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第2章_怖い_ 第8話_困惑と悲しみ2
僕は人が苦しんでいるのを見るのが苦手だ。だから、いつも人と意見が分かれた時には自分が引くようにしている。そうすることで衝突を避け、出来るだけ諍いが起きないようにしていた。
初めて会った人であってもそうする傾向にあるのに、僕にとって一番大切な和葉を苦しませるようなことを、自分から選ぶわけがない。それが例え無意識であったとしても、本当にそんなことをしているのなら自分が許せない。
だから知りたいと思ったんだ。彼をあんな顔にさせているのは、僕の何が原因なのかっていう事を。それが僕の『変化』だと彼は言う。全く自覚の無い事を指摘され、驚いてしまった。
「朋樹が意識してそう変わったとは思えないんだ。それに、変わったと言っても多分すごく些細なことなんだと思う。君が変わったこの一ヶ月も僕がずっと隣にいたとしたら、きっと気が付かなかったくらいの僅かなものだと思うんだ。でも、どうしてもその変化に僕の心がついていかない。僕、そんな自分がすごく嫌なんだよ。だってね、多分その変化って朋樹が成長したって事なんだと思うんだ。背が伸びたとかそういう事じゃなくて、でも顔つきとか抱きしめた感触とかが変わってて、声も少しだけ僕の記憶よりも低くてさ。それに、精神的にしっかりしたっていうか……。僕はその成長が受け入れられないんだ。だから朋樹は何も悪く無いよ。僕が悪いんだ、僕の心が狭いからいけないんだよ」
そう言ってごめんと泣く和葉の前で、僕はただ呆然とする事しか出来なかった。
僕が和葉に何か悪いことをしてしまったのなら、そこを直そうと努力することが出来るだろう。それがどんなに苦しいことであっても、和葉がそれを望むのなら、僕は頑張って挑むと思う。
でも、成長した結果に拒否反応を抱かれたと言われて、僕に出来る事は何だろうか。成長は自分の意思の及ばないところだ。僕にはどうにも出来ない。
和葉がそれを受け入れられないなら、彼が僕に不満を抱いた状態で付き合い続けるか、別れるかという選択肢しか残っていないんじゃ無いだろうか。そう思うと、胸に何かが突き刺さるような感じがした。
——そんなの嫌だ。
そう、そんな諦め方は絶対に嫌だ。心の中は、その想いでいっぱいだった。
だって、ずっと待ってたんだ。話しかけても答えてくれなかった一ヶ月間に、和葉が僕の名前を呼ぶことはもう二度と無いのかも知れないと思って、何度も泣いた。
けれど、最後はいつも必ず目を覚ましてくれると信じて前を向く努力をして来た。そうしていないと心が折れてしまいそうだったから、必死になって頑張ったんだ。
そうしてあの寂しくて辛い三十回の夜を超えて、和葉はやっと戻って来てくれた。最近ようやくストレス無くコミュニケーションを取れるようになったんだ。やっとここまで来れた。
この日々を手放したく無い、和葉と離れたくない。そのために少しでも変えられるところがあるのなら、いくらでも努力したい。するんだ、そう強く思って気持ちを切り替えた。
「和葉。それってもっと具体的にどこがどう変わったとかは言える?」
「……え?」
ぐすぐすと鼻を啜りながら和葉は僕を見つめた。僕から返って来た言葉は、また彼の予想とは違っていたらしい。ほんの少しだけポカンとした様子が、いつもに比べて幼く見えた。
和葉の顔は、かなり酷い状態だった。その上、たった今僕に向かってかなり理不尽な事を言ってのけた。そんな状態の恋人をまだ美しいと思う僕の頭は、相当な和葉ジャンキーだ。重症に違いない。だって、こんな時でも彼の好きなところを挙げていく事が出来るんだ。
彼自身と同じように、柔らかくて滑らかなミドルヘアの向こうに、濡れて少し束になった長いまつ毛が瞬く。その中できらりと輝きを放つ目が、僕は大好きだ。
鼻梁の先には、引き締まっているのに触れると柔らかい唇がある。そこに触れた時の甘い痺れは、僕をこの上なく幸せにしてくれる。以前和葉も同じようなことを言ってくれていた。
でも彼は、今の僕の見た目を受け入れられない。今まで好きだと言われていたところを、全て受け入れられなくなったのだと言う。そんな酷い話ってある? もう笑うしか無い。
「全部かあ……。酷いなあ」
「……っ、ごめん」
きっと、今すぐ嫌いになってもいいくらいのことを言われているだろう。
見た目がタイプじゃなくなった、だから直接触れ合うと辛いんだなんて、もしかしたらクズの使うセリフなんじゃ無いかと思うくらいには、言葉の暴力だろう。
でも、その言葉が溢れてくる場所は、僕を幸せにしてくれる場所と同じところなんだ。ずっとごめんと言い続けているのも、同じ場所だ。そこからこぼれ落ちてくると言うだけで、悪いものではない様な気がしてしまっている。
