を讃えて、僕の名前を呼んでくれると信じて待っている。
そんな状況だから返事などあるわけがないけれど、ここに来る時は必ずノックをするようにしていた。コンコンと優しく扉を叩く。そして、いつも彼の家を訪ねた時にあの声が返してくれる言葉を思い出しながら、ゆっくりとドアを開けた。
『とも? どうぞ』
そう言ってもらえたと想像しながら、ハンドルを掴んでドアを開ける。
「和葉、来たよ」
声をかけながらベッドのそばへと向かうと、変わらず眠ったままの横顔が見えていた。話をしてはくれないけれど、和葉は今でも変わらず美しい。
「夕方でも暑いね。これでもここはまだ涼しい方なんだよ。外は灼熱だからさ」
声をかけながら荷物を置かせてもらい、いつものようにすぐそばに椅子を置いてその手をとる。そして、いつも使うからと置かせてもらっているレモンバームのマッサージクリームを手に取った。ふわりと爽やかな香りが漂う。
「もしかしたら、昼はここも暑いのかな。夕方しか来れないから分かんないね。いつも遅くてごめんね」
そう言いながら、彼の手をマッサージする。これは、僕の日課だ。
目が覚めた時に少しでも問題が少なくて済むようにと、理学療法士さんに教えてもらって拘縮の予防のためにこれを始めた。もちろん、僕がすることで治療の妨げにならないように、やり過ぎたり無理をさせたりしないように注意はしている。
ただ、こうでもしないと毎日が辛くて仕方がなくて、人生のかかった大学受験という大きなイベントを乗り越えられそうになかった。これは、僕が僕のためにする、僕のわがままだ。献身的な行為とは違うということを、いつも胸に留めている。
同じ病院で同じ日に生まれた僕たちは、ずっと一緒に過ごしてきた。
高校入学と同時に恋人関係になり、これからの人生も共に過ごしていくという約束をしている。つまり、大学も同じ所へ行く予定で、ずっと二人で励まし合いながら勉強を頑張ってきた。
一人で過ごさないといけなくなった毎日は、なんとか頑張れても三日が限度で、和葉に触れて安心したいという思いが強くなったら、寝る時間を削ることになったとしてもこうして会いに来ていた。それを繰り返すことで、自分がいかに和葉に依存しているかということに気が付かされる。情けないけど、それだけ彼のことを好きなのだから仕方がない。
いつも穏やかで優しい笑顔を湛えていて、滅多に感情が揺らぐこともない和葉。僕もあまり感情は派手に動かない方ではあるけれど、僕よりもずっと優雅で余裕のある広い心を持っている。割となんでもそつなくこなすタイプで、出来ずに苦しんでいる人や弱い立場にある人には積極的に手を伸ばす人だ。だからこそ、子供を助けようとして事故に遭ったと聞いた時には、驚きよりも先に彼らしいと納得してしまったくらいだ。
「あれ、今日は随分柔らかいね。もう誰かにやってもらった後なの……」
出来ればまた二人で穏やかな時を過ごしながら、こんな風にコミュニケーションをとりたい。そう願いながら手を握り、関節を動かそうとしてかけた言葉は、喉の奥に張り付いてしまった。思いもよらないタイミングで、それが叶う日はやって来た。
「……あれ?」
手に僅かな動きを感じた。勘違いかなと思ってやり過ごそうとしたけれど、やっぱり微かに跳ねている。痙攣では無い、ランダムなタイミングでの動きだった。驚いて和葉の顔を見ようとすると、その目が僕の方を向いていた。
「……えっ!」
ほんの少しだけだった。ほんの少しだけだけれど、その目には彼の意思が反映された光が宿っていた。
「と、も……」
放心していた僕の耳に、か細い呼び声が聞こえた。それは本当に突然のことだった。少なくとも、三日前にはまだ昏睡状態だった。この三日間はテストの準備を含めて忙しくてここに来れなかった。
きっとその間に意識は戻っていたんだろう。だって、こんなに急に話せるようになったりはしないはずだ。こんなに急に、愛おしげに見つめてくれたりはしないだろう。こんなに急に、手を握り返してくれたりなんて……。
「……和葉、僕が分かるの?」
僕が彼にそう問いかけると、目だけでそっと答えてくれた。何度も声を出すことは難しいんだろう、苦しそうに眉根を寄せていた。
やっと聞けた声は、記憶の中のものよりも少しだけ掠れている。弱々しくて頼りなくて、でも僕が大好きな音も変わらずにその中に宿っていた。
柔らかな笑顔と共に与えられるその声の甘さに、僕はいつも心の底をくすぐられる様な嬉しさを感じていた。それが何よりも僕を幸せにしてくれる。久しぶりに感じたその感覚に、嗚咽が止まらなくなった。
「和、起きたんだ……」
「とも、き」
マスクの向こう側には、彼が必死になって口を動かしている様子が見える。そうまでしても僕を呼ぶその姿に、思わず僕は飛びついた。
「和葉!」
ずっとその声が聞きたくて、呼んで欲しくて仕方がなかった。今日までに飽きるほど泣いた。十八歳の僕には、三十回の夜を超えることは、一人で見知らぬ場所へ放り込まれたような気がしてとても心細かった。
そして、日の光の中に一人でいる事は、それよりももっと耐え難いものだった。
伸ばした手を握ってくれる人がいない、名前を呼んでも答えてもらえない。抱きしめても、抱きしめ返してもらえない。愛して欲しいのに、そうしてもらえなかった。
「朋樹」
動きづらくなった顔を必死に動かし、笑おうとしてくれている。その気持ちが胸に沁みて、痛くて仕方がない。僕に応えようとしてくれる彼が戻ってきた……。それだけで、こんなにも幸せなんだと改めて驚いてしまう。
和葉のいない生活なんて無理だ。何度もそう思った。これ以上昏睡が続くようなら、これから先の事を色々と考えないといけないと言っておばさんは泣いていた。だから、僕の心の中にもうっすらと諦めが浮かんでは消えていた。それも事実だ。
それがこんな風にまた名前を呼んでくれるようになるなんて、嬉しくて泣いてしまう日が来るなんて。先のことを考えると辛いからと蓋をしていた心の中から、洪水のように感情が押し寄せて溢れた。
「良かった、良かったあー! 和葉ぁー!」
バスを降りた時には我慢出来たのに、今はもうそれを堰き止めるものを失ってしまった。ただ、あの時は悲しく寂しい涙を流そうとしていたはずだろう。それが今は嬉しすぎて溢れる涙へと変わっている。
頬を伝わる時に感じた温もりは、僕の心がそれまで冷え切っていたということと、今まさに和葉の声によって温まったからなんだと教えてくれるようだった。
和葉の腕にしがみつき、一度流れ始めたら止まらない涙を流れるままにした。まるで小さな子供が安心して母に縋るように、大好きな人がそばに戻ってきた安心感に任せて、大きな声を上げて泣き喚いた。
心配した看護師さんがやって来て泣いているのが僕であることを知ると、静かにするのよと一応注意はして帰って行った。でも、彼女の目もまた潤んでいたんだ。僕が和葉の回復をどれほど願っていたのかを、彼女たちが一番分かってくれているからなんだろう。
「樋野くんが若いから起きた奇跡だっていうのもあるだろうけど、君がずっとマッサージしてくれていたから起きた奇跡かもしれないね。本当に良かったわね。ずっと待ってたんだものね」
彼女がそう言ってくれた時、和葉もまたその美しい目から一筋の涙を流していた。
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