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第2章_怖い_第6話_薫の言葉3

「め、愛でるため……? どういうこと?」  あまりに意外な方向から届いた言葉に、僕は面食らってしまった。もっとシリアスな話になるかと思っていたのに、もしかして茶化されてしまうんだろうか。僕には、薫が愛でるという言葉を使う時は、そういう揶揄うようなニュアンスを含んだものにしか聞こえない。  真剣に相談している僕のことを揶揄おうとするなんて……と僕が一人で勘違いを決め込もうとしていたところ、それを見抜いた薫に思い切り額を指で弾かれてしまった。 「あ、いたっ! ちょっと、何するの」 「今何か勝手に勘違いして自己完結しそうな顔してたじゃねえか。それ、お前のダメなところだからな。人の話はちゃんと聞け」  不満げな顔で腕を組む薫は、まるで子供を叱る父親の様に見えた。どうして薫はこうもお父さんっぽく見えるのだろう。さすが野球部で主将だった人だなと思ってしまう。なんだか分からないけれど、妙に頼り甲斐に満ちている。 「はい、ごめんなさい。聞きます」  大人しく言うことを聞いて反省の色を見せると、薫は白い歯を見せながら「よろしい」と言った。 「なあ、ちょっと聞いておきたいんだけど、お前和葉によく抱き上げられたりしない? お姫様抱っこみたいなのもだけど、それこそ肩に担がれたりとか肩車されたりとか……。こう、不安定な姿勢の時に支えくれたりとか、落としそうになったものを代わりにキャッチしてくれたりとか。頼りになるなあって思うこと、多くないか?」  薫は忙しそうに腕や体を動かしながら、和葉が僕にしてくれているだろう仕草を繰り返す。僕はその全てに見覚えがあって、薫がその問いかけで何を知ろうとしているのかを全く想像出来なかった。  だって、それは和葉が日常的に僕にしてくれている事だ。そこに何か特別な意味が込められているのかどうかなんて、特に意識をしたことが無い。  でも、薫はそれをわざわざ話題に上げて来た。どうしてかは分からないけれど、そわそわと落ち着かなくなっていく。 「……うん、あるよ。お姫様抱っこみたいなのはよくされる。疲れてる時にソファからベッドまで連れて行ってくれたり、落としたものを拾うのに不安定な格好になる時とかは支えてくれるし、そもそも和葉が取ってくれることが多い。高いところも僕より届くからいつも頼ってるかな。それに、和葉のテンションが上がった時とかに、担ぎ上げられて走り回られたりする事もあるよ。一度肩車で走られた時は、ほんっとうに怖かった」  薫にそう言いながら、ふと思い当たることがあった。そう言えば、僕の家の中のことであったとしても和葉が代わりにしてくれることは、とてもたくさんある気がする。そのうちの一つが、料理の手伝いだ。  僕は料理が趣味で、和葉はそれを食べるのが好きだ。休みの日の午後には大体うちに来て、僕のアシスタントのように手伝ってくれている。  滅多に使わない蒸籠や大皿は、大体高いところにあるものだったり、重いものだったりする。それを準備してくれるのは、いつも和葉だった。  いつからそうしてくれているのかは忘れてしまったけれど、和葉から僕が怪我をしてはいけないからと言われ、彼が事前に準備をしてくれるようになったということだけは覚えている。  和葉に甘やかされるのが好きな僕はそれを喜んで受け入れ、僕を甘やかすのが大好きな彼はそれ以来ずっとそうしてくれている。 ——あれ、もしかして僕ってものすごいダメな人なんじゃ……。  そんな思いに駆られそうになっていると、薫が僕を指差しながら話を続けた。 「だろ? でさ、多分お前はそのことの凄さに全くピンときてないだろうから教えておくよ。お前たちって、実は去年くらいから体格はほとんど変わらないんだよ。その状態でアイツがお前を抱き抱えようとしたら、かなりの筋力が必要だ。寝落ちしたお前を運ぶのなんて、もっと大変だぞ。脱力した人間は、子供でもすごく重いからな。それでもアイツはそれをさらっとやってのけてるだろ? それが出来るってことは、つまり毎日鍛えて努力してるってことだ」 「そうなんだ。言われてみれば、確かにそうかもしれないね。あんまり当たり前にしてくれてるから、そういう努力をしてくれてるって分かってなかったよ」  そう口に出した途端に、さっき浮かんだ考えが急激に肯定されてしまって、猛烈な恥ずかしさが込み上げてきた。僕はこれまで彼の努力に気づく事もなく、その恩恵を受けているのに、それを当たり前のように思っていたんじゃ無いだろうか。  言われてみれば確かに薫の言う通りだ。今の僕と和葉の身長差は五センチくらいしか無いし、体重もほぼ変わらない。自分と同じくらいの体格の男を抱え上げているなんて、相当な力持ちだ。それはつまり、それ相応の努力が伴っているということでもあるんだろう。