11 / 26

第3章_変化_第11話_悪意との出会い3

 丸山先生はドスドスと足を踏み鳴らし、何かを堪えるように口をグッと引き結んだ状態で走って来た。まるで恐竜が走ってくるみたいだ。勢いがすごい。  いつも般若顔か無表情に近い先生が、何かそれとは違う感情を限界近くまで溜め込んでいる。それが異様に恐ろしい。見慣れないその表情に、僕と和葉はごくりと喉を鳴らした。  その得体の知れないものに気圧され、僕らはなぜか謝罪の言葉を口にしたい気分になっていた。何でもいいから謝ってしまおうかと、和葉の顔を覗き込んでみた。 「ねえ、あれ怒ってるよね?」 「多分……。でも、何で? 朋樹、何か忘れ物とかした?」 「ううん、最近先生の授業で課題忘れとかなかったと思うけど……」  僕らがそうやって二人であたふたしていると、先生はその目をカッと見開いた。その顔は、いつも特大の雷が落ちる前に見るものだ。身に覚えがなさすぎるけれども、きっと僕らは何かをしでかしたのだろう。 「樋野ぉ!」  いつもはきっちりとセットされている真っ白な髪を、珍しく激しく振り乱ながら、先生は和葉の名前を読んだ。 「は、はいっ!」  驚いた和葉が反射的に返事をすると、先生は眉間に深い皺を刻んだ。その顔の恐ろしさと言ったらない。  でも、少し不思議な事があった。先生が和葉を呼んだ最初の一声はとても強く張りのある声だったけれど、その後に何度か呼ばれたものは、芯のないふにゃりとした耳あたりをしていた。 「あれ? 先生なんか変じゃない……?」  和葉も同じことを思ったらしい。僕の方を振り向いてそう尋ねた。  その目には、さっきまで浮かんでいた怯えの色は薄れ、代わりに困惑の色が滲んでいる。そう言う僕も、いつもの先生とはあまりに違う様子に面食らっていた。思わずぽっかりと口を開いてしまう。  そして、先生本人はと言うと、そんな僕たちの気持ちなどお構いなしに、ずんずんとこちらへ迫って来る。  そうして手の伸ばせる距離まで来ると、震える手で和葉の腕を掴み、まるで信じられないものを見るようにしてその目をじっと覗き込んだ。  よく見ると、その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。 「先生、泣いてるんですか……?」  和葉がそう問いかけた瞬間、一筋の涙が零れた。寄せられた眉根と、眩しそうに細められる目。その奥にある優しい視線。僕らは思いもよらない自体に狼狽えた。  先生が泣いている。いつも誰よりも厳しくて、生徒を泣かせてしまうこともあるあの先生が、和葉をみつめて穏やかに微笑み、涙を流していた。  信じられない光景に思わず息を呑む。二人で呆然と先生を眺めていると、先生は突然ハンカチを取り出して涙を拭い始めた。  そして、落ち着こうとしているのか、和葉から少し視線を逸らすと、ふうと息を吐いた。 「……すまない。やはり本人に会うとどうしても堪えきれないもんだな」  和葉の問いには答えず、先生は声を絞り出すようにしてそう呟いた。 「復学すると話があって、ご両親が学校に見えて……。頭では分かっていたつもりなんだ。それでも、俺にはどうしても信じられなかった。だってお前、一ヶ月も意識がなかったんだぞ。戻って来て欲しい、元気になって欲しいと願ってはいたが、それは叶わないのかも知れないと何度も頭をよぎったんだ。それがこんなに元気になってるなんて……。良かったなあ、本当に。こんな奇跡みたいなこと……、あるんだな」  そういうと、先生はまたハンカチを取り出した。何度もその目を拭い、それでも涙は溢れてくる。  声には、心からの思いがこもっていた。それが耳に届くだけで、受け取った人の心にじわりと込み上げるものがあるほどに、強い慈しみの思いが込められていた。 「ありがとうございます、先生」  心なしか和葉の声も震えているようだ。先生はそれに気がつくと、 「ここで泣くなよ。教室に行ったらもっと泣かされるだろうからな。皆お前のことが好きだから、きっと寄ってたかって泣きまくるだろう。俺はそれを側から見て泣いておくよ」  と言いながら、彼の髪がグチャグチャになるまで頭を撫でていた。 ◇  僕らの学校は、片田舎の繁華街の近くにある。校風としては文武両道、ただ進学に特化したクラスと部活動に特化したクラス、そして就職に特化したクラスというふうに分かれていて、生徒個人として文武両道を体現している人はあまりいない。