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第1章_どうして_第2話_僕には分かる1
◇
蝉が鳴いている。
和葉が入院した日も、目を覚ました日も、うるさいくらいに蝉が鳴いていた。今年はその鳴き声を、何か尊いものとして聞いている。
七月の半ば、それが全く鳴き声が聞こえなくなってしまった時期があった。あまりに暑かったため、蝉が地上に出てくることもできないのかと思っていた。
その頃の僕は一番絶望感に打ちひしがれていた時で、それ以上深くものを考えることが出来ず、勝手にそう結論づけて納得していた。
でもみんなに聞いてみると、そんなことは無かったと口を揃えて反論された。蝉はいつだって騒がしく、必死になって鳴いていたらしい。
心に余裕が無いと目に映るものが減るということは知っていたけれど、どうやら音もきこえなくなるらしい。僕は蝉の鳴き声をシャワーのように浴びながら、「今年は蝉が鳴かないね」と言っていたそうだ。
「今日も暑かった?」
ゆっくりではあるものの、ほぼいつも通りに話せるようになった和葉が、窓の外を眺めながらそう訊いてくる。その白い肌には、今年の強烈な日差しが差すことはもう無いのだろう。そう思うと、少しだけ残念だ。
日焼けした和葉の肌は、すぐに赤くなって痛み始める。それが酷くならないようにと丁寧に手入れをしている彼のそばで、それを手伝ってあげるのも楽しいのになと不謹慎にも考えてしまった。
「うん、まだ殺人的な暑さだよ。だから、誕生日に貰った傘が大活躍してるんだ。ありがとね」
「……良かった」
元々おっとりとした口調だったからか、二人で話している時に違和感を感じることはもうほとんど無くなってきた。僕たち以外はとても活発で騒がしい人が多いグループにいるのに、いつまで経っても二人だけの空気感は変わらない。
「和葉の傘は、雪が降る頃に活躍するかもね。あ、その前に修学旅行があるよ。折りたたみだし、非常用として持って行ったらいいんじゃない?」
「そうか、秋は修学旅行があるんだ。じゃあその時に持って行こう」
そう言うと、ポンポンと布団を叩き「そこ、座って」と柔らかく微笑んだ。
僕は和葉と二人でいる時の、この穏やかな時間が大好きだ。ベッドのそばギリギリに置いてある椅子に座れば、肩が触れるくらいに近づくことが出来る。こうして寄り添いあっているだけで、不思議と心が満たされていく。
それだけで、気がつくといつも笑顔になっているし、心も体も軽くなるような気がしてくるから不思議だ。特に反応の返って来なかった一ヶ月間を経ているからか、今はもう叫び出したいくらいに幸せを感じている。
僕がこうなれる人は、多分これからも他には現れないだろう。和葉は、本当に特別な存在だ。
だから、少しでも彼が快適に過ごせるようにしてあげたい。彼のために役に立つことが出来るようになりたい。その思いで僕はいつもいっぱいになっている。
「ねえ、足のマッサージしてもいい?」
僕はマッサージ用のクリームのチューブを手にして訊ねた。
レモンバームのクリームは、事故前に和葉が買った物だけれど、まだたくさん残っている。
これは、和葉が肌を守るために日常的に使っていたものだ。意識が無かった頃、その香りを嗅いでいたら戻れるんじゃ無いかと期待して、先生に使用許可をもらってから、僕がマッサージに使い始めた。
「え? またしてくれるの?」
そう答えながら、彼は顔を綻ばせた。こうやって僕が何かをしてあげようとした時に、彼が喜んでふわりと笑ってくれると、この胸の奥の方に甘い痛みみたいなものが生まれる。
それは僕の心を一瞬で元気づけてくれる魔法のようなものだ。最初は痛いのに、それは次第に砂糖のように溶けて広がって、身体中に幸せとなって染み込んでいく。
「うん。リハビリ頑張ってたって聞いたから、足の筋肉も労ってあげないとね」
そう言いながら布団を捲る僕に、和葉は少しむくれながら
「いいなあ、筋肉」
と呟いた。突然の意味不明な発言に、僕は戸惑った。
「うん?」
