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第2章_怖い_第4話_薫の言葉1
もし本当にそうなってしまったとしたら、僕はどうしたらいいんだろう。彼と離れて生きていく人生があるとしたら、それはこれまでの想定を全て覆すものになる。
僕らの部屋の机の中には、お互いが贈り合った指輪が眠っている。それが活躍する機会も奪われる事になってしまうんだろうか。
いつか二人で暮らせる様になれるといいねと言い合って、無邪気に選び合ったあの時間はなかった事になるんだろうか。夢見た未来は、もう手に入らないのだろうか。
そして、またあの何も感じられない日々を過ごすんだろうか。そう思うと怖かった。
彼が眠っていたひと月の間、僕は一応勉強もしていたし、塾にも通っていた。生活もちゃんと出来ていたけれど、自宅で暮らす高校生なのだから、自分ですることなんてたかが知れている。だから、絶望感と罪悪感に苛まれながらもなんとか生きてはいたけれど、本当にただ生きていただけだった。
無味乾燥なサイクルを淡々と繰り返し、無感動な日々を重ねていく。楽しいと思うことなど何もなくて、好きな料理も頑張って作ったとしても食べてくれる人がいなくて、家族の笑顔だけでは心は動かなかった。
暑くても暑いねと言い合えず、小テストの度に結果を喜び合う事ができない。成績優秀な彼は、やや成績の劣る僕にいつも数学を教えてくれていた。返ってきたひどい点数を見て、いかに和葉に依存していたかを思い知ったりもした。
それに何より、他に理由が無いのに、彼のそばにいられ無くなるということを想像出来ない。事故でやむなく離れるのとは違う。嫌われるという事実が重たくて辛い。
そう考えていると、涙はとめど無かった。辛くて、苦しくて、痛い。俯いてただ膝を濡らす事しか出来なくて、まだはっきりとそう言われたわけでも無いのに、ここまで落ち込める自分が滑稽に思えた。
看護師さんは別の仕事に向かった。去り際にも優しかったけれど、僕は満足にお礼も言えない様な状態で、とても申し訳ない気持ちになった。
そうやって何十にも重なった情けなさに潰されそうになっていたところに、力強く響く聞き覚えのある声が響いてきた。
「あれ、朋樹?」
この声も、僕の聞き覚えのあるものとは、少しだけ変わっていた。僕の覚えているものよりも深い響きを持ち、低いけれど硬質な耳あたりのするその声は、みんなの憧れである和葉と対等に渡り合える唯一の友人が持つものだった。
涙で歪んだ視界の中に、真っ黒に日焼けした筋肉質の男が一人立っている。見た目だけでなら彼とは気がつけないほどに体格が変わっていて、声を聞かなければ誰だか分からなかったかもしれない。
「……薫?」
「おう。久しぶりだな、朋樹」
古井薫 は、小学校六年間を僕と和葉と三人で過ごしたもう一人の幼馴染だ。中学でも一緒だと思っていたのに、小学校を卒業すると隣の市にある母方の実家に引っ越してしまった。両親が離婚しておばさんが働く事になり、受験を控えてお姉さんと薫だけでは生活をするのは難しいと判断したと聞いている。仕方ない事とはいえ、当時は三人で大泣きした。
彼は寂しさを持て余し、夢中になれるものを求めた。そしてこっちでもやっていた野球を引っ越し先の中学でもする事にして、部活に入ってのめり込んでいった。
それ以来忙しくなってしまい、会わないままに五年が過ぎていた。それでも電話やメッセージでの連絡は取り合っていた。だから声だけはすぐに分かったのだ。
「めちゃくちゃキョトンとしてんな。俺の見た目って、お前の記憶の中よりもそんなに変わってるのか?」
「うん、全然違う。声や話し方で薫って分かるけど、見た目だけじゃ分かんなかったかもしれない」
「……いや、そこは分かれよ。幼馴染だろ?」
少し不服そうな顔をしている薫を見ていると、思わず笑みがこぼれた。そういえば、僕が和葉との間で劣等感に悩まされていると、いつも薫がこうして僕の心を軽くしてくれていたなと思い出す。
「電話は結構してるから声はすぐ分かったけど、見た目がそんなに変わってたなんて……。やっぱり甲子園目指すような野球部の鍛え方ってすごいんだね」
「……なんだよ朋樹、嫌味か? うちが地方大会で負けたの知ってるだろ? 体は作れても勝てなかったら意味ねえんだぞ。勝負だからな」
薫は一瞬やや傷ついたような顔をした。あまりそういう顔を見せる人では無かったので、驚いてしまった。
