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第2章_怖い_ 第5話_薫の言葉2

◇  病室に入って和葉の顔を見た薫は、 「……フツーに寝てんな」  と言って顔を綻ばせた。そして、少し伸びてきた髪の間へと手を差し込み、両頬をつねって引っ張った。  和葉は眠りが覚めかけているのか、眉間に皺を寄せると「うーん」とまるで漫画のような唸り声を上げる。その姿がおかしくて、僕は薫と二人で声を殺して笑った。 「はは、和葉だなあ。頬を引っ張られてもイケメンかよ。腹たつー」  悪態をついてはいるものの、その言葉は深い安堵の色に満ちている。その薫の気持ちが、僕には痛いほど伝わっていた。  薫はきっと、和葉の意識が無かった頃から、ずっとここに来たかったはずだ。それでも今日まで来れなかったのには、彼なりに重要な理由があった。  あの事故の日には、もう薫は野球をやめていた。僕が連絡をしてすぐにここへ駆けつけようとしていたのだけれど、そう簡単には行かなかった。主将だった彼には、後輩への指導という役割が残っていたのだ。  薫のフィジカル面での努力を見ていた後輩たちが、指導を求めて連日教室に訪れていたため、受験を控えた友人たちを刺激しないようにと、部室へ顔を出していた。そうなると他のことも色々と頼まれるようになる。そのため、毎日の忙しさに変わりがなかった。  例年県大会ベスト四くらいまでは間違いなく行く実力を持つ学校で、地区大会決勝での敗退という結果しか残せなかったことへの負い目もあり、なかなか断ることが出来なかったのだという。  五年ぶりの再会は一方的なものになってしまったけれど、生きていると実感出来たことで、ようやく安心できたようだ。 「……和葉の見た目って変わった?」  僕がそう尋ねると、薫は顎を手で掴みながら和葉を観察した。薫は僕よりも体についての知識がある。僕には分からなくても、彼が何か感じるところがあるかも知れない。 「見た目? んー、そうだなあ。相変わらず綺麗な顔してるし、体つきは男らしいし、出来れば並びたくないってところは変わってないな。でも、やっぱりちょっと覇気がないっていうか、こう……健康じゃないんだなっていう感じはするな。顔色も悪いし、足の筋肉は落ちてる。この足の細さ……。かなり気にしてるだろうな」 「そっか。やっぱり、若さが味方になってて回復が早いとは言われてるけど、寝たきりだった影響って、少なからずあるんだろうね」 「そりゃあ、まあ、あるだろうな。特に毎日トレーニングしてたやつが急にそれを止めて、一ヶ月経ったら本人はショック受けるくらいに筋肉は減ってるだろうし」 「そうだね……。え、あれ? 和葉ってトレーニングとかしてたの?」  僕の反応に、薫は一瞬言葉を詰まらせた。僕が和葉のことで知らない事があるとは思わなかったらしい。 「えっ? あ、あー……もしかして隠してたのかコイツ。うわ、やべえ、勝手に話したって怒られるな」  驚いて目を丸くする僕に、薫は自分が失言をしたと気がついたらしい。そのあとはいくら尋ねても完全に口を塞いでしまって、結局何も教えてくれなかった。  そうこうしているうちに面会時間が終わろうとしていた。僕たちは忘れ物が無いかの確認をして、病室を後にする。 「朋樹、俺先に出てトイレに行くから。エレベーター降りてすぐのところで待ってる」 「あ、うん。分かった」  薫はそういうと部屋を出ていった。パタパタと響く足音がだんだんと小さくなっていく。  僕は彼が出ていったドアから、和葉へと目を戻した。和葉はまだ眠っている。その顔は、月明かりに照らされて青白く輝いていた。 「覇気が無い、か。確かにそうだね。それに、ずっと戸惑ってる……」  彼が目を覚ました後からなんとなく様子がおかしいと気がついた時、最初に思ったのは記憶が曖昧なところがあるのかもしれないという疑念だった。覚えていないことがあるのに、それを認めるのが怖くて分かったふりをしているということは無いかと思い、注意深く彼を観察した。  でも、どうやらそうでは無いらしく、むしろ事細かに僕のことを覚えてくれていた。僕の好きな食べ物、飲み物、色、場所、音、手触り、香り。全部を覚えてくれていた。  