何を言われたのかが分からず、僕は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
そして、その僕の反応を見て、和葉は自分が口にした言葉の意味を理解したらしい。一瞬大きく目を見開くと、みるみる頬を真っ赤に染めていった。
「ええ、どうした? 今照れるようなこと言ったの?」
わけが分からないままの僕は、手にクリームを取ろうとしてキャップを開いた。パキッと音がして、ふわりと爽やかな香りが広がる。真っ白くとろりとしたテクスチャーのクリームを取り出して、少し筋肉の落ちた足へと広げた。
「……自分の足の筋肉に嫉妬した」
優しく撫でるようにしてそれを擦り広げていく。その僕の頭上で、和葉は恥ずかしそうにそう答えると、両手で顔を覆って「バカすぎる」と零した。
「自分の足の筋肉に? ……何がどうしてそうなったの」
笑いを堪えながらそう尋ねると、和葉はすぐには答えてくれなかった。少し赤みが差した頬の上を滑るように、イエローブラウンの髪が揺れている。
左足のくるぶしから膝までを丹念にマッサージして、負荷のかかるリハビリを耐えた筋肉を労った。そして、それに耐える和葉の様子を想像していると、胸がずきりと痛む。
いつも大抵のことは難なくこなせていた和葉にとって、このリハビリというものはとても酷なことだろう。
苦なく動かせていたはずの足はたった一月の間に痩せ細り、最初にベッドから立ち上がった時には、その不自由さに衝撃を受けて泣いたと聞いている。
それは和葉本人の口から聞いたのではなくて、樋野のおばさんが僕に教えてくれた。和葉はそれを僕に知られるのを嫌がっていたそうなんだけれど、おばさんが
『でも、それを知らずにもし朋ちゃんが和葉を傷つけてしまったら、あなたも一緒に傷つきそうだから。二人とも何も悪くないのに、これ以上辛い思いをする必要なんて無いでしょう?』
と僕を気遣ってくれたのだ。
和葉に秘密を持つのは、生まれて初めてだ。ずっと一緒にいたのだから、隠すことなど何も無かった。
事故で初めて離れ離れになり、その間に別々の経験をすることになった。
もしもっと前にこういう状況になっていたとしたら、和葉も僕に何か秘密を持ったんだろうか。そう考えると、少しだけ寂しくなってしまう。
そんなことを考えながら、俯く彼の髪を手で掬って顔を覗き込んだ。触れた手に気がついたのか、彼もちらりと僕へ視線を向ける。
「……キスってしても大丈夫?」
顔を覆っているほっそりとした指が、ピクリと跳ねた。そして赤みが差した部分は広がり、彼はこくりと頷く。そして、観念したようにその手を下ろしてくれた。
恥ずかしそうに震えるその唇を、僕はそっと啄んだ。それに安堵したのか、彼も同じように返してくれる。
一ヶ月と少しの間触れ合うことのなかったところに、大好きな人が触れる。唇から伝わる温度や彼が生きているのだという情報の全てが、いちいち僕を泣かせようとするから大変だ。
「……で、なんで筋肉に嫉妬してるの?」
「だってさ、僕は頑張ったねって言われてないのに、足の筋肉だけは労って貰えるんでしょ? なんか腑に落ちないっていうか」
「ええ? そういうことなの?」
思わず声を上げて笑ってしまった。なんてかわいいことを言うんだろう。
いつもは落ち着き払っていて可愛げのかけらも見せないくせに、こうしてたまにそういうところを出すからずるい。不意に襲って来るこの愛おしさが、胸の奥のあの甘い痛みを加速させていく。
僕は和葉の首に手を回して、さっきよりは長くなるようにキスをした。そして、唇を離す時に、額を合わせて
「和葉、リハビリよく頑張ったね。偉いね。お疲れ様」
と囁いた。
和葉は驚いたのか、呆けたような表情で僕を見ていた。でもそれは本当に短い間で、すぐにいつもの柔らかく溶けていくような笑みを浮かべる。
「よし、じゃあ筋肉も労ってあげていいよ」
そう言って、まだ労ってあげられていない右足を得意げな顔で差し出した。
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