和葉はその数少ない文武両道タイプの生徒で、先生方からの信頼も厚く、欠点を探す方が大変な優等生だ。  その上いわゆるイケメン枠にいるため、クラスでの人気はかなりのものだ。ただ、女子の間では抜け駆けが禁止されているらしく、実際にどのくらいの人気があるのかは分からない。そして、その協定とやらは全学年で共通のことらしく、誰も抜け駆けをしてはならないらしい。  登校した彼を一目見ようとした女子たちは、休み時間ごとに僕らのクラスへと押し寄せている。でも、絶対に中には入らず、廊下から和葉を眺めては騒いでいるだけだった。  ただ、そのお陰で彼女たちのクラスのクラス委員と担任は大変だ。なかなか揃わない生徒に痺れを切らし、各クラス委員に協力を仰ぐようになってしまった。しばらくは全学年を巻き込んでの大騒ぎになりそうだ。 「いやあ、すごいね。休み時間の度にこう集まられちゃうと、見てるだけで疲れるわ」  クラス委員をしている海本玲奈(かいもとれな)が、掃除道具の整理をしながらそうボヤく。その声はやや掠れ始めていた。彼女はついさっきまで、他クラスの生徒に教室へ戻るようにと呼びかけ続けていた。この一週間は、ずっとそうやって過ごしているらしい。 「覚悟はしてたけど、予想以上にすごかったよ。カズ、私にご褒美くれない? 今週すっごい大変だったんだよ。これからも続くんでしょ? せめてジュース奢って」  玲奈はそう言って座っている和葉に手を伸ばし、抱きつくようにして甘え始めた。それを見ていると、僕はもちろんもやもやする。  でも、僕らが付き合っていることは仲のいいグループの皆にも話していないので、やめて欲しいということは出来ない。  だから、いつもこういう時はただ笑ってやり過ごすようにしていた。悲しくなったとしても、僕には未来に約束があるのだからと思って自分を慰める事しか出来ない。 ——大丈夫、僕にはこれがあるんだから。  そう思いながら、指輪を通したチェーンに手を触れた。  和葉が復学するにあたり、こういうことが起こるだろうということはある程度の予想はついていた。だから、僕は彼にお願いしてあの指輪を身に付けさせてもらうようにした。彼はそれを快諾してくれて、このチェーンネックレスを準備してくれていた。  ポケットに入れるのではなく、どうしてネックレスにしたのかというと、体育の授業が終わっていて校内で着替える必要が無くなったからだ。それなら夏の制服の下に指輪をネックレスにして身に付けていても、誰かに見つかる可能性はかなり低い。  この指輪に触れることで、和葉は僕のものなのだと大きな声で言う事ができなくても、最後に結ばれるのが自分なのだという事を常に思い出せていれば、こういう時に落ち込まずに済む。僕はそうやって心を落ち着かせる事が出来ていた。  でも、外から和葉を眺めていた集団はどうやらそれを許さないつもりらしい。 「ねえ、あの人いっつも樋野君にベタベタしてない? もしかして彼女なのかな?」  そんな言葉と共にあからさまな敵意が寄せられる。それでも玲那はそんなことは気にも留めないらしく、さらに和葉に纏わり続けた。  本人も意図しているのかいないのか分からないが、だんだん触れ方がエスカレートしているように見える。和葉の顔色もそれに伴って悪くなっているように見えた。 「……いいよ、じゃあ明日のカラオケの時の玲奈の分は僕が持つよ。それでいい?」  玲奈の機嫌を伺うようにして和葉は彼女にそう尋ねた。明らかなご機嫌取りをした彼に、僕は違和感を覚える。  普段の和葉なら、もっと上手くかわすだろう。何か変だなと思って見ていると、どうやら翔也もそう思ったらしく、玲奈を見て眉を顰めていた。 「えっ、本当?」 「うん、だって完全に僕の都合で玲奈の休み時間が無くなってるんだもんね。それくらいのお礼はさせて貰わないと、申し訳ないかなって」 「やったー、ありがとう。和葉大好きー」  そう言って和葉の頬にキスをしようとした。廊下から悲鳴が聞こえた。 「っ……」  僕も流石にそれは見過ごせなかった。胸には刃物で刺されたような痛みが広がっていく。  鋭く痛くて、ひどく熱い。  涙がこぼれ落ちそうだった。  彼女の唇が和葉に触れるまで見ていられなくて、思わず両手で顔を覆った。 ——上手く息が出来ない。  どうしよう、こんな時でさえ僕はこうやって逃げ続けるのが正解なんだろうか。