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第3章_変化_第14話_君の好きな1
「……誰?」
僕らは暗い廊下に向かって声をかけた。
エレベーターの前には短い廊下があって、その先には職員室がある。でも、今日は研修があるらしく、職員室にはほとんど人がいない。
役職付きの職員しかいないためかほとんどの電灯が消されていて、スマホを構えた人物が立っている辺りは、真っ暗になっている。非常灯の光がその輪郭をぼんやりと浮き上がらせていて、僅かにスカートの裾が揺れる様子が見えた。それで相手は女子なんだということだけは分かった。でも、声が違うから玲那ではないことは確かだ。一体誰なんだろう。
「ねえ、今写真撮ったよね?」
和葉が彼女にそう声をかけると、ハッと息を呑む音だけが響いた。その音には、彼に声をかけて貰えたことで喜んでいる様子が現れている。それなら、いきなり写真を撮られた意味も分かる気がした。きっと、彼女は和葉のファンなのだろう。
和葉のファンの中には、彼に許可を取らずに勝手に写真を撮る事もあり、彼もそれにやや慣れているきらいがある。着替えているところを無断で取られた時にはさすがに抗議していたけれど、それ以外のものであれば基本的に何も言わないようにしているらしい。
今の写真だって、きっと何も思っていないんだろう。あの方向から撮られたのなら、キスをしていたとはいえ僕の後頭部で和葉の顔は隠れているはずだ。お互いに顔が見えていないのならば、大した問題ではないだろう。
「ねえ、それどうするつもり?」
そう思っていたのだけれど、どうやら僕が思うよりも彼は苛立っているようだった。その不穏な空気を纏ったまま、暗がりの中の相手に向かって近づいていく。ハンドリムへかけた手は、ギリギリと音を立てるほどの強い力でそこを握りしめていた。そして、何かを警戒するように相手を見据えたまま、ゆっくりと前へ進んでいく。
「ちょっと和葉、どうしたの?」
「あの子、もしかしたら……」
そう呟いた和葉は、真っ直ぐに相手へと向かって行く。その緊張した面持ちと、タイヤがリノリウムの床と擦れ合って立てる短い音が、緊張感を嫌というほどに煽っていった。僕は何も分からず、影の中へ入って行く彼をただ見ていることしか出来なかった。
そしてついに彼の姿がその中へ消えると、どういうわけかそこでフラッシュが光った。そして、何かがぶつかるガツンという音が響く。その直後、今度は上靴のラバーが床を踏み締める音が響いた。どうやら相手は、彼の横をすり抜けて僕の方へと向かっているらしい。
「……ともっ! 危ない!」
「えっ? なに、え? え?」
バタバタと大きな足音が近づいてくる。和葉のファンの子が僕の方へと走り寄ってくるなんて、どういうことなんだろうか。状況が理解できなくて狼狽えていると、何かが風を切るヒュンという音が聞こえてきた。
——え? なんの音?
そう思って音の方へと顔を向けた途端、体に大きな衝撃が走った。
「いたっ!」
それは、生まれて初めての経験だった。あまりのことに、一瞬自分の身に何が起きたのかを理解することが出来なかった。なんの防御もせずに受けた打撃は、一瞬で僕の体を廊下の隅の方へと弾き飛ばしていった。
「ともっ!」
倒れた衝撃に対処出来ず呆然としたまま廊下に転がった僕の体に、その狂気は何度も襲いかかって来た。
「お前……絶対許さねーからな!」
彼女がそう喚きながらカバンを振り回しているのだと気がついた時には、それが正面から僕の顔を目掛けて飛んで来た瞬間だった。気がついた時には既に遅く、バコっという鈍い衝突音が響き、目の前に火花のような閃光が走っていた。
その焼けるような痛みと骨を打たれたような重い衝撃に体が恐怖を覚えてしまい、逃げなくてはならないのに勝手にその場で小さく丸まろうとしてしまう。それでもそのままではまずいと思い、腕を使ってどうにか直接のダメージを避けようとした。
ただ、教科書や参考書の詰まったカバンで思い切り殴られた衝撃はかなり大きい。痛みが激しくて、そのうち腕も上がらなくなってしまった。
「役目も果たさずに何してんだよ!」
相手は僕に向かってそう叫び、思い切りお腹を蹴り上げてきた。さも当然のようにそう言われてはいるものの、僕にはそんなことをされるような事をした覚えもない。まさかそんなことをされるとは思いもせず、僕はそれをまともに食らってしまった。
「ぐっ……ぅえ」