それに、僕が何かしら抜けている行動をとった時なんかは、それを見てとても嬉しそうに微笑んでくれる。かいがいしく世話を焼こうとしてくれたりと、以前と変わらない優しさを見せてくれるのだ。  ただ、ふとした時に悲しげな表情をされたり、拒否反応めいたものを見せられたりする。  その時の、異様に冷えた空気が耐え難い。そして、和葉の態度が一変する時は、必ず僕が何かしらの反応をした時だと分かってしまった。  他の人といる時に、そういう変化が起きたことは無い。と言っても、まだ病院のスタッフさんと樋野のおばさん、僕の母さんと僕しか和葉に会っていないので、それ以外の人がいる場合はどうなるか分からない。  だから、薫が来てくれたなら、彼と和葉の間でそれが起こるかどうかを見てみたい。もし似たような反応をするなら、気心が知れているから甘えているのかなとも思えるだろう。  ただ、もしそれが起きなかったら……。その時は、僕は和葉に会いに来るのをしばらく控えようと思っている。 「明日、どんな別れ方になるか分からないから……」  愛しい寝顔に触れる。  和葉の意思を確認出来ない今、それをするにはずるいかもしれないと思ったけれど、明日にはもう叶わなくなるかも知れないと思い、大好きな手に口付けた。  いつも僕を優しく撫でてくれる手のひらに、甘く触れてくれる指先に、僕の想いを乗せるようにして唇をくっつける。でも、唇同士を触れ合う事はどうしても出来なかった。 「もし明日も好きでいてくれるなら、キスしてくれる?」  そう願う事しか出来なかった。  僕は今の自分が嫌いだ。はっきり何を思っているのかを訊けばいいだけなのに、それをする勇気が無い。そのくせ、何を思っているのかを教えてくれない和葉に、少しだけ苛立ちを感じ始めていた。それが許せない。  挙げ句の果てには、実はずっと前から彼に呆れられていて、本当は好意を失われていたのかも知れないなどと思い始めたりもしている。  とにかくバカバカしいとは思いながらも、その痛くて苦しい思いに足を取られてもがく事しか出来なくなっていた。もしかしたら明日には離れなければならないかも知れない。その思いが、胸を潰す。 「僕は、ずっと好きだからね」  せめて自分の思いだけは伝えていこうと、必死に声を絞り出した。  どうしてこうなったんだろう。ただ大好きな人の回復を願って待っていただけなのに、やっと目を覚ましたと思ったら嫌われているかも知れないなんて。全く想像もしてなかった。  考えても仕方がない、和葉に訊いてみるしか確かめる方法はないと何度も言い聞かせるのに、心はずしりと重たくなるばかりだった。 「和葉、じゃあ、また明日ね……」  声が涙で濡れる。それが彼の耳に届いてなければいいなと思いながら、僕は病室を後にした。 ◇ 「和葉が冷たい? ……なんだ、久しぶりに会って最初にする会話がノロケか? 恋人のいない幼馴染の心を塩漬けにでもする気かよ」  呆れたようにため息をつきながら、薫はカレーを口に運んだ。大きなスプーンに器用に山盛りで掬い取り、それを次々と消していく。食べるのがとても早いのに、その姿はとてもキレイだ。 「いや、惚気とかじゃなくてさ。ふとした時にすごく冷たい反応するんだよ。それが僕に対してだけなんだ。だから、僕が何かしたのかなと思うんだけど、全く身に覚えがなくて……」 「あいつがお前に冷たい反応する日が来るとは、俺には思えないんだけどな。例えお前がアイツに何かをしたとしても、それを無理矢理にでもいい方へ解釈するようなやつだろう、和葉は」  あっという間に食べ終わった薫は、そう言ってごくりと水を飲み込んだ。 「まあでも、お前がそんな顔をして冗談を言うとも思えないけど」 「そんな顔ってどんな顔?」 「こーんな……鬼みたいな顔。お前そんな顔するんだな。ちょっとびっくりした」  人差し指で目の端を吊り上げ、牙を出すように歯を剥き出して薫は言った。僕はそんな恐ろしい顔をしていたのだろうか。それなら嫌われても仕方がないと思って沈みかけていると、ポンと頭に手を乗せられた。  その手は何度か軽快にそこで跳ねていく。薫は僕の反応を見て困ったように眉を下げると、 「冗談だよ」  と言ってくすりと笑った。 「やめてよ、今そういう冗談ムリ。本当に悩んでるんだから」  僕は薫の手を振り払いながら軽く睨みつける。