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第3章_変化_第12話_悪意との出会い4
「おい、玲奈! お前今何つった!」
呆然とする僕の隣を、翔也が怒りに顔を歪めて駆けて行く。玲奈はそれに気がつくと、無言のまま猛ダッシュで逃げていった。
「翔也! 玲奈を責め過ぎないでね!」
驚いてはいるものの僕よりも落ち着いた様子の和葉は、小さくなっていく二人の姿を見ながらそう叫んだ。以前の彼なら、間違いなく二人を追いかけていただろう。それが出来ないことに苦しんでいるのか、蒼白の顔色はさらに悪くなっていく。
あの二人は小さな頃から運動が得意で、事故前の和葉の身体能力にも対等についていけていた。
翔也は小学生の頃からずっと柔道をやっている。パワーがあり、その上走るのも速い。玲奈は最近まで習い事としてパルクールをやっていた。そんな二人が本気で追いかけあっている。
玲奈が段差や壁を利用して逃げ回ると、翔也はそこを力で超えて来る。まるでアクション映画を見ているような追いかけっこだ。そんな二人に、一般の生徒が追いつけるわけがない。
「玲奈! 危ないからそろそろ止まって!」
和葉は自分が酷いことを言われたにも関わらず、その言葉を投げつけてきた相手を心配している。僕はあの言葉に震えているのに、彼はどこまでお人好しなんだろう。
ただ、それにしても玲奈が言った言葉が聞こえたのなら、妙に受け止め方が冷静すぎる気がした。
玲奈は小学校からの友人だ。彼女は僕らとずっとべったり一緒だったわけでは無いけれど、それなりに仲良くしていた。彼女はその頃から運動能力が抜きん出ていたため、外遊びをするときはいつも男子に混じっていた。その中でも特に同じレベルで動くことのできる和葉と仲良くなり、いつの間にか僕とも話すようになっていた。
一方の翔也は中学校からの友人で、僕らは六年間ずっとクラスが同じだった。彼は見目麗しく運動の得意な和葉に強い憧れを抱いていて、僕に和葉と仲良くなるための口利きを頼んで来たほどの和葉ファンだ。
今は友人として慣れてきたようだけれど、最初の頃は和葉の目もまともに見られ無いほどにファン意識が強かった。仲良くなるにつれてそれが和らぐと今度は性格に惚れ込んだらしく、彼を悪く言う者は等しく翔也に睨みを効かせられていた。
そんな彼だからこそ、玲奈の口から吐かれた暴言を許す事が出来ないんだろう。それなのに、当の和葉は全く涼しい顔をしている。僕にはそれがどうにも不思議でならなかった。
「ねえ和葉、さっきの玲奈の言葉って聞こえてたの?」
そう尋ねた僕に、和葉はなぜかふっと息を吐いた。その笑顔は、まるで心配いらないよと言っているように見える。でも、男同士で付き合っている僕らに向かって、はっきりと「キモい」と言った彼女の言葉が、なんの問題もない訳がない。
言いようのない不安に駆られてしまい眉間にギュッと力を入れていると、彼にそこをつんと突かれてしまった。
「そんなに心配しないの。実はね、あれを言われたのは今が初めてじゃ無いんだよ。最初は驚いたけど、今はその理由も何となく分かってるから、何も気になってないんだ」
そう言って、笑顔を向けてくれた。顔色はまだ悪いけれど、それはもういつもの柔らかな笑顔に戻っている。それを見ていると、僕は包み込まれるような安心感を与えられた。
「そう? でも、あんな酷い事を言われてどうして君はそんなに笑ってるの。皆の前であんなにベタベタしてくるくせに、目の前で堂々とキモいって言われたんだよ? 悲しくないの?」
あの時の和葉の笑顔は、息を呑むほどにキレイだった。それが僕に向けられていて、彼は心から嬉しそうにしていた。僕もそれを見て胸が躍っていたのに、ぶつけられた一言に思い切りそれを台無しにされてしまった。僕はそれがとても悔しかった。
それなのに、和葉自身は涼しい顔で二人の追いかけっこを眺めている。どうしてそんなに落ち着いていられるんだろうか。彼の心の中が理解出来ない。
「うーん、言葉だけ捉えると確かに悲しいよね。きっかけが何だったのかは僕には分からないんだけど、キモいって言われ始めてからはもう一年くらいになるんだ。ただね、不思議なことに同じくらいの時期からああやって僕にベッタリ纏わりつくようになったんだよ。一見すると支離滅裂な行動でしょ? でもね、あれは玲奈の中では全部意味のある行動なんじゃないかなって思ってるんだ」
「ベタベタくっつくのに、酷いことを言う……。それに意味があるの? 僕、玲奈はずっと和葉を好きなんだと思ってた。でも、好きだったらあんなこと言わないよね?」
「そうだね、僕もそう思うよ。どちらかと言うと嫌われてるだろうなあ」
「ええ? じゃあやっぱりただの悪口じゃないの?」
