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第2章_怖い_第7話_困惑と悲しみ1

◇  バスを降りて病棟を見上げた。よく晴れた昼下がりは、一歩を踏み出すだけで汗が流れ落ちるほどに暑い。今日は肌に纏わりつくような湿気もあって、不快指数はかなり高そうだ。  こんな過酷な状況でも蝉は元気に鳴いている。彼らにとって夏の一週間は人生の全てだ。だからこそ、どれほど厳しい環境に置かれようとも、命をかけてパートナーを探すんだろう。  セミにとってのパートナーとは、一体どういうものなんだろうか。地上に出て為すべきことが彼らほどはっきりと分かっている人生だったら、僕の悩みなんて小さいものだと笑い飛ばせるんだろうか。 ——それはそれで大変な生だろうけどね。  そんなことを思いながら、面会の受付を済ませた。  和葉は三日前にリハビリのために一般病棟に移った。一ヶ月ほど入院したままリハビリを続けることになっていて、その経過が順調であれば退院出来ると言われたそうだ。元気に頑張っているよとメッセージを送ってくれていた。  僕は、あの日以来和葉に会えていない。薫と話した後に意気込んで帰宅したまでは良かったのだけど、その直後に熱を出した。テスト疲れもあったのかかなり熱が上がってしまい、母さんから病院に引き摺られて行った後はずっと家に引きこもっていた。  三日経ってスッキリ目覚めてからは、完全に回復したようで力が漲っていた。ただ、今日だけは勉強は休もうと決めて、早めに和葉のお見舞いに行くことにした。  教えられていた病室のある階でエレベーターを降りると、すぐに賑やかな話し声が聞こえて来た。リハビリのために入院している患者さんは、こんなに元気なのだろうかと驚くほどに楽しげな声だった。 「談話室ですけれど、病院ですからね。楽しいのは分かりますけれど、お静かにお願いします」  どうやらお見舞いに来た客が騒いでいたらしく、注意された集団が揃って頭を下げていた。 「すみません。思ったより元気そうにしてたから、嬉しくてつい声が大きくなりました。気をつけます」 「……あれ、翔也(しょうや)?」  そう答えていたのは、同じクラスの緒方翔也(おがたしょうや)だった。  そう言えば、彼らは今日お見舞いに行くと言っていた。一応時間も教えてもらっていたのだけれど、熱を出している間に僕はそのことをすっかり忘れていた。 「翔也の声、ますますデカくなるもんなあ」  みんながそう言って笑っている。それを聞いて、僕も思わず吹き出してしまった。  翔也はいつも元気で声が大きい。多分あれでも一生懸命声を落として話しているつもりだろう。普段から隠し事も悪口も言えないと揶揄われるほど、彼の話すことはどこまでも誰にでも筒抜けになっている。 「でもさあ、一ヶ月も意識が無かったのに、こんなに元気だなんて思わないだろう? びっくりしたし、嬉しいし。大きな声が出ても仕方ないって。なあ、和葉」  翔也の問いかけに、みんなが一斉に輪の中心にいる人物に視線をやる。そこにいるのは和葉なんだろう。明るいイエローブラウンの髪がふわりと揺れるのが見えた。  そして、その髪と肌に映えるモスグリーンのスウェット姿がチラリと見え、僕は思わず早足になった。あの服には見覚えがあるんだ。 ——あのスウェット、着てくれてるんだ。  和葉が着ているスウェットは、僕が去年の誕生日にプレゼントしたもののうちの一つだ。あの色は僕の一番好きな色で、和葉がこれを着て眠ってくれたらいいなと思って買ったんだよと伝えると、彼は頬を赤らめて喜んでくれた。 『僕が朋樹に抱かれて眠るんだ……不思議な感じ』  彼はそう言うと、溶けて無くなってしまいそうなほどに甘い笑顔を浮かべた。その時の顔は、今思い出すだけでも冷静じゃいられなくなってしまう。  それに、彼には少し小悪魔的なところもあって、リラックスウェアをプレゼントしただけの僕にそんなことを言うと、どんな反応するのかを密かに楽しんでいたりもしたらしい。  あのスウェットは、そんな特別甘い思い出のあるものだ。それを今も着てくれているということは、僕はやっぱりまだ好かれていると思っていいのかも知れない。そう思うと、心が踊った。 「和葉」  少し離れたところから呼びかけてみたけれど、和葉には聞こえていないみたいだ。翔也の声が大きいからか、僕の声ではどうしても負けてしまうのだろう。  もう一度呼びかけようとして息を吸い込んだ。そして、声を出そうとした時に、和葉の横顔が目に入った。その表情を見て、僕は足を止めてしまった。このタイミングで見るとは思わないものを目にしたのだ。 ——あの顔……。  和葉は、目が覚めて以来時々僕に見せていた、困ったような戸惑うような表情をしていた。