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第3章_変化_第9話_悪意との出会い1
◇
「朋樹……」
吐息の中に溶けるように、僕を呼ぶ声が響いている。和葉は僕の服を抜き取りながら、その体をベッドへ横たえた。
「んっ」
肩肘をついたまま半身を起こし、もう一方の手を僕の首へと巻き付けるようにして甘えている。舌を絡め合ったままで体を引かれた僕は、彼の体の上へと勢いよく倒れ込んだ。
「あふ、う、はあ」
和葉の滑らかな肌の上に、僕の肌が重なる。スルスルと肌が滑り合う度に、その内側を薄く鋭い刺激が駆け抜けていく。それは次第にお腹の奥の方へと溜まっていった。そこがいっぱいになると、僕は一体どうなるんだろうか。暴れる心臓を心配しながらも、それを期待して浮かれていく。
時々お互いの胸の先や、体の真ん中で熱く硬くなったところが擦れ合って、思わず身を捩って声を漏らしてしまう。その時の声は、僕自身が覚えているものよりもほんの少しだけ低くなっていた。
この声のせいで和葉が萎えたらどうしよう。そう思って怖くなった僕は、思わず彼の肩に顔を埋めた。こうすれば、このまま気持ち良さを追いかけていっても、きっと彼に不快な思いはさせなくて済むだろう。
「あっ、あ、んん……」
昂ると同時に、僕の体からローズゼラニウムがふわりと香る。そのほんのり甘くて僅かにスパイシーな香りを追いかけるように、優しいラベンダーの香りが重なった。
「わあ、いい香り」
すん、と鼻を鳴らしながら、和葉は僕のうなじの香りを嗅ぐ。その吐息には切羽詰まった欲が感じられた。
「本当?」
「うん、すごくいい……。嗅ぎ尽くしたくなる感じがする」
その反応が嬉しくて、僕の胸がぎゅっと詰まっていく。
「嬉しいな。でもちょっと変態っぽいね」
「そう? でも、好きな人の香りってそれだけでいい香りなんだからさ。さらにいい香りが乗ってたら堪らなくなるでしょ。全部欲しくなるよ」
彼はそう言うとわざとらしく激しく鼻を鳴らし、まるで犬のようにクンクンと僕の首元の匂いを嗅いだ。それがくすぐったくてたまらない。
折角抱き合えるようになったのに、ムードが壊れるほどの大きな声で笑ってしまった。
「ひゃあ! やめてよ、くすぐったい!」
そう言いながら、彼の体にしがみついた。
この腕の中はなんて幸せなんだろう。もちろんそれは知っていた。ただ、しばらく手放していたからか、今僕はその喜びに体を震わせている。
和葉が目を覚まさ無いままだったら、もっと簡単に諦めていたのかもしれない。あの状態の彼にこんな欲を持つことは、きっと汚らわしく思えていたんだろう。
でも、彼はまた目覚めてくれた。そうなれば、もう一度こうしたいと思ってしまうことは許して欲しい。そして、願わくば彼も同じ気持ちになって欲しいと願っていた。
だから今、その思いがやっと届いたんだと感動している。彼が腰を揺らした途端、ボディクリームのものとは違う水音が聞こえたからだ。
擦れた二人分の熱の塊が、溢れたものを絡め合ってその音を立てている。それはつまり、僕とこうする事に抵抗がないと言ってくれているのと同じだろう。寧ろ喜んでくれていると思ってもいいはずだ。
そう考えていると急に思いが溢れそうになって、鼻の奥がつんと傷んだ。涙がすうっと零れ落ちた。
「トモ、泣いてるの?」
熱っぽい視線の中に、彼の高揚が現れている。余計なことなど考えずに、よくに集中したいだろう。そんな時でも、心配そうに僕のことを気遣ってくれていた。
「う、ごめん。さすがに我慢出来なかった。嬉しくて……」
「そっか」
和葉は静かにそう答えると、そっと唇を合わせた。
彼が目を覚まして、今日でちょうど一ヶ月が経つ。あの冷たい視線はいつの間にか消えていて、僕らはようやくこうして抱き合えるようになった。
今日を迎えることが出来たのは、ただ時が過ぎるのを待っていたからじゃない。僕は和葉にもう一度好きになってもらおうと、たくさん考え抜いて頑張って来た。
和葉が今の僕でも抱きたくなるようにと、催淫効果があるというローズゼラニウムを使ってボディクリームを作ってみた。緊張し過ぎて台無しにならないようにと、その香りを邪魔せず相性のいいラベンダーも混ぜてある。
