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第3章_変化_第16話_君の好きな3

「なに、これ……」  呆然と画面を眺めていると、突然スマホが震え始めた。僕はそれをギュッと握りしめると、勢いよくそれをスウェットのポケットに突っ込んだ。  今は誰からの連絡であっても受けたくない。例えそれが心配してくれている玲奈であっても嫌だった。 「なんで、あんなに楽しそうなの……?」  思わずそう零してしまった。  和葉は僕が推薦枠から外れてしまったことを気に病んでいると聞いていた。だから、そんな心配しなくていいんだよと言ってあげたくて、母さんにコーディアルを作るための材料を頼んだんだ。  僕らは直接会