僕は驚いた。あの顔は、僕にだけ向けられるものでは無いみたいだ。  不謹慎だとは思うけれど、それを見てほんの少しだけ安心したのも事実だ。僕だけが嫌われてしまったのかも知れないと思っていたから、そうじゃ無かったことに心から安心して気が抜けるようだった。  でも、そんな事ばかり考えてもいられなかった。和葉の顔色は、どんどん悪くなって行く。みんなは自分の思いをぶつけることに忙しいらしく、和葉の顔色が悪くなって行っていることに気がついていない。  事故に遭って意識不明だった友人が意外に元気だったとあれば、浮かれてしまってそうなるのは仕方がないことだろう。でも、このままではいけない。早くあの場から引き離してあげなくては、この間僕といた時のように意識を失ってしまうかも知れない。  今僕が手を差し伸べると、もしかしたらまた嫌がられるかも知れない。そう考えるとやや怯んでしまうけれど、彼の体調を守ることが優先だと思い、大きな声で彼の名を呼んだ。 「和葉!」  僕の声に、イエローブラウンの髪がふわりと揺れる。縋り付くような視線が僕をとらえた刹那、その瞳はそれまでよりもさらに寂しげに揺れた。 「朋樹……」  彼は僕の名を呼んだ後、気を取り直すようにして笑顔を貼り付けた。そして、もう一度僕の名前を呼んでくれた。 「朋樹、久しぶりだね。熱はもう下がったの?」  そう言って、優しく微笑んでくれる。でも、どこか落ち着かない態度は変わらない。それなのにいつも通り振る舞おうとして気遣ってくれている。正直、それがとても辛い。  どうして僕を見るといつも泣きそうな顔をするんだろう。会いたく無いのならそう言ってくれればいいのに、なぜ何も言ってくれないんだろう。  そう思って色々と言いたくはなるけれど、取り敢えず今は彼が倒れないようにしなければならない。僕は泣かないようにグッと歯を食いしばった。 「翔也、和葉の顔色すごく悪いよ。ちょっと疲れてるのかも知れないから、休んでもらおう」  僕は翔也にそう声をかけながら、和葉へ向かって手を差し出した。 「はい、掴まって」 「え……?」  立ち上がる手助けをしようと差し出した手に、彼はやっぱり戸惑いを見せた。それでも、また悲しみの透ける笑顔を見せながらも「ありがとう」と言いながら手を取ってくれる。  僕は握り合った手を優しく引き寄せると、彼を胸に迎え入れた。そして、少し抱えるようにして立ち上がらせる。その時、耳元に悲しみを堪えるような声が飛び込んで来た。  その音が、今度は僕を悲しみの淵へと誘う。二人でいることは何にも変え難い喜びだったのに、今やこうして悲しみが勝ってしまうようになっていた。 「……和葉、取り敢えず部屋に戻ろう。少し休んだ方がいい」  肩を組んで並んで歩き始めると、和葉は何も言わずに僕に体を預けてくれた。  僕は空いている方の手で彼の肩へと手を伸ばすと、随分と軽くなったその体を労るようにして抱き寄せた。 ◇  翔也たちは、和葉の調子がこれ以上悪くならないようにと言って先に帰ってしまった。僕は和葉をベッドに寝かせると、枕元に飲み物を置いて窓辺へと移った。 「朋樹?」  僕が神妙な面持ちで離れて行ったからか、彼は心配そうに僕を呼んだ。その行動の全てに一貫性がなくて、僕は心がぐちゃぐちゃになりそうになっている。  薫と話した時に決めた、彼が僕を愛するために努力をしてきたのなら、今は僕が努力をすべきだという気持ちを、必死になって呼び起こそうとしていた。もうはっきりさせてしまわないと、僕は高三の夏という大事な時期を、抜け殻になって過ごさないといけなくなってしまう。  すうっと息を吸い込んだ。そして、薫が教えてくれた和葉の思いを心に留める。大丈夫だからと言い聞かせて、彼の方へと向き直った。 「和葉。ちょっと話があるんだけど、聞いてくれる?」 「……うん、どうしたの?」  そう言いながらも、なぜか和葉は僕の言いたいことが分かっているような表情をしていた。分かっている、でも出来れば話したくはない。そう言っているようだった。 「あの、和葉、もしかして、僕のことが嫌いになった?」 「えっ? そんなことないよ、どうして?」  僕の話は、どうやら和葉が思っていた話とは違ったようで、彼は急に狼狽始めた。ずっとそばにいた僕が、これまで見たことが無いくらいに焦っている。 「あの、すごく言いにくいんだけど……」 「何、僕が何かしたの? 朋樹がそんな風に思ってしまうようなことを、僕が……」  和葉は足が弱ってしまっていて、急に立ち上がることが出来なくなっている。これまでの彼だったら、僕の元へ駆け寄って抱きしめたいと思っているだろう。  そして、思い過ごしでは無いのなら、今もそう思ってくれているに違いない。彼は体を動かしてこちらへ少しでも近づきたいという意志を示してくれている。