レモンバームの香りに昔の僕を重ね過ぎてしまうから、それと対極にあるようなイメージをつけたいというところもあった。
高貴で妖艶な中に、清廉で癒しの香り。その効果があったのか、僕がこれを使い始めてからの和葉は、僕を抱きしめても悲しそうな顔ひとつせず、寧ろ嬉しそうにしてくれた。こうして、僕らは新しい関係性を築くための一歩を成功させた。
それからは、僕が変わってしまって苦手だと思っているところを彼に詳しく分析してもらい、僕はそれをなくすための努力をした。
肌が乾燥すると印象がよりシャープになってしまうらしいので、保湿をとにかく頑張った。そして、表情が固まってしまわないようにと、普段から少し笑みを湛えるようなつもりで過ごすようにした。笑筋を鍛えて悪いことはない。
精神面を落ち着かせるため、身体的な柔軟性を得るためにと、ヨガやストレッチも頑張ってみた。
そうして、これまでただ隣にいるだけで享受して来た和葉からの愛情を、自分の力で取り戻すためにやれるだけのことをやって来た。
僕は本来不精者で、やりたい事は続くけれど興味のないことは続かない。でも今回はどうしてもやり遂げたかった。
無くした可愛らしさを取り戻すことはできないから、それなら自分らしさは保ったままより魅力的な人になるような努力をしようとした。
その成果が和葉に受け入れられたんだ。嬉しくないはずがない。それも、どうも前よりも強く求められているような気がする。それがとても嬉しい。
好きな人を頑張って手に入れたんだという実感が、僕を労ってくれているようだった。
「朋樹、かわいい」
そう呟いた瞳は、ウソのないまっすぐな光を宿していた。とても愛おしいものを見るように、溢れ出る思いを閉じ込めるような目をしていた。
「……本当に?」
でも、折角そう言ってくれたのに、僕はその言葉をすんなりとは受け入れられない。自分の厳つくなった肩に触れながら、どうしても訝しんでしまうんだ。
「本当だよ。それに、このかわいいっていう言葉って、好きとか愛しいとかの気持ちで既にいっぱいになってる胸の中に、目から入ってくる情報が混ざりあって紅葉して、うわああ!ってちょっと堪らなくなった時に飛び出しちゃうから、多分言葉以上の意味があるんだと思うよ」
両手で頭を抱え、想いの強さに苦しめられるような素振りをする彼に、僕は思わず吹き出してしまった。
——そんな風になってしまうほど、僕への想いが溢れているんだ。
そう思うと、お腹の奥が疼いて仕方がない。
「そうなの? そんなに?」
「うん、そんなに。色々頑張ってくれてその効果が現れて来て、もちろんその変化自体も嬉しかったけど、その想いがさあ……。僕を思って頑張ってくれてるのが嬉しくて……」
彼はそういう時、その美しい瞳の中に僕を映す。そして、僕の両頬をその大きな手で包み込んだまま、静かに涙を流し始めた。
「トモ、最低なことを言った僕を見捨てないでくれてありがとう」
「和葉……」
その言葉は重かった。
確かに彼は僕に酷いことを言ったのだろう。それでも自由のききにくい体で思い詰めていたのだから、僕はそれ自体を咎めようとは思わなかった。
僕は僕でやれることをやろうと思えたし、彼も彼なりに頑張っている。二人とも前を向いているなら、それ以外に必要なことなんて何も無いと思っていた。
それでも彼は、彼自身について日毎に焦りを募らせていて、その思いがこの言葉に表れている。体に関する悩みは、思った以上に彼に重くのしかかっていた。
眠っていた彼を待っていた僕らは、ただ彼が戻って来てくれただけで良いと思っていた。記憶の混濁もなく、コミュニケーションも取れる。僕に至っては、また愛してもらえるようにもなって、それはこれ以上ない回復傾向だと思っていた。
でも、和葉自身はそう思っていない。回復しきれていない身体機能に、ずっと不都合と焦りを感じていた。それが今大きな問題となって、彼から自信を奪いつつある。
彼は特に下半身の筋力の衰えに苦悩していた。
生まれつき身体能力が高かった彼にとって、散歩をしただけで疲労が溜まるような体は受け入れ難いらしく、生活するだけでも日々ストレスを溜め込む事になる。
ただし、日常生活に支障があったとしても、それは入院しなければならないほどの事ではない。だからこそ、劇的な回復を望める方法も無い。打つ手が無いということが、彼にとってとても辛い事だった。