今まで人にそんな暴力を働かれたことがない僕には、もはや抵抗する気力すら湧いて来ない。立ち上がるには腕が痛みすぎているし、顔を殴られた拍子に目も回っている。その口が何を言ったのかをはっきりと理解する事も難しい。考えようとしても思考が回らず、ただ痛くて気持ちが悪いという思いだけが頭を占めていた。
「とも! 大丈夫? どこが痛い?」
車椅子を降りた和葉が、動かしにくい足を引きずるようにして近づいて来た。放られた車椅子は廊下の壁ににぶつかり、ガシャンと派手な音を立てて倒れて行く。突然仕事を奪われたキャスターが天を仰ぎ、虚しそうにカラカラと空回りしていた。
「っ……! とも、頭殴られたの? 血が……」
「うっ……」
和葉の問いかけに答えたいのに、声が出せない。お腹の中が全てひっくり返ってしまいそうで、力を入れる事が出来なかった。何度も殴られたからか、痛みに疼きが混じり始めてきて、痛くて気持ちが悪くて情けなくて、涙も止まらなくなっていた。
「ねえ、君さあ……。いきなり殴って来るなんてどういうこと?」
和葉は声を震わせて怒りを露わにしていた。そして、それと同時にこの状況で何も出来ない自分の無力さに打ちのめされてもいた。
歩いたり小走り程度であれば出来るものの、俊敏に動いたり重いものを持つなどの負荷のかかりすぎる事はまだしないようにと言われている。だから、彼は僕を助け起こすことすら出来ない。
それでもこのままではまた相手が僕に危害を加える可能性がある。もし和葉が僕を庇って殴られれば、それはそれで大きな問題になるだろう。
もしもう一度頭を打って気を失ってしまったら……。その時はもう、彼は目を覚ますことは無いかも知れない。どうしてもそう考えてしまうようだ。
大切な人が危機に陥っている時に、自分はその人を庇うことも逃すことも出来ない。今の自分には何も出来無いのだという事実に、彼は打ちひしがれているように見えた。
「だって、そいつが役に立たないから」
彼女はそう言うと、もう一度カバンを振りかぶった。
進学のための勉強ツールが入ったカバンは、まともにあたれば立派な凶器だ。もちろん彼女はそれを分かってやっているだろう。
和葉は危険を承知で自分が盾になることを選んだようで、僕を抱きしめて彼女に背中を向けた。彼女のカバンがその背中を目掛けて振り下ろされる。
「そんなやつ庇わないでよ!」
僕はその言葉とカバンが目に入った瞬間に、生まれて初めて抵抗するために戦うという意思を持った。カチンと音を立ててスイッチが入れられるように、相手を打ち負かしてやるという意思が芽生えていく。
——蹴り落とせ!
僕は和葉を強く引き寄せると、彼を危険から遠ざけるように抱きしめた。そして、成長期の恩恵を受けて伸びた足を、軸を保ったまま思い切り回転させて振り上げていく。
この腕の中の大切な存在に、こんな邪なものを触れさせてはいけない。絶対に蹴り落とすんだと思いながら、鋭い痛みをねじ伏せるために咆哮を上げた。
「おらあ!」
大きな音を立ててカバンに甲が当たる。それを確認すると、そのまま渾身の力を込めて足を振りぬいた。
「きゃー!」
カバンは廊下の突き当たりまで飛んで行き、職員室の前の廊下の窓ガラスを割った。重いカバンが無理にすり抜けていったため、持ち手を握っていた彼女は手を痛めたらしい。
「いったあい! ……てめえ、何してくれてんだよ! ふざけんな!」
どういう思考をしているんだろう。やられたから身を守っただけの僕らに、彼女は激昂して向かって来た。でも、僕はもう反撃する力が残っていない。
——どうしよう、和葉を守らなくちゃ……。
焦ってもただ彼を抱きしめることしか出来ず、吐きそうに痛む胃を抑えながら、どうやって和葉を守ればいいかを考えた。
でも、彼は一日の疲れからもう走ることが出来ない。いたずらに彼女を刺激しても逃げることが出来なければ、そのうちまた襲いかかってくるかも知れない。
「お前のせいで和葉くんがこんなにみっともない姿になってんだろうが! 元に戻るように尽くせよ! 何浮かれてキスなんかしてもらってんだよゴミ!」
醜い言いがかりをつけながら、彼女は僕に拳を振り上げた。身体中が痛んで正直立ち上がるなんて無理な状態だった僕は、それでも和葉だけでも守ろうと思い、彼女に背を向けた。
そこに彼女の拳が当たる。衝撃に一瞬体が揺れた。でも、相手も喧嘩慣れしていないからだろうか、思ったほど痛くは無かった。これなら、このまま耐えることも出来そうだと思って安心した。
