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第3章_変化_第10話_悪意との悪意との出会い2
その笑顔の晴れやかな様子に、僕は週明けからの和葉の復学がとても楽しみになった。あんなに戸惑っていた僕との関係がここまで回復出来たのなら、きっと皆と話していても具合が悪くなる事はないだろう。
幸い僕らはクラスも同じで、選択授業も全て一緒だ。彼がピンチに陥ったとしても、僕が側で助けてあげられる。これまでは和葉のプライドがそれを拒んでいたからそうもいかなかったけれど、今の僕らならきっと上手くやれるはずだ。
「月曜日からまた一緒にいられるね」
和葉の手を握りしめてそう言うと、彼は僕の手を握り返してくれた。しなやかな指には、始まりの記念になった指輪が光っている。彼は僕の指輪に唇を触れながら、
「うん、そうだね。手を借りるから負担をかけるだろうけれど……。よろしくね」
そう言って申し訳なさそうに頭を下げた。
進学に特化したクラスだから、前倒しできるカリキュラムはもう全て終わっている。ここからは受験に勝つための授業だけを受ける事になる。教室移動がほぼ無くなったため不自由する事は少ないのだけれど、修学旅行だけはそうはいかない。
和葉は復学の条件として、全体の進行を遅らせないためにも、旅行中に必要になれば都度車椅子を使用するということだけは、学校側と約束させられていた。
かといって突然車椅子を使用して上手く流れに乗れるかどうかは分からない。皆に迷惑をかけないためにも、今の内に学校内で慣れておこうということになっていて、そのグリップを握る役目を僕にお願いしたいと言われていた。
「うん、任せて。遠慮しないでなんでも言ってね。僕ね、和葉の面倒を見るっていう名目で、ずっと一緒にいていい事になってるんだ。そんなの嬉しいだけだから。和葉もだよね?」
彼の腕に抱きつきながらそう訊ねる。すると、彼も柔らかな笑みを浮かべながら、
「うん。そうだよ」
と答えてくれた。そして、そのまま腕の中に僕を閉じ込めると、
「でも、何日も一緒なのに何も出来ないのって辛いね」
と囁く。その声が耳の奥へと響き、身体中がぶるりと震えた。
「さ、さすがに旅行中は我慢するよ」
「えー? 本当に? 今だってこんなにすぐ反応するのに、大丈夫なの?」
「あっ、ちょ、ちょっと、もうダメだって……」
ようやく抱き合えた嬉しさからだろうか、ダメだと思うのに体が彼を求めてしまう。まだ彼の足は回復しきれてないのだから、労ってあげないといけない。それなのに、和葉も僕に触れるようになったことが嬉しいのか、手を緩めようとしてくれなかった。
「ん、あ、ああっ」
夏休み最後の土曜の夜は、そうして甘い時間で埋め尽くされた行った。
◇
「朋樹ー、葉月ちゃんと和ちゃん来たわよー」
玄関から響く母さんの声に、僕は鞄を掴んで立ち上がった。今日はもう朝早くから目が覚めてしまっていて、早々に身支度を済ませてからは、ずっとソファに座ったままずっとテレビを見るともなしに見ていた。
「はーい、今行く!」
今日から学校でも一緒にいられる。そう思うだけで胸が弾んだ。
校門を通り抜けるたびに感じていた罪悪感を、今日はどう感じるだろう。もしかしたらまだ申し訳なく思ってしまうかもしれないけれど、その気持ちを抱えたままでも和葉と共にいられるのなら僕はそれでもいい。
リビングを抜けて、玄関へと向かう。母さんの背中の向こうに、樋野のおばさんの笑顔が見えていた。
「おはよう、朋ちゃん。今日からよろしくね。和葉がしばらくの間お世話になります」
「おはようございます。いや、僕こそ一緒に送って貰えて助かります。今すごく暑いから……」
そう言いながら、外を指差す。相変わらず茹だるような暑さは続いていて、蝉たちはその中で遺伝子を残すために必死になって鳴いていた。
「そうね、確かに歩いていくには暑すぎるわよね。じゃあ丁度良かったのかもしれないね。和葉に感謝してもらおうかしら」
おばさんはそう言ってあははと快活に笑う。家の前に停めてある車の中からは、和葉が困ったように笑っていた。