本当は彼に触れられるのだって嫌なのに、キスをされても黙っていないといけないんだろうか。  それは一体いつまで続く話だろう。卒業すれば解放される? それとも、大学を卒業するまで? その先に一緒に過ごす人生が待っていたとしても、そこまで僕は耐えられるんだろうか……。  そんな風に僕が情けなく頭を悩ませていると、玲奈が小さく悲鳴を上げる声が聞こえた。どうしたのだろうと思って、恐る恐る顔を上げてみる。すると、翔也が玲奈の顔を手で押し除けて、彼女の唇が和葉の頬に触れるのを阻止しようとしていた。 「ちょっと、いたぁい! やめてよ翔也ー。あんたに関係ないでしょー? 邪魔しないでよー」  戸惑う和葉に目もくれず、翔也は更に力を入れて玲奈を完全に和葉から引き離した。さすがの彼女も力では彼に敵わず、不服そうに彼を睨みつけている。僕はその表情を見て違和感を感じた。玲奈はやたらに翔也に敵意を向けているように見えた。 「……いい加減にしろよ。彼女でも無いのに人前でそんなことするな。和葉が断れないからって好き放題するのは良くないぞ」  そう言って、玲奈の体を外に向くように回転させると、その背中を突き飛ばすように押した。 「見てみろよ。あんなに人がいるのにキスなんてしたら、恋人宣言してるのと同じようなもんだろ? 和葉のことを大切に思うなら、そんな事すんな」  それでも玲奈は引き下がらない。よほど腹に据えかねたのか、まだ翔也にくってかかろうとしている。 「だから、何であんたにそんなこと言われないといけないのよ」  和葉は揉め続ける二人を見ながら、ついに顔色が蒼白になってしまった。そして、病院にいた時と同じで、翔也は和葉の不調に気がつくことが出来ない。玲奈も和葉を好いている割には彼の体調には疎く、肩で息をしていることにすら気が付かないようだ。 「和葉っ!」  僕は二人に感じた違和感も気になったけれど、何よりも和葉の体調が心配だった。あの顔色の悪さは、多分僕との間で起こったものと同じだろう。彼の記憶の中の二人と目の前の二人に乖離があって、それを受け入れられずに苦しんでいる。あのままだと、また倒れてしまうかも知れない。  周囲を気にするまもなく、彼の側へと駆け寄った。 「和葉、大丈夫? ほら、これ落ち着くから吸い込んで」  僕はハンカチを取り出すと、それに持っていたスプレーを吹き付けた。そのボトルの中には、ラベンダーの精油を薄めたものが入れてある。  和葉はどうやら落ち着くために使うものとしてはラベンダーが一番合うらしく、それがわかってからは彼がこうしてパニックを起こしそうになる度に使うようにしていた。  彼の鼻先にハンカチを当てる。そして、二、三度すうっと息を吸い込むのを確認した。彼の目が、ふっと緊張から解き放たれる。余裕を取り戻すのを確認して、僕はようやく安堵した。 「……ありがとう、朋樹。ちょっと楽になったよ」  青い顔のままそう言って笑う和葉に、僕は胸が痛んだ。こんな時に僕にまで気を使う必要は無いと言ってあげられない自分が情けなかった。  僕への思いを隠さないといけないから、必要以上に強がってしまうんだろう。そう思うと、すごく切ない。  だから気が緩んでしまった。みんながいる所ではあまり彼に触れないようにしているのだけれど、この時はどうしても我慢出来なくなり、彼を癒してあげたくて仕方がなくて、その背中をそっと摩ってしまった。 「あ、ありがとう」  学校ではあまりしない行動をとったことで、和葉も驚いていた。それに、喜んでくれていたんだろう。彼の頬に、うっすらと赤みが差していく。 「うん。良かった。顔色良くなったよね。……ごめんね、どうしても心配だったから」  そう問いかけた僕に、和葉は「うん、嬉しいよ。ありがとう」と言って微笑んでくれた。  その彼の表情は、ただの友達に向けるものでは無かった。それに気がついたのだろうか、どこからともなく攻撃的な声が聞こえて来た。 「えっ?」  僕は驚いて振り返った。その声が聞こえて来た方向は、間違いなくそっちからだったはずだ。 ——どうして……?  彼女の口は、ニヤリと笑って歪んでいた。そして、何事も無かったかのようにそのまま教室から去っていく。  その後ろ姿を見ながら、僕はこれからどうしたらいいんだろうかと悩んでいた。その口が言った衝撃的な言葉。 『キモいんだよ、ホモが』  それをどう消化するべきなのか、全く分からずにいた。

ともだちにシェアしよう!