改めてそう想うと、自分の鈍感さに嫌気がさした。 「でも、俺がその事を知ってるのは、そのトレーニング方法を教えたのが俺だからだぞ。お前のことを支えられるような男になりたいって言われて、鍛え方の相談を受けたんだ。朋樹、和葉はお前にはこのことを知られたくなかったんだ。だから、気づかなかったとしても気にすること無いぞ。ただ、そう聞いてそのきっかけに思い当たることは無いか? お前があることを望んでるからだって言ってたんだけど……、どうだ? 覚えて無いか?」 「僕が? 和葉に何かを求めたって事?」 「そう。確か、お前が映画を見てる時に漏らした一言がきっかけだったはずなんだよ。アイツはずっとそれを叶えてあげようとしてるんだ。急にやるのは無理だから、まずは体幹を鍛えてからだって話をして……」  そう言われてハッとした。一つ思い当たることがある。  中学を卒業してから高校の説明会までの間、二人でただのんびりしようと約束をした日があった。  その時、僕の部屋で映画を見たんだ。確かそれはラブストーリーで、男女の恋とは縁のない僕たちには、少し理解し難かった。ただ淡々とストーリーを拾うくらいの無感情な状態で見ていたその映画に、一つだけ僕が強く憧れたシーンがあった。  ラストシーンのお姫様抱っこを見て、僕はなぜかそれに強く惹かれた。別に女の子に生まれたかったわけじゃないし、ドレスを着たいと思っていたわけでもない。  ただ、こうやって結婚式でみんなに祝福されている新婦が、大好きな人に抱え上げられてとても素敵な笑顔で笑っていた。そのことが強烈に羨ましくなったのは覚えている。  陽の光に照らされてキラキラと輝く二人は、とても神々しい存在に見えた。世界中の誰よりも幸せそうな笑顔だった。  映画なんだからそう見えるように演出されていると分かってはいても、自分たちとは縁遠いであろうその光景が、僕の心を抉ったのは間違いない。絶対に叶わないものがあるという思いに、深く傷ついてしまった。  ただ、そのあと新郎が感極まってしまい、新婦を抱えたまま走り出してしまうという展開になったことで救われた。すごく素敵なシーンだったのに、突然最後に雄叫びを上げながら走り去っていく新郎を見て、和葉と二人で大笑いしたんだ。  でも、もしかしたらあの時、僕は思っていたことを口に出して言ってしまったかもしれない。 「……もしかして、僕がウエディングドレスでのお姫様抱っこを『羨ましい』って言ったから……?」  そう呟いた僕に、薫は眉を下げて笑った。それはまるで父親が子供に反省を促すかのような、大きくて柔らかい笑顔だった。 「そう。お前を抱き上げて記念写真を撮れるようになりたいから鍛え方を教えてくれって言われた。今もその日を夢見て、アイツは体を鍛えてる。高校に入ったばかりの頃に相談されて、それからずっとだ。無理して本番で腰痛めてたら意味が無いから、確実に結婚出来る年齢になるまでゆっくり鍛えようって考えてるらしい。その時『朋樹をずっと守ります』って誓いたいんだって言ってたから、それには筋力と俊敏さが必要だなって話にもなってさ。アイツの趣味がバスケと合気道なのって、そういう事を考え抜かれた上でのことなんだよ。凄いだろ? 一途にも程がある」 「……そのために?」  思わず声が震えた。あの日の僕の願いを、和葉が今でも大切なものとして思ってくれていた事が嬉しかった。 「そう、お前の望みを叶えるため。そのためだけに変わっていったんだ」  僕はそれ以上何も言えなかった。和葉の想いに、ただ胸を打たれていた。  小学生の頃、僕たちは似たような体格をしていた。細身で小さい上に色素が薄く、白い肌に茶色い髪をしていた僕らは、図らずも目立っていた。ただ、その目立った見た目に反して二人揃って口数が少なく、あまり騒ぐことを好まなかった。だからどうしても活発なクラスメイトたちと遊びが合わず、いつも二人で本を読んでいた。その頃の僕らは、似た容姿でいつも一緒にいたため、よく双子ちゃんと呼ばれていた。  でも、和葉は高校に入ると少しずつ背が伸びていき、気がつくと視線を合わせるためには僕が見上げないといけなくなっていた。僕はいつも隣にいるから、なんだか首が痛いと思い始めたことで、身長に差がつき始めたことには気がつく事が出来た。  そして、その頃から彼の庇護欲はさらに高まり、僕はいつもあからさまに守られるようになっていた。その時期は薫の話と合っているはずだ。その頃から、周囲からの呼ばれ方は双子ちゃんから兄弟に変わっていた。  僕たちはお互いにその呼び名を利用して、甘える弟の僕と甘えさせる兄の和葉として過ごした。周囲に違和感を持たせず、恋人となったばかりでイチャつきたくて仕方がない僕らは、「溺愛兄と甘えたがりの弟」という称号を、むしろ喜ばしいものとして扱った。  和葉の体格が変わっていったのは、本当に緩やかな変化だったんだろうと思う。