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第1章_どうして_第3話_僕には分かる2
「何、その顔ー。じゃあ、嫉妬が終わったらしいから、こっちもマッサージしてあげるね」
そう言いながら、もう一度手にクリームを取った。そして、右のくるぶしに触れた時、背後でうめくような声を聞いた。でも、彼は僕に何も言わない。もしかしたら、あの話のように知られたくないことがあるのかもしれないと思い、僕は聞こえないふりを決め込んだ。
「あ、そうだ。和葉の目が覚めたことがね、部活生の間で噂になってるんだって。おばさんが復学手続きに行ったでしょ? それを見てたらしくて。クラスの子達がお見舞いに来たいって言ってるんだ。どうする? まだ長く話したり大勢くると疲れちゃうよね」
「んーそうだなあ。確かに一度に来られると疲れるかもしれない。でも九月のどの時期から戻れるか分からないし、皆が来たいって言ってくれてるのに断るのもね……」
「人気者は大変だね」
「……別に人気なんて無いよ」
「えー? 和葉は僕の苦労を知らないからそんなことが言えるんだよ。僕、いつも女子たちから『樋口くんってさ、樋野くんと仲いいよね? この子に協力してあげてくれない?』みたいな頼み事をされてるんだから。それにはっきり理由も言えないのにお断りしないといけないんだよ? そんな心苦しい思いをした事が何度あったか分からないよ」
高校に入ってから急激に背が伸びた和葉は、その美しい顔立ちと柔らかな人当たりで次第に人気者となっていった。彼の優雅な振る舞いの中にある揺るぎない強さはとても魅力的で、多くの女子生徒から羨望の眼差しを向けられている。
僕はそんな彼の隣に立つ付属品のように扱われることが多く、お近づきになりたいという申し出を受けては断っていた。小学生の頃に一度告白の仲介のようなことをした。
転校する前に思いを告げたいと言ったクラスメイトのために和葉に彼女の思いを代理で告げたのだけれど、結果的に僕も和葉もとても傷ついてしまって、それ以来僕はそういう事からは必死で逃げるようになっていた。
この二年間で僕も背が伸び、多分彼の隣に並んでも見劣りしないくらいには成長したと思う。樋野のおばさんからは、「朋ちゃん、毎日逞しくなっていくわね」と言われるくらいには骨格も変わって行った。
それでも変わらないこともある。
和葉は小さな頃から僕を守ろうとしてくれていて、僕はその庇護のもとにいられることが嬉しい。成長が進んでも、いくら第二次性徴が進もうとも、それに変わりはなかった。
「ええ、今もそんなことあるの? 教えてよ。僕がちゃんと断るから」
僕が以前傷ついたことを忘れられない和葉は、この話をするときっとそう言ってくれるだろうと思っていた。その気持ちはすごく嬉しい。嬉しいけれど、僕にはどうしてもそれをして欲しくない理由もある。
「でも、それも嫌だからなあ」
「えっ、どうして? 朋樹の負担を減らせるでしょ?」
和葉は、僕の反応を意外だと言わんばかりに目を丸くする。
「うん、そうなんだけど……。そうなると和葉がその子たちと、もしかしたら二人だけで話す事になるでしょ? それが嫌だからさあ……」
そう答えた僕に、和葉はふっと笑みを溢す。そうして、いつも以上にふわりと微笑んだ。
「とも、嫉妬してくれるんだ。嬉しいなあ」
「え、そりゃあそうだよ。するでしょ、普通。あ、そうか。和葉は自分の筋肉にしか嫉妬しないんだよね」
僕が拗ねたふりをしながらそう言うと、白い肌にすっと赤みが差した。そして、楽しげに笑う顔がさらにきらきらと輝いていく。
「それだって、朋樹が僕じゃなくて僕の筋肉にだけ優しくするからだよ。ちゃんとした嫉妬でしょ?」
そう言って笑った。