そんな中でも、和葉は周りに八つ当たりをすることもなく、日々リハビリに励んでいた。その頑張りのおかげで、寝たきりだった一ヶ月間に失った筋力は、徐々に戻りつつある。
「見捨てたりしないよ。だって、和葉も僕のことを受け入れようとして頑張ってくれたでしょ?」
「それは、そうだけど……。結局朋樹が頑張ってくれたからさ。でも、朋樹にあんなことを言っておいて、自分はいざこうなったら動いてあげることも出来ないなんて……。情けなくてさ」
そう言って眉根を寄せた。
「でも、僕もいつもはして貰ってばかりだし、たまには僕が頑張ってもいいでしょ? ダメなの?」
和葉はたまにこういう頑固なところが現れることがある。抱き合う時には、和葉が動いて僕は受け入れるという図式しか頭に浮かばないらしい。
でも、足がその負荷に耐えられないのだから仕方がない。だからといって抱き合わないという選択肢を採る事は、僕には考えられなかった。
だってずっと待っていたんだから。今それが叶う状態で彼といられるのに、そうしない理由が僕にはないんだ。
「ねえ、和葉。しばらくの辛抱だよ。実際君の回復はすごく早いんだって」
切なげに僕を見つめたまま止まっている彼の目を見ながら、僕は体を滑らせた。
「っ……」
少し擦り合うだけで、二人ともすぐに息が弾み始める。さっきと同じように、また濡れた音が響き始めた。和葉の眉間に皺が寄る。一瞬僕を引き離そうとしたけれど、僕はその手を掴んで僕の後孔へと連れて行った。
普段の僕ならきっとこんな事はしないだろう。僕自身がとても恥ずかしいと思っている。きっと身体中が真っ赤に染まってしまっているだろう。
でも、抱き合いたいんだ。君とどうしてもそうしたい。他の人じゃ嫌なんだ、だからどうか……。
——今の僕を受け入れて欲しい。
そう思って、意を決して言葉にした。
「ここ、して欲しい」
「えっ?」
思った通り、彼は戸惑っている。僕は和葉がもっと昂って余計なことを考えなくなるようにと、ずっと擦りあったままお強請りをした。
そして、呆然としながらも息を弾ませ続けている彼の唇に、そっと口付けていく。自分からした事のないような深いキスを繰り返して、吐息が届く距離を保ったまま、彼にしか出来ないことをもう一度強請った。
「お願い、和葉。突かれる事だけが僕の喜びじゃないよ。たくさん触れて欲しいんだ。それに、僕にもさせて欲しい」
覚悟して言ったとはいえ、あまりの恥ずかしさに体を起こして顔を手で覆った。そんな僕を見て、和葉はふっと息を吐いた。
「朋樹……。すごい事言うんだね。そんなにエッチだったんだ。じゃあ……」
ふわりと笑いながら優しく背中に手を当てると、「向こう向いてくれる?」と言った。そして僕が言われるままに足の方へと頭を向けると、ぐいっと僕の腰を掴み、思い切り引き寄せた。
「じゃあ、一緒にしよう」
そう言うと、戸惑ったままの僕の中へゆっくりと指を捩じ込んだ。
「あっ、ア」
ビクンと腰が揺れる。そこはすぐに熱が溜まった。
実は、ここに来る前にその部分にジャスミンの香りのするクリームを塗っていた。もし触ってもらうことが出来たとしても、途中で心変わりをされてしまったら悲し過ぎる。そうならないようにと、保険のようにしてさらに催淫効果のあるハーブの力を借りることにした。
「朋樹、ここもいい香りがするんだね」
その力は味方をしてくれたみたいだ。
僕に夢中になってくれた彼の指は、この体の奥の方から強い喜びを引き出した。僕はただそれに翻弄されて、何もすることが出来ない。
「あっ、あ、んン」
でも何もしなくても彼は欲情してくれていた。
僕の体が彼を受け入れられるようになる頃には、この一ヶ月の間に二人の心にこびりついた不安は、抉られた快楽に溶かされて消えてしまった。
「あン、んう、ああっ……和葉ぁ」
僕は彼の上に乗り、想いのままに乱れた。彼もそんな僕の姿を見て、幸せそうにしている。
あまりにも心が震えた。
僕たちはそのまま崩れ落ちるまで繋がり続けた。僕が動けなくなれば和葉が動いて、お互いに補い合うように愛し合った。
「朋樹、大好きだよ」
倒れた僕を抱き起こしながらそう囁く和葉は、眩しいくらいに弾ける笑顔で僕を見てそう囁いてくれた。
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