あまり感情表現の得意ではない僕には、その反抗が精一杯だった。  彼はそんな僕の反応を見てマズイと思ったのか、両手をあげて降参したというアピールをしながら「ごめん」と謝ってくれた。  そして、僕の話が深刻な悩みの相談なんだという事を理解したからか、しっかりと椅子に座り直し、眉間に皺を刻みながら真剣に考え始めてくれた。 「そもそもそれはどういう時なんだよ。和葉は、人に不快な顔を見せる事なんてそう無いだろう? あ、俺にはするけどな。面倒くさそうな顔とかされんの当たり前だったからな」 「うん、和葉って薫には真っ直ぐ感情ぶつけるよね。全く遠慮なしだった気がする」 「だよな。まあ、そうは言ってももともとが穏やかな性格だから、それもそうある事じゃ無いんだけど。だからお前に冷たい顔をするなんて、俺には信じられないわけよ。冗談だとしか思えないくらいには、ありえない話だな」 「そうだよね。僕も気がついた日はあんまりショックで眠れなかったんだ。ありえないと思った。僕たち、二人でいる時に強い感情を出し合うような事になったことが、これまで一度も無かったんだよ。なんていうか、お互いに嫌だと思うことを自然と避けてるみたいなんだよね。それでも、僕は全然無理してるつもりも無くて、自然にそうなってると思ってて……。でも、和葉はそうじゃ無かったのかな。今になって、実は僕だけがそう思ってたのかも知れないなって思っちゃって……。どうしても悲しくなるんだよ」  僕らは生まれた日からずっと一緒にいる。あまりに一緒にい過ぎて、相手が話さなくてもどうして欲しいのかを察知してしまうようになっていた。その的を外す事がまず無かったから、いざ外してしまうとどうしていいのかが分からない。  理解し合うために必要な、コミュニケーションの仕方を忘れてしまったみたいだ。他の人とはそれが自然と出来るのに、二人の間でだけそれが出来ない。  そして、おそらく和葉もきっとそうなんだろう。僕に訊ねたいことがきっとあるはずだ。時折何か言いたげに僕をじっと見つめている。それだけは僕にも分かっている。  でも、それを僕から問うことが出来ない。もしそれをする事で決定的な亀裂が入ったら、それを修復する事が出来なかったら……、そう考えると怖くて出来無い 「俺さ、事故に遭った後のアイツのことは何もわかんねーよ? でも、これまでの事を考えても、アイツはお前を唯一無二の相手だと思ってるように見えたし、お前の言うように一番自然で無理なくいられる間柄だと思ってるんじゃ無いか? 何も言わなくても分かり合えてたのは間違いないし、そうなると隠せることも少ない。アイツがお前に意図的に隠してる事があるとしたら、それこそさっき言ってた筋トレのことくらいじゃ無いか? 知りたいなら話すぞ?」 「あ、さっきもそれ言ってたよね。和葉が筋トレしてたって話。それ聞いてもいいの?」  僕は少し後ろめたい思いがして、その話を聞いてもいいものかどうか悩んだ。だって、さっきは薫も話さないほうがいいと思っていたみたいだった。それなのに、僕が落ち着かないからと言って、勝手に知ってもいいんだろうか。そう思うと、もやもやしてしまう。  薫はそんな僕の様子に、呆れたような困ったような笑顔を見せた。そして、まるでお父さんが子供の悩みに答えるような、慈愛に満ちた表情を見せる。 「そりゃあ、うまく付き合ってる状態なら、和葉の意思を尊重するよ。でも、お前が自分は愛されてないかも知れないなんて言うからさ。そんな風に思う必要なんて全く無い。二人が別れの危機を迎えてるかも知れないなら、アイツがお前をどれだけ思ってるかっていうのを俺が教えてやんないとダメだろう? アイツも俺の大事な友達なわけだし。その友達の知らないところで、恋人が落ち込んで離れて行こうとしてるのなんて、黙って見てたらさすがの和葉も怒るだろ」 「それはそうかも知れないけれど、和葉の筋トレに僕が愛されてる証拠が詰まってるの?」 「ああ、そうだ」  薫は、なぜか得意げに胸を張った。どうやらその事に関しては、確固たる自信があるらしい。キラキラと輝く瞳が、その大きさを物語っていた。 「アイツが体を鍛えてるのは、お前を愛でるためだからな」

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