でも、それはいつもの笑顔とは違っていた。僕には分かる。ずっと彼だけを見ていたんだから、いつもと違えばすぐに分かってしまうんだ。
和葉はいつも、本当に優雅に笑う。それは、いつもどこかに余裕を持った表情だとも言える。彼がそれを無くして必死になっているところを、今まで一度も見た事がない。
それは僕らが深く繋がって抱き合っている時でさえそうで、まるで彼は僕を守るためだけに生まれてきたのではないかという気にさせられることもあるくらいだ。
でも、今目の前にある笑顔は、これまで見た事がないほどに心が感情でいっぱいになっているように見えた。全身から溢れる喜びを表している、そう思えた。
声が聞こえるような気がする。今、生きていることが本当に嬉しいのだと、僕とこうして過ごせる時間が愛おしいのだと、そう心が叫んでいるようにさえ見えた。
その姿を嬉しく思って眺めていた。その、僕もこの時間がとても愛おしかった。
でも、それは突然崩れていく。まるであの事故の日のように、和葉の笑顔は僕の目の前でまた奪われてしまった。
「……ごめん、朋樹。ちょっと気分が悪いかもしれない」
急に顔色が悪くなり、口元を押さえた彼に僕は狼狽えた。真っ白な肌は、みるみる蒼白になっていく。額には汗が浮かび始め、眉間に深い皺が刻まれていた。
「どうしたの? 大丈夫? 看護師さん呼ぼうか?」
和葉が切迫した表情を見せている。生まれて初めての経験は、僕の心をざわつかせた。身体中に緊張が走り、背中を冷たい汗が流れていく。
「その匂いが……」
「え、これ? でも、これ和葉の好きな……」
戸惑ってしまって、ほんの少しだけ判断が遅れた。余程耐えられなかったのか、彼は突然嘔吐した。
「和葉!」
僕に何か言おうとしたのか、一瞬こちらへちらりと視線を送ってくれた。でも、何も伝える事は出来なかった。まるで糸が切れたかのように、突然ふっと意識を失うとそのまま僕の方へと崩れ落ちて来た。
「和葉っ! どうしたの? ねえ!」
腕に感じる異様な重みに、完全に意識がないのだと実感する。また彼を失うかもしれないという恐怖が僕を襲った。
ナースコールすれば、すぐに看護師さんたちが来てくれる。そんなことも忘れてしまうほどに取り乱し、大声で彼の名を呼んだ。
何を考えたらいいのかも分からなくなるくらいに、体が恐れを抱いている。持ち主と同じくらい叫ぶ様に暴れる心臓、苦しくなっていく呼吸、震える手……。足に力が入らなくなり、その場でへたり込んだ。
それでも手の力は緩めず、口も暴走を止めなかった。狂ったように彼の名を呼びながら泣き喚いている僕の声を聞きつけて、慌てて看護師さんと先生がやって来た。
倒れている和葉の顔色と僕の取り乱し方を見て、先生は看護師さんへ指示を出す。僕はこの手の中から彼を奪い取られ、病室から廊下へと連れ出されてしまった。
「待って! ねえ、離して! お願い! ……和葉っ!」
手足に力の入らなくなった僕を廊下へと連れ出した看護師さんは、僕を落ち着かせようと優しく声をかけてくれる。騒がしい面会者を無碍にすることもなく、椅子を持って来て座らせてくれた。
「落ち着いて、大丈夫だから、ね? 樋野くんのことは先生に任せておきましょう。君も少し落ち着かないとね。ほら、体が悲鳴をあげてる。彼が目覚めた時に君がそんな風に取り乱してると、すごく心配しますよ。心配させたくないでしょう? ほら、ゆっくり呼吸しましょうね」
そう言って優しく背中を撫でてくれた。
何度かゆっくりと呼吸をして優しい声に身を預けていると、段々と心は凪いでいった。僕の様子が落ち着いたと分かったのか、看護師さんは僕が手に握りしめていたクリームをそっと抜き取っていく。
「握りしめちゃったから、チューブが破れてしまったみたいね」
そして、僕の手にベッタリとついたクリームの香りを嗅いで、「いい香りだね」と微笑んだ。僕は思わず彼女の腕を掴み、「そうですよね。いい香りですよね」と返す。