小学生の頃から野球漬けだった薫は、将来野球選手になるのが夢だった。でも、親が離婚した時にその夢を捨てたらしい。理由は教えてくれなかったけれど、自分の夢を追うよりも、少しでも早く家族を支えられる保証が欲しくなったんだろう。野球は高校でやめて、進学するそうだ。
だから、甲子園に出たくて頑張ったのだと言っていた。それが叶わなかった悔しさは、どれほどのものだっただろう。そう思って気遣っていたはずなのに、うっかりそのことを話題に出してしまった。申し訳なさで胸がちくりと痛む。
「ごめん。軽々しく口にすることじゃ無かったね。ただ本当にいい体してるからびっくりしただけなんだ。だって、薫は僕よりも小さかったじゃない」
「まあな。でも、俺は人一倍気が強いだろう? 小さいままじゃ嫌だったから、そりゃあ色々と頑張ったんだよ。中一の時から栄養とか解剖学的な事とかめっちゃくちゃ調べて勉強しまくったんだよ。そのうち成長スパートに入ったみたいで、面白いくらいに成果が出た。高校に入ってすぐデカくなったな。今ならお前と同じくらいじゃねえか?」
そう言って身長を比べようとする薫を見ていると、僕の心はまた浮かれるように軽くなっていった。
「あ、ほんとだ。僕もこの一年で結構伸びたんだけどなあ。筋肉がある分だけ薫の方が男らしくて羨ましい」
そう言って僕がむくれると、薫は嬉しそうに真っ白な歯を見せて肩を揺らした。
「薫、今日どうしたの? 和葉に急ぎの用事でもあった? なんかめちゃくちゃ息が切れてない?」
よく見ると、薫は額に汗を浮かべていた。よほど急いでいたのか、少し肩で息をしている。ハードな運動に耐えて来た体がそれほどに息を切らせるとは、一体どうしたんだろう。そう思って問いかけてみると、薫は思い切り吹き出してしまった。
「いや、お前が和葉の病室の前で泣いてるからだろ! そんなところで泣いてんじゃねえよ。あいつ死んじまったのかと思っただろ」
「あっ、そっか、そうだよね。意識なかった人の病室の前で泣いてたらそう思われても仕方がないね……」
「そうだよ、本当に焦った。それなのに、お前はなんか呑気な感じだし。意味が分かんねえ」
薫は、髪を伸ばし始めたばかりだと言っていた頭をがしがしと掻きながら、僕を珍獣を見るような目で見ていた。そう言えば僕はいつも薫からこの目で見られていた気がする。
ぼーっとしているのに、突然感情が漏れ出て来る時があって、見ていて飽きないそうだ。時折、僕は人間ではなくてペットなのかというくらいに遊ばれることもあった。
「入院してからも一度も見舞いに来れてなかったから一度は顔を見に行こうと思ってて、さっき樋野のおばさんに連絡したんだ。そしたらあいつ目ぇ覚ましたって言うから、チャリぶっ飛ばして来た。話せると思って期待して来てみたら、なんかお前は泣いてるし、何がどうなってんだよと思って混乱してんだけど。そうさせた本人はなんでそんなに楽しそうに笑ってんだ? んん?」
よく見ると、薫は顔を真っ赤にしている。隣の市とは言っても、四十キロは離れているはずだ。彼がぶっ飛ばして来たと言うのなら、相当なスピードで走り続けて来たんだろう。
その細身でありながらも筋肉に覆われた体を乗せて、ママチャリで爆走してきたのかと思うと、目に浮かんだその姿がどうにも面白くて、僕は思わず吹き出してしまった。
「だからさあ、何笑ってんだよ! 忙しいな、お前は。つうかどういう状況なんだよ。ちゃんと説明しろ。和葉には会えるのか?」
僕は笑いを収めようとしながら、和葉とのことを薫にどう話そうか悩んでいた。気の置けない存在である薫に全てを話して相談するべきなのか、久しぶりの再会に水を刺すようなことはしないでおくべきなのか……。その判断がつかない。
「朋樹?」
日焼けした肌の中に輝く真っ直ぐな目が、僕の心を見透かしていく。不安を抱えていることは彼には黙っていても伝わってしまうだろう。
それなら、隠さないほうがいいに決まっている。僕は薫に向けて精一杯の笑顔を作った。
「今は眠ってるんだ。でも、起きたら会えるし、話せるよ。僕が泣いてたことは後で話すよ。ただ、和葉の前では言えないんだ。もうすぐ面会時間終わっちゃうから、取り敢えず顔だけも見て。帰りに相談させてくれない?」
そう言うと、薫はそれにギラリと目を光らせた。そして、その光をすぐに収めると、
「分かった。じゃあメシ食って帰ろう。その時に聞かせてくれよ」
と言って、柔らかな笑みを見せてくれた。
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