人ってこんなに滑稽なのかと思ってしまった。好きになって、幸せにしてもらって、そんないいものをくれた人と同じ人に、一番深く傷つけられて。そんなの離れない限り辛い想いをするだけだ。
遠くから見れば分かりきってる決断が、その中心に立ってしまうとそう簡単には判断できなくなってしまう。本当に滑稽としか言いようがない。
僕は和葉を嫌いになれないし、なりたくない。こんな風に心の奥に馴染んだ幸せを、これほど盲目的に好きな人を、そう簡単に諦めるなんて嫌だ。
僕の心は昨日までとは違っていた。だって、一つ状況は動いたんだ。
何が嫌なのかを和葉は話してくれた。今まで頑なに言おうとしなかったその秘密を、僕が言わせたとはいえ、きちんと話してくれた。
それなら歩み寄りたい。出来ることを探したい。僕のその想いを、彼に届くようにしなくちゃならない、そう強く思い始めていた。
「成長して嫌がられるなんて、思いもしなかった。でも、そうだな。似たようなことは言われた事があるよ。前に比べたら髭が目立つようになったとか、少し筋肉質になったとかそういう感じのことだよね? それなら、本当に最近家族から言われたよ。母さんは、男の子から男って感じに変わったわねって言ってた。そういうこと?」
和葉はまだポカンとしている。それでも問われていることを反芻するように考え込むと、その顔のまま頷いて、消えそうな声で「うん。そうだと思う」と答えた。
そして、何かが彼の心を軽くしてくれたのか、僅かながらも表情を明るくした。ふわりと広がった彼の柔らかな笑みを見ていると、さっき僕の胸に突き刺さったものは一瞬で溶けて無くなってしまった。
「そう、そうだね。なんて言ったらいいのか分からなかったけど、確かに男の子から男になったって言うのが当たってるかも知れない」
そう言いながら、困惑していく。
「男らしくなったからって受け入れられなくなったなんて、同性の恋人としては一番のタブーだよね。僕は朋樹をちゃんと男として見てたつもりだったけど、そうじゃ無かったのかな。怒っていいんだよ、朋樹。なんでも受け入れたりしないで」
どうしても自分の狭量さが許せないという和葉は、僕が怒らないことでさらに罪悪感に打ちひしがれているようだった。でも、どうしても僕は怒る気になれなかった。
「怒らないよ。頭を打ってたくさん血が流れて意識を無くしてしまって、目が覚めたら病院で、目の前にいる恋人が自分の記憶とは変わってしまってたら……。色々受け入れられないんじゃないかな。僕らは一ヶ月を過ごしてるけれど、和葉にとっては前の記憶と今しか経験してないんだから、置いて行かれたような感じがあるのかなって思うし」
僕は少し躊躇ったけれど、和葉の手をそっと握った。今の僕が触れることを、嫌がられたらさすがに傷ついてしまう。でも、不安に押しつぶされそうな和葉をこのまま放っておくのも嫌で、我慢出来なかった。
彼は一瞬びくりと手を跳ねさせた。でも不快感は示さない。それどころか、僕の想いに応えるように、慌ててこの手を握り返してくれた。
「それにね、これを言うと傷つくかも知れないけれど……」
夕方になり陽が傾き始めたことで、部屋の中に影が伸び始めた。そのオレンジ色の光が、和葉の頬に影を作る。寝たきりだった期間に成長するはずだった体は、眠ってしまったことでそれを止めてしまったらしい。彼は以前に比べて、ほんの少しだけ頼りない印象へと変わっていた。
筋トレの中断とそれ以上に負荷の減った生活の果てに、体は痩せ細ってしまっている。その見た目が、僕を悲しみに突き落とすような事が何度かあった。
「和葉だって、変わってしまってるよね。痩せちゃったし、顔色もあまり良くない。僕もその姿を見てるのって結構辛いんだよ。そんな感じじゃないの? 記憶の中の見た目と違うっていうのは、結構辛いものだよ」
きっと和葉が僕に感じていることも、これに近いものだろうと思うんだ。自分が相手に望んでいたものが無くなってしまったという喪失感。その辛さは、今まさに僕も感じているものだ。
全てがお互いの好みにぴったりだという奇跡の出会いを、これまで当然だと思っていたからこそ、僕たちのショックは大きい。
「だから、少しだったら理解出来るよ。完全には理解出来ないだろうけれどね。でも、その必要はないと思ってるんだ」
「……どういうこと?」
僕が感じているものは、和葉がリハビリ後にまたトレーニングを始めれば、幾らか解消する問題だろう。でも、和葉が僕に感じているものを完全に消し去ることは、その性質上不可能だと分かりきっている。それなら、和葉が感じている悲しみの深さは、僕の比じゃないはずだ。
「僕から可愛らしさが無くなってしまって和葉がそれを嘆いているなら、相対的にそれをしたと同じような効果が得られる方法を探そうと思うよ。どうにかして男くささを減らすよ。それ以外にも気がついたら色々やってみて、少しでも和葉が僕を好きでいてくれるように頑張る。だから、気持ちを理解して一緒に嘆く必要は無いんだ。そうじゃなくて、やれることを探して前を向いて、また一緒に笑い合いたいんだ」