僕がそれに気がついたのは、高一の冬だった。  その日は僕らにとって大切な日だから、とてもはっきりと覚えている。  十六歳の誕生日、ペアの指輪をプレゼントされた日に、未来を誓って抱き合った。  そしてその日、僕は和葉への認識を改めた。  いつも穏やかに笑っていて優雅な佇まいの人だから、どんな時も変わらずにそうなのだと信じて疑わなかった。  でも、僕に関する気持ちは意外と激しいものだったようで、思っていたよりも雄々しい人なのだということに気がついた時には、ただ翻弄されるしか無かった。  喰らいつくようなキスも、どこまでも深く繋がろうとする熱の高まりも、僕の知っている和葉とはまるで違う人のようだった。無欲そうに見える穏やかな笑顔の下に隠されていた、激しい情愛。心も体もしっかり男で、そして同じ男である僕の全てを、彼は隈なく愛してくれた。  その上さらに庇護すべき対象として見てくれている。その気持ちの深さを思い知った日だった。だからとても強い記憶として残っている。  そう思っているからこそ、あの日に和葉の全てを理解したつもりでいた。今の今まで、分かった気になっていた。 「お前と一緒にいるための努力とか、お前の希望を叶えるための努力は生半可なものじゃないんだ。実はそんなに頭が良かった訳でも無いのに、お前と同じ大学に通うためにずっと努力してるし、肉体的にも精神的にもお前より強くあろうとして一生懸命だ。とにかく、ずっとお前との未来のためだけに生きてる。そんなアイツが、お前を好きじゃ無いわけ無いだろう? こんなに頑張ってるのに、それが肝心のお前に伝わってなくて、挙句本人は愛されてないんじゃないかって思ってるなんてさ、さすがにアイツが可哀想だぞ。朋樹、お前は和葉に愛されてる。そこは疑ってやるな」  薫はそう言いながら、スマホを取り出す。そして、ある動画を見せてくれた。 「これ……和葉?」  そこには、髪をハーフアップにして上半身裸の状態でトレーニングをしている和葉の姿が映っていた。時々画面に向かって何か話しかけている。薫の声がそれに応えていた。 「俺とビデオチャットしながら筋トレしてんだよ。あいつ結構体幹が弱かったから、最初はヨガとかピラティスをやってたんだけど、腰を痛めそうになったからどこがおかしいか教えてくれって言われてさ。俺試合の後だったのに、結構長い時間付き合わされてすげー迷惑だったわ」  手の広げ方、足の向き、踏み込み方、細かいところまで薫が和葉に指導している声が入っている。和葉はそれを聞いて試してみては、忘れないようにとメモを取っていた。 「本当に真面目だよな。一度言えば、次は完璧。疲れてるのに容赦なく連絡して来るから面倒だったけど、いつも終わる頃にはなんだかいい気分にさせてもらってたわ」  彼は動画の中ではっきりとこう言った。 『めちゃくちゃ涼しい顔でお姫様抱っこ出来るようにするんだ。絶対泣いて喜んでくれると思うんだよね。ねえ、薫もそう思うでしょ?』  その問いかけに、僕の涙腺は決壊した。自分が恥ずかしくなって、その場に崩れ落ちるほど泣いた。  あんなに優雅な彼が、こんなにも努力してくれていたんだ。僕を喜ばせるために、その事だけのために、何年もかけて努力を続けていた。 「僕なんて何の努力もしないで、ただ和葉に愛されてただけなのに……」  画面の中の和葉の笑顔に手を触れた。今は僕にこんな笑顔を見せてくれることは無い。もう一度笑って欲しい。あの気を使う様な笑顔じゃなくて、苦しそうな顔じゃなくて、こうして無邪気に笑う和葉が見たい。  でも、きっとそれがいけないことなんだろう。僕は和葉に何かしてもらうことを当然の様に求めている。今のこの気持ちがその証明だろう。  彼が僕に話してくれるのを待っているだけじゃダメだ。僕が知ろうとしなければならない。やっと心からそう思えるようになった。 「薫、ありがとう。僕、和葉とちゃんと話してみるよ」  スマホの中で弾けるような笑顔で止まっている和葉に触れたまま、僕は薫に向かって頭を下げた。薫はその頭にポンと手を乗せると、数回それを弾ませていく。 「和葉は間違いなくお前のことが好きだ。それでもお前に何か冷たい態度を取ってしまうとしたら、あいつ自身にもうまく対処出来ない何かがあるんだろう。それなら、感情的にならない方がいい。何かあっても俺が聞いてやるから、アイツと話す間は頑張って冷静でいろ。な?」  優しい声でそう言いながら、また頭の上で手を弾ませる。どうにもお父さんっぽい薫に、僕は思わず笑ってしまった。その優しい手に自分の手を重ねると、 「うん。ありがとうね、お父さん」  と答えた。 「うっせーな。勝手に親父にすんじゃねーよ」  そう言って笑う薫の明るい声が、すっかり人が減ったファミレスの店内に、朗々と響き渡っていった。

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