困惑する僕に向かって、和葉は涼しげな笑顔を浮かべた。そして、まるで親が子供を慈しむかのような視線を見せる。
「玲奈は僕が事故に遭う前からびっくりするくらい変わってないから、そろそろその答えが見られると思うよ」
そう言うと、とびきり優しく見つめながら僕の手を引き、車椅子の隣へとこの体を引き寄せた。
「ほら、ここで、ね。僕の隣で玲奈の顔を見てて」
「う、うん、分かった……」
和葉の言っていることが何一つ理解出来ないままだったけれど、彼のそばにいられることは嬉しい。僕は和葉と一緒に窓辺に立ち、玲奈を観察することにした。
酷暑続きの夏の勢いはまだ終わりが見えない。鼻先を掠める空気は、今でも熱くて湿っている。夕立すら起きそうにない焼けるような暑さの校庭に、突然玲奈の叫び声が響いた。どうやら翔也が玲奈を捕まえたらしい。
「あ、ほら、捕まっちゃった。朋樹、玲奈の顔を見てよ。彼女が僕に悪態をつく理由はあれだよ」
和葉が指で示す先には、翔也の太い腕に捕獲されてもがいている玲奈の姿が見えた。ガッチリと後ろからホールドされた状態で、彼女の両足は宙を蹴っている。
「なんであんなこと言うんだ! 和葉がお前に何かしたのかよ!」
翔也が怒鳴る声がこちらまで響いて来た。挨拶や気合いで大声を出し慣れた体は、とてもよく通る声を発する。校庭を挟んでこちらまで届いてくるのだから、かなりの迫力だろう。
でも、慣れているからなのか、玲奈はそれを聞き流しているようだった。何も言い返さない彼女に向かって、翔也は延々と説教を続けている。
真剣な翔也に対して面倒くさそうな表情の玲奈が、一瞬表情を変えた。その顔を見た瞬間に、僕は和葉が言おうとしている意味を理解出来た。
「あれ? 今の玲奈の表情って……喜んでるよね。もしかして、玲奈は翔也に捕まえて欲しかったの?」
驚いてしまって、やや高くひっくり返ったような声でそう尋ねると、和葉は僕の耳元に近づき「正解」と囁いた。
「玲奈ね、翔也のことが好きみたいなんだ。でも付き合いが長すぎて素直になれないみたいなんだよ。だから僕を使って翔也に構われようとしてるんだよね。僕に何かいうと翔也が怒るでしょ? そうすれば構ってもらえるって思ってるみたいなんだ」
「ええ、本当? 玲奈、そんな理由であんな事を言ったわけ? ちょっと幼稚すぎるんじゃない?」
思わず呆れてしまって大きな声を出してしまった僕に、和葉は唇に人差し指を立ててそれを嗜めた。
「本人は一生懸命なんだから、そんな風に言っちゃダメだよ」
「あ、ごめん……分かった」
僕がそう答えると、彼はとても眩しそうに目を細めた。
彼のその表情に、僕の胸が甘く痛む。二人で恋を語ろうとすると、どうしても僕らが恋人として過ごす時間のことを思い出してしまうからだ。でも、今はお互いにその顔を出すことは出来ない。だから、こういう時にそれを少し苦しく感じてしまうんだ。
でも、それは特別に甘い出来事でもある。二人で同じことを考えているのに、みんなの前だからそれを言うことは出来ない。だから、みんなは僕らが同じことを考えていることを知らないんだ。
このたくさん人がいる中で、僕ら二人だけが秘密を抱えている。それを感じられるこの時間が、実はすごく嬉しい。
誰にでも話せないという事で苦しむことも多いけれど、こういった特別感を味わうことが出来るといういい面もある。今まで気が付かなかったけれど、そんな風に思えるような余裕すら生まれつつあった。
「ねえ、でもあの暴言は止めさせようよ。差別的だし、玲奈のためにも良くないでしょ。もうちょっと他の方法で翔也の気を引くように言い聞かせよう」
転落防止用のバーに身を預けながら僕がそう言うと、和葉はふっと息を吐いた。面白いことを言った憶えは無いけれど、何かが彼のツボにハマったらしい。ふわふわと緩んでいた表情が、さらに解けて溶け出しそうになっていた。
「そう? 朋樹がそう言うなら、そうしようか」
その甘い表情のまま、いたずらをする子供のような目をしてそう言う。そうして、もう一度ふわりと笑った。
甘い香りが立ち上るような表情に、僕は引き寄せられるように彼に近づいた。そのまま寄り添うようにして並ぶと、二人で翔也に手を振る。
彼は玲奈を抱えたまま校庭の校舎側まで戻ってきていた。僕たちが手を振っていることに気がつくと、まるで荷物のように肩に抱え上げていた玲奈を抱え直し、こちらへ顔が向けられるようにした。
それはいわゆるお姫様抱っこの状態だ。翔也は何も考えていないようだけれど、玲奈はびくりと震えた。嬉しくて反応しそうになっているのを、必死に隠している。
でも、それはどう見ても翔也に抱えられて喜んでいる顔だった。彼女は恐る恐る僕らの表情を窺っていた。そして、自分の思いがバレているのだと自覚すると、一瞬で顔を真っ赤に染めてしまった。