でも、痛みに耐えているからなんだろうか、際限なく怒りが湧いてくる。心の奥の方に、ポツポツと音を立てて怒りが噴き出してくるような感覚を覚えていた。僕は、彼女がさっき言ったことがどうしても許せなかった。だんだんと体の痛みさえ分からなくなってしまったほど、腹が立って仕方がなかった。
「……ねえ、和葉のどこがみっともないの? 何も変わってないし、ずっとかっこいいとしか思えないんだけど。そんなことを平気で言えるなんて、どういう神経してるの。好きなんでしょ? 好きな人のことを酷く言うなんておかしいよ」
いくら殴っても僕が怯みもしないことで、彼女は余計に苛立ちを募らせたようだった。握りしめた拳からネイルチップが剥げ落ちるほど、力を込めて握られていた。
「はあ? こんな和葉くんのどこがかっこいいわけ? 彼はね、アイドルなんだよ。うちらの学年のアイドル。いつもにこやかで優しくて美しいの。心も美しいのよ。勉強出来るし、スポーツも万能、ドアを開けて待っててくれるし、落としたものを拾ってくれるし、無くしたものは探してくれるし、奢ってくれるし。見てるだけで幸せになれる存在なのよ」
うっとりとした目で宙を見ている彼女は、目の前に和葉本人がいるのに妄想の中の和葉への想いをつらつらと語っていた。その様子は、まるで画面の向こうの有名人を見ているファンの子たちのようで、目の前にいる生身の同級生を見ようとしていない。
和葉が僕を好きな理由の一つに、僕がこれをしないというところがあると思う。僕はいつも彼を一人の人間として見て来た。だから、昏睡から目が覚めた後にはトイレに連れて行ったりもしたし、ストレスで吐いた時には慰めながらそれを片付けたりすることもして来た。
彼は人間で、良いところも悪いところもあって、強い時もあれば弱い時もある。それが当たり前だと思っているからそう出来たんだと思う。ただ、それがずっと続くとどうなるかは、さすがに僕にも分からない。でも、今は彼を支えたい。その思いだけで動くことが出来るんだ。
でも、彼女はそうではないらしい。アイドルである和葉は、トイレなんか行かないと思っているような口ぶりだった。
「手がかかる和葉くんなんて見たくないのよ。ちゃんと治るまで休ませなさいよね。下僕は主人をちゃんと管理してこそでしょ? 動けないから、かっこいいところが減っちゃって楽しめないのよ。バスケとかサッカーとかでの神プレイも見れないでしょ? そんなの和葉くんじゃないじゃない。見た目よくて中身も良くて、常に余裕が有って自立してる。それが樋野和葉のいいところじゃない。それがさあ、歩けるのに車椅子とか使っちゃって。何なの、同情して欲しいの? そういうの似合わないよ。なんかそういうところがカッコ悪くて腹が立つのよ」
彼女はそう捲し立てると、何か汚いものを見るような目で和葉を見た。自分たちが崇めるために完璧であるものは、何があろうとそうでなければいけないと本気で思っているらしい。
「これは、まだ夢を見てる人たちに目を覚ましてもらうための材料にすんの」
そう言ってスマホを弄り始めた。
僕は呆れて言葉が出てこなかった。
和葉は確かによく人を助けていた。助けると言うよりは、誰彼構わずに甘やかしていたと言った方が正しいのかも知れない。それくらい誰にでも優しかった。
その行為そのものと彼の美貌が皆に好かれていたのは分かっていたけれど、それが無くなったら価値がないものとして見られるようになるんだろうか。そして、それを全部僕のせいにして、自分たちはいい状態の和葉からの恩恵に預かるだけでいいと思っているんだろうか。
そんなの、酷すぎるだろう。
——気持ちが悪い。
本気でそう思ってしまった。
「なんかあんたたち早く潰れて欲しいのに、結構図太そうだからさあ。これ、SNSに載せたからね。明日からきっと居心地悪くて大変だよー? ふふっ、かわいそー。でもさあ、そうしたらいじめのストレスで学校来れませんって言えるでしょ? サボれるよ、良かったね」
そう言いながら、まだ彼女はスマホを弄って何かをしていた。
その数秒後、僕らのスマホが同時に鳴り始めた。
「さて、どうなるんだろうねえ」
そう言って彼女は笑った。
そこから数日間、全く通知が途切れないという悪夢のような事態に追い込まれ、僕らは離れざるを得ない状況へと次第に追い込まれていった。
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