「朋樹……」
僕は指輪をもらった日のことをまた思い出していた。
僕を抱きしめる腕は、しなやかな筋肉に覆われていた。増した胸の厚みと広くなった肩幅に、守られる喜びを感じていた。
腕が体に回るたびに、隙間なく体がくっつく度に、愛おしくてたまらないと言われているようだった。
でも、もしあの頃の僕が今のように筋張った手を持っていたらどうなっていただろう。最近顔つきもキリッとして来たと言われるけれど、その頃からこんな印象だったら、和葉は僕を抱いてくれただろうか。それ以前に、僕と付き合ってくれただろうか。
僕はラッキーだったのだろう。生まれた時から大好きな人のそばにいられた。それは本当になんの努力もせずに得た幸運だった。
でも、このまま何もしなければ確実にそれは失われるだろう。だから、頑張って失ったものを取り戻すしかないと思っている。
でも、本当は少しだけ怖い。
彼が望むようになるために頑張ったとしても、大した成果が得られ無かったらどうしよう。もう僕と抱き合いたいと思わなくなってしまったとしたら……。そんな考えが頭を掠める。
「和葉、キスしてもいい?」
僕はその不安を拭うため、彼に触れたくなった。でも、彼は嫌かも知れない。だから何も訊かずにすることは出来なくて、気持ちを確認せずにはいられ無かった。
和葉は困った様に笑いながら頷くと、僕の後頭部へと手を伸ばした。そしてそこを支えてくれる。そのままする深いキスは、とても幸せな気持ちをくれた。触れた場所からも、身体中を包んだ香りからも、涙が出そうなほどに幸せが呼び起こされていく。
「ねえ朋樹、僕は朋樹を嫌っているわけじゃないよ。愛情を失ったわけでもない。ただ、前ほどの溺れ方をしなくなったって言ったら分かるかな。前の朋樹を好き過ぎたんだ。今でも君が好きだよ。だから僕の都合で朋樹を困らせたくなかった。でも、どうしても悲しさとか寂しさが襲って来てしまうんだ。あんなに、吐いたりするほど悩むなんて……」
そこで僕はふとあることに思い至った。少し自惚れてしまうことになるかも知れないけれど、もうどうせだから訊いてしまおう。ただ少し気恥ずかしさがあるからと、彼に抱きつきながら訊ねてみた。
「ねえ、和葉。もしかして僕と離れたくない、でも離れるべきだってぐるぐる思い悩んでたの? もしかして……それで吐いてた?」
思い切ってそう問いかけると、彼は顔を真っ赤にしていた。そして、いつもの様に口元を手で隠しながら俯く。
「……そう、そうなんだ。バカでごめんね。あんなになるまで悩んでないで、ちゃんと話せば良かった。朋樹に嫌われたらどうしようって思って、そのことしか考えられなかったんだ。本当にごめん」
手を合わせて謝る和葉を見ていると、胸の中にほわりと温かいものが流れ込んでくるような気がした。
彼が事故の後に眠ったままになってから、これで満たされたのは初めてかも知れない。以前は当たり前にあったものなのに、無くしていても気が付かなかった。それくらい、毎日彼の無事だけを願っていた。
「一つ言っておきたいんだけど、僕は朋樹の見た目だけが好きだったわけじゃないから。ただ、君の言う通りなんだ。僕だけ置いて行かれたような気がしてて、それがすごく辛かった。足が動かしづらくなってからは前みたいにしてあげたい事も出来なくなってしまって、挽回したくてリハビリに焦るし、勉強のことも焦るし、自分の小ささと情けなさに押しつぶされそうで本当に気持ちがぐちゃぐちゃで……。色々考え過ぎて、全部が顔に出ちゃってたんだね。きっとすぐに薄れていくと思うから。たくさん悩ませたのなら、ごめんね」
そう言うと、もう一度抱き寄せてくれた。その温もりが、僕を包んでいた理性の鎧を壊していく。
「別れたいわけじゃないんだよね?」
「そんなこと思ってないよ! 最初に言った通りだよ。僕は朋樹を嫌ってないし、悲しませたいとも思ってない。今も好きだし、別れたくないよ」
和葉は動きにくくなった足を必死になって少しずつ動かした。そうして僕をスッポリと腕の中に収めると、愛おしさをそこから注ぎ込むようにして唇を合わせた。
僕はもう嬉しさと安堵で感情の蓋が壊れてしまったらしく、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
でも、この時は大声は出さなかった。和葉が何度もキスをしてくれたんだ。何度も「好きだよ」と繰り返し、いろんなところにキスを落としてくれた。
夏の終わりの夕暮れ、僕らはこうして改めて想いを確認しあった。
だから、もう大丈夫だと思っていた。
新学期に入って巻き起こる事件こそが僕らの最大のピンチだということを、この時はまだ知らなかったんだ。
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