彼もこれが大好きだったんだ。それなのに、この香りを嗅いだ途端に具合が悪くなり、挙げ句の果てには倒れてしまった。
「……それ、和葉が好きなんです。レモンバームが大好きで、こういう美容に関するものもですけど、レモンバームのジュースとかも好きなんです」
「へえ、レモンバームってジュースにもなるの?」
「はい、煮出して砂糖を加えてコーディアルっていうベースを作るんですよ。和葉は、それを炭酸水で割って氷を入れて飲むのが好きなんです。でも……」
さっきの和葉は、この香りに不快感を示してた。
今までレモンバームの香りを嗅いであんな顔をした事はないはずだ。ただ、こういうことは今日が初めてだった訳じゃない。
実は、目を覚ましてから何度か似た様なことがあった。それまで好きだったものに抵抗を感じているんじゃないかと思えてしまう事が、何度かあった。
「あの、和葉って記憶には問題はなかったんですよね?」
「……詳しいことは言えないけれど、脳に問題は無いそうですよ。他にも特に障害もなく快方に向かってると聞いてます。奇跡的な回復よね」
「そうですね……」
そう答えて、必死に笑顔を作った。
でも、僕には分かるんだ。
和葉は変わってしまった。事故に遭う前と明らかに違うと思えるところは、いくつか分かっている。
そのうちの一つが、レモンバームだ。そして、人に会うことも嫌う。何かしら理由を探して人を避けるようになっていた。
もっと言うと、本当は僕にも会いたがっていないんじゃ無いかと思っている。それまで好きだったものに抵抗を感じているのなら、その中に僕が入っていないとも言い切れない。
「……そんな事ないよね」
病室の中はいつの間にか静かになっていた。先生が僕に笑顔を見せてくれて、中へ入ってもいいよと言ってくれている。
男性の看護師さんが和葉に何か言っているけれど、彼の声は僕の耳には聞こえて来ない。もう落ち着いたのかなと思い、ほっと胸を撫で下ろした。
不安な気持ちを抱えたまま、開かれたドアの中へと入っていく。そこには、青白い顔で眠る彼の横顔が見えた。その顔を見ていると、あの日の記憶が蘇って来た。
僕の目の前で、車に撥ねられそうになった女の子を抱き寄せた和葉。二人でアスファルトに転がり、彼女の身を守るために彼は頭を打った。
流れる血、それに染まっていく夏の制服、動かなくなった和葉。
「僕のせい……?」
思わずそう溢してしまった。だって、いつもそうだ。
あの日、もっと早い時間に校門をくぐっていれば、僕が忘れ物をして家に引き返さなければ、彼はそんな目に遭わずに済んだだろう。
今だって僕がすぐにクリームをしまえば、きっと吐くほど具合が悪くなったりしなかっただろう。
僕は和葉の役に立てない。むしろ足を引っ張ってるだけかもしれない。
「和葉もそう思ってるから、僕と会う時に笑顔が曇るようになったの……?」
……気づいてたんだ。
あの昏睡から覚めた時の彼の反応。
和葉は僕を見て、一瞬言葉に詰まっていた。何か変だなとは思った。でも、目が覚めたばかりで色々と混乱してるのかなと思ったから何も聞かなかったけれど、それが会うたびに起きるとやっぱり気になってしまう。
和葉は優しいから、僕が会いにくるのを断ろうとはしない。
彼はそういう人だ。だからクラスメイト達と会うのも大変じゃないかって僕も思ったんだ。
「君、大丈夫?」
さっき僕を落ち着かせてくれた看護師さんが、背中に手を添えてそう問いかけてくれた。それに反射的に「大丈夫です」と答えようとする。答えなくちゃいけないと思っている。
それなのに、涙ばかりが溢れて来て苦しくて、言葉は一つも出せなかった。
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