「あー気がついちゃった。バレてるのが恥ずかしいんだね。かわいいなあ、応援したくなるね」
「でしょ? だから少しくらい酷いことを言われてもいいんだよ。多分ね、恥ずかしいだけじゃなくて、何か他に上手くいかない理由がきっとあると思うんだ。それが解決するまで、見守ってあげようよ」
和葉はそう言いながら、玲奈に小さく手を振った。彼女は恥ずかしそうにそれに答えて手を振っている。そして、そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、翔也は僕たちに届くようにと大きな声で呼ばわって来た。
「なあー! お前たちももう帰るだろ? 下に降りて来る時に俺と玲奈のカバンもついでに持って来てくれねえ? 俺こいつ捕まえておくから。ぜってー和葉に謝らせるから」
それを聞いて焦った玲奈は、慌てて彼から離れようと身を捩った。翔也は逃すまいとして力を入れていくから、玲奈を強く抱きしめているような状態になっていく。
「ちょ、ちょっと、ねえ! もう離してくれてもいいでしょ? 下ろして!」
「ダメだ。悪いことをしたらきちんと謝れ。人としての筋を通せ」
武道家らしく礼儀にうるさい翔也は、頑としてゆずらない。そんな彼に玲奈は痺れを切らし、
「このクソ真面目坊主!」
とまた悪態をついた。それを聞いた翔也は急激に顔を顰めると、
「誰がクソ真面目坊主だ! いい加減にしろ!」
と叫びながら彼女に頭突きをお見舞いする。
「きゃー! いったい、もう、信じられない!」
そんな二人のやりとりに、僕らは声をあげて笑った。
体を揺らして笑う和葉の前髪が、さらりと落ちる。僕はその髪を指で掬った。そして、それが彼の目に入ってしまわないようにと、形良く薄い耳介にそっと掛けていく。
「あーもう、可笑しい。やめてくれないかな、翔也。お腹痛いよ。あの二人が揃うと本当に面白いよね」
「本当だね。でも、玲奈の頭大丈夫なのかな。翔也の頭突きって痛そう……」
重たい問題になりそうだった二人のやり取りは、何だか呆気ないほど平和に幕を閉じた。
僕らは笑いながら翔也と玲奈のカバンを持つと、みんなに挨拶をしながらエレベーターへと向かった。心配事が減った僕の足取りは、心なしかさっきまでよりも軽い。
「あ、そうだ。和葉、今日うちに泊まりに来るんでしょ? おばさんも一緒なんだよね」
「うん、僕が泊まりに行きたいって言ったら、じゃあ自分も一緒に行くって言って聞かなくてさ。母さんはおばさんと話したいんだって。僕らは朋樹の部屋で勉強しててって言われたよ。僕たち勉強にために会うのに、親が遊んでるなんて酷いよね」
「あはは、本当だね。ノートは結構な量だもんね。長いこと休んでたから、写真撮ってメモを書き込むだけでも大変でしょ?」
車椅子に座った和葉がエレベーターのボタンを押す。今僕ら以外の利用者はいないはずなので、話しながらその到着を待った。
「じゃあ、勉強頑張ったらまたマッサージしてあげるよ。ボディクリームいくつかあるから、どれがいいか決めてね」
階下から上がってきた事を知らせる軽い電子音が響いた。重たいドアが、ゆっくりと静かに開いていく。
「うーん、じゃああのジャスミンのやつがいいなあ」
涼しい顔をしてそう言う和葉に、僕は返事に詰まった。ジャスミンのクリームは、僕が和葉に抱いてもらいたくて作ったものだ。それをどこに塗っていたかだって、まだ覚えているはずだろう。
それを今日使いたいと言うことは、そういう気持ちでいたらいいということなんだろうか……。急に振られた恋人としての会話に、僕は狼狽えてしまう。
「な、何言ってるの! あれは、あの時用だよ……。き、今日の泊まりは、そういうんじゃないでしょ?」
「えー、ダメなの? ……泊まるんだよ?」
エレベーターの扉が閉まった。和葉の纏う空気が、一瞬にして色気を増す。それを肌で感じ、僕の胸は早鐘のようになり始めた。
ガラスの向こう側の景色が暗転した瞬間、和葉が手を伸ばした。そのまま引き寄せられ、お互いの唇がゆっくりと合わせられて行く。
「んっ……」
すぐに階下についたことを知らせる到着音が鳴る。名残惜しくなって一瞬見つめ合い、でもすぐに慌てて離れた。開いたドアの向こうには、誰かがいるかもしれないからだ。一瞬で火照ってしまった体の熱を持て余した僕らは、それでもなんとか素知らぬふりを決め込もうとした。でも、どうやらそれは間に合っていなかったらしい。
「和葉、朋樹……。お前ら、キス……してた?」
そこには、困惑している様子の翔也と玲奈が立っていた。
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