それが叶わないからか、両手でぎゅっとシーツを握りしめていた。 「したって言うと表現としては重たいと思うんだけど、その、僕が話しかけた時にね、なんていうか……。悲しそうな顔をするんだよね。近づくと困ったみたいな顔をしたりとかさ。それが、どうしてなのかなって」 「悲しい顔……? してるの? 朋樹が近づいてきて困った顔してるの? 僕が?」 「うん。……もしかして、無意識なの?」 「……そんなつもりなかった」  和葉はそういうと、絶望の淵に立たされた人のような顔をした。まさか僕からそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。それがもし本当なら、僕は和葉にひどいことを言った事になる。  彼は僕を溺愛していた。それは肉体改造や学力向上等の目に見える変化に顕著に現れていた。薫の話を聞いて、どれほど愛されていたのかを痛感したのは間違いない。  そんな彼に向かって、あなたは俺を愛していないと言ったようなものだ。そんなに酷い事は無いだろう。でも、僕が感じている違和感は本物だ。それのせいで僕が悲しいと思っていることも事実だ。これを無かった事にしていくのは無理がある。 「そうなの? でも、さっきも僕が声をかけた時、悲しそうな顔してたんだ」  それを聞いて、ようやく思い当たることがあったらしい。ぎゅっと眉根を寄せて目を瞑り、口を噤んでしまった。 「和葉? どうしたの?」 「……ごめん」  その言葉と共に、涙が大きな粒となってこぼれ落ちてきた。俯いているからか、流れ落ちるのではなく、大きな涙滴がパタパタと音を立ててシーツに落ちていく。  突然の涙に、僕も狼狽てしまった。まだ話し始めたばかりなのに、和葉はもう冷静さを失ってしまっていた。 「和葉? 落ち着いて、大丈夫?」  駆け寄って覗いた蒼白な顔に、次々と浮かぶ大粒の涙が、彼の心の痛みの大きさを表しているようだった。  こんな風に和葉に動揺を与えてしまうのなら、訊かなければ良かった。そう思って、僕の胸も抉られたように痛む。その思いも伝わってしまったんだろうか、和葉は目を開くと、僕へ労るような視線を向けてくれた。 「ごめん、ごめんね、朋樹。僕が悪いんだ。朋樹は悪く無いんだよ」  でも、僕はその言葉に納得がいかなかった。軽い怒りすら覚えた。生まれて初めての、怒り。それを和葉に感じる事になるなんて、思いもしなかった。  どうして和葉が悪くなるんだろう。どうして彼は謝っているんだろう。彼は僕を深く愛してくれているはずなのに、どうして謝る必要があるんだろう。  ……どうして、何も言ってくれないんだろう。  恋人であるはずの僕は、彼の言いたいことが全く分からない。そのことが、どうにも辛かった。 「和葉、僕謝って欲しいんじゃないよ。僕が嫌いになったのならそう言って欲しいんだ。僕と話して具合が悪くなって、吐いて……。顔を合わせるたびに悲しそうにして、困ったような顔をして……。こんなの、このままでいい訳ないよ。だから教えて。どうしてこうなってしまったのか、教えてよ」  詰め寄った僕は、必死だったのだろうか。彼を責めているように聞こえたのだろうか。和葉は、涙に濡れた顔を僕へ向けた。その表情は、怒りに満ちていた。生まれて初めて見た、和葉の怒った顔。それが向けられたのが自分であることに、息が詰まる。 「言ったら分かってくれるの?」  静かな怒りだった。激しくぶつけられた方が、よほどマシだっただろう。静かに静かに、僕を責めていた。 「目が覚めて数日経って、やっと大好きな朋樹が来るって聞いて待ってた。楽しみにしてて、眠ってしまって、目が覚めて……。目の前にいた人が、僕の知ってる朋樹じゃなくなってた。そう言って、理解してくれるの?」  和葉はそう言うと、そのまま胸を掴んで苦しみ始めた。顔色がまた悪くなっていく。 「僕、僕の朋樹……。僕が守ってあげてた朋樹……。ずっと一緒だったのに、たった一ヶ月一緒にいられなかっただけで、まるで別人みたいになって……。それに、僕は僕で弱って何も出来なくなってしまった。だから、だからどうしても……辛いんだよ。僕たち二人とも、前と全然違うようになってしまった。もう元に戻れないって思うと、どうしても……悲しいんだよ」  和葉はそう言って、嗚咽を漏らした。このままだと過呼吸を起こすかもしれない。大丈夫だよって言ってあげなくちゃ、心配することなんてないよって言ってあげなくちゃ。そう思うのに、言葉が出てこなかった。 「……僕は、君をそんなに悲しませるほどに変わってしまったの?」  苦しむ彼に、ただそう問いかけることしか出来なかった。

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