和葉はいつも穏やかで優雅なタイプだけれど、おばさんはいつも元気で豪快で、明るい。そして、気遣いの人だ。和葉への配慮に欠けるようなこの言い方は、おそらく僕への気遣いだろう。息子もそれを承知しているからか、嫌な顔はしていない。
「いやいや、何言ってるの葉月ちゃん。さすがに笑えないわよ。和ちゃん、頑張ってね。朋樹のことならいくらでもコキ使っていいからね。無理しすぎないのよー」
「いや、それ母さんも僕に酷いでしょ?」
僕が呆れたようにそう返すと、母さんもあははと快活に笑った。
でも、分かってる。きっと母さんも僕と同じくらいに和葉の復学を喜んでるんだ。僕らは生まれたその日からずっと一緒にいる。それはつまり、母さんにとっての和葉は、まるで我が子のように長く接してきた子だということだ。
その上僕らは恋人同士だ。はっきりと訊かれたことはないけれど、きっと僕らの関係性には気がついているんだろう。自分の息子が大切に思っている子が事故に遭い、一ヶ月も意識がなかった。その間の僕を見ていた母さんも、気が気じゃなかっただろうと思う。
母さんにとっても、あの期間は辛かったはずだ。だから、今目の前の和葉が病衣ではなくて制服を着ているのを見たことで、それが終わろうとしていると実感できたんだろう。眩しそうに目を細めるふりをして、そっと涙を拭っているのが見えた。
きっと、僕がもう傷つかなくて済むと思って安心したんだろう。そんな優しさを見せてくれるのなら、少しくらい雑な扱いを受けても許してあげようかな。そんな僕の想いに気がついたのか、和葉が母さんに声をかけてくれた。
「ありがとう、おばさん。朋樹が僕を助けてくれるのは、おばさんに似て優しいからでしょ? そんな二人と親しくて良かったです。遠慮なく頼らせてもらいますね」
そう言って、ふわりと笑う。さすが和葉、母さんが欲しい言葉をよく分かってる。気をよくした母さんは、暑苦しいほどの笑顔を振り撒きながら僕らを見送ってくれた。
「あははっ、朋美ちゃんったら喜んじゃって。和葉、あなた恐ろしいわね。誰にでもあんな風に調子いいこと言っちゃダメよ。あれは朋美ちゃんだから通じるんだからね。あなたムダに顔がいいから、勘違いした人と揉め事起こしそうで怖いのよ」
おばさんは、自分の息子の人たらしっぷりに、呆れたような笑顔を見せた。実は僕もたまに心配になることはある。和葉が笑顔で耳障りのいい言葉を口にすると、それだけで彼に好意を抱く人は少なくない。
「さすがに誰にでもあんな調子で話したりはしないよ。僕あんまり人と話さないし。ねえ、トモ」
本人は無自覚な事もあって、よりタチが悪い。でも、僕はわざわざそれを彼に教えて負担をかけたくは無いと思っている。だから、軽いフォローを入れるようにした。
「話さないってことは無いかもしれないけど、自分から積極的に話しかける事はあんまり無いよね。それこそ、そうする相手って僕か母さんくらいじゃない?」
おばさんはそれを聞くと目を大きく見開いた。それはそれで心配らしい。
「そうなの? でもそれはそれで心配なのよね。そんなだと、あなた朋ちゃんがいないと生きていけなくなるじゃない」
そう言って困ったように笑いながら「ねえ、朋ちゃん」と僕に同意を求めてきた。でも、申し訳ないけれど僕は正直に
「ええ? いや、もしそうだったら僕は嬉しいよ」
と返した。そんな僕に、和葉がにじり寄って来る。そして、額をコツンとぶつけながら、
「本当? 嬉しいな。まあ、ずっと前からそうだけどね。僕は朋樹がいないと生きていけないよ」
と囁く。突然のその声の響きの甘さに僕が狼狽えていると、畳み掛けるように
「……大好き」
と小さな声で伝えて来た。そして、運転席から見えなくなるようにと僕を隠しながら、甘くて蕩けるようなキスをくれた。
そうこうしているうちに、車は校舎裏手の職員用駐車場へと入った。和葉はこれから毎日ここまで車で入り、ここからは車椅子に乗って移動する事になっている。これ以上ないと言うくらいに甘くなった空気の中、車は校舎の近くで停まった。
「はい、着いたわよー」
そう言って笑っている顔は、ほんの少しだけニヤついているように見えた。
「ありがとう、おばさん」
僕は照れながらもそう答えつつ、フットブレーキが踏まれる音を確認する。それから僕は急いで席を立ち、車椅子を取り出す準備をした。自動でドアが開くのを待って先に降り立ち、折り畳まれた車椅子を下ろす。
そうして事前に習った通りにそれを広げると、和葉がすぐに座れるようにと手早く準備を整えた。
「よし出来た。和葉、どうぞー」
申し訳なさそうに僕を見ながら待っていた彼に声をかけると、途端にその顔は明るく華やいだ笑顔へと変わった。にこやかに「ありがとう」と言いながら、ゆっくりと車から降りて来る。そして、眉根を寄せながらもなんとかシートに座った。
「母さん、送ってくれてありがとう」
和葉がおばさんにそう声をかけると、彼女は豪快に笑いながら、
「どういたしまして。じゃあ朋ちゃん、和葉のことお願いね。帰りは終わったら連絡するのよ。早めに来て待ってるから」
と言い、僕の背中をばしっと音がするほどに強く叩いて帰って行った。和葉もそれに笑顔で「分かった、ありがとう! 行ってきます」と答える。
おばさんは僕たちに手を振ると、そのまますぐに車を出した。
駐車場を出て行く車を眺めながら、和葉は何を思っているんだろう。その目は、まるで何かを諦めていて、それでも譲れない何かがある、そんな意思を秘めているように僕には見えた。
おばさんと和葉は、僕ら親子と一緒にいる時以外はいつも二人きりで過ごしている。うちも和葉の家も父親が忙しく、平日はほとんど顔を合わせることがない。だから、必然的に二人っきりで過ごすことが多くなる。
そんな状態の親子で、息子が意識不明になってしまった。大切な人が生死を彷徨い、その回復を待つ事しかできない日々を過ごしていた彼女の気持ちは、僕には少しだけわかる気がする。
だからきっと、今彼にして欲しい顔はこれじゃないと思う。うちの母さんが軽口をきいたのも、きっとおばさんの思いを汲んでいたからだろう。
——笑ってて欲しいよね、きっと。
せめて学校にいる間は、僕がそうしてあげられるように頑張ろう。そう思った。
「……朋樹」
僕は裏門の方を眺めたまま、車椅子のハンドグリップを握りしめて立ち尽くしていた。あまりに動かなかったからか、和葉が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「早く行かないとまずくない?」
そう言って見せられたスマホに表示された時計には「八時十五分」の文字が光っていた。
「確か八時二十分までに職員室に行くんじゃ無かった?」
職員室を指差しながら彼はそう言った。僕はそれを聞いて焦った。そうだ、そういえばそんなことを言われていた気がする……。
「あっ! 大変だ。丸山先生にエレベーターの使い方教えるから職員室に来るようにって言われてたんだ!」
「え、丸山先生待たせるとまずいね。急ごう、トモ」
「う、うん!」
丸山先生とは僕らのクラス担任で、時間管理に特に厳しく、言い訳を許さないタイプの先生だ。早く行かなければ何を言われるかわからない。
幸い、職員用駐車場から職員室までは数メートルしか離れていない。急げば一分もかからないだろう。
僕はグリップを強く握りしめた。そして、カバンを和葉の膝の上に放り投げると、勢いよく一歩を踏み出した。
「走るには危ないから、早歩きするね」
そう言って高速で歩き始める。段差の少ない場所とはいえ、どうしてもガタガタと揺れてしまう。グリップは結構硬い。そこを強く握りしめているからか、振動で手が痛んだ。
転倒する危険があるほどではないけれど、そのせいで力が緩んでしまったりもする。そんな中でもどうにか急ごうと四苦八苦している僕を見て、和葉は楽しそうに笑い始めた。
「いやいや、これ走ってるのとあんまり変わらないよ。あっ! トモ、先生がこっち見てる!」
「あー本当だ! やっばい、きっと怒られちゃうね。ごめんね、復学初日なのに」
「いや、朋樹悪くないでしょ。時間もまだ大丈夫だし……。あれ? 先生こっちに来た」
「えっ! うそ、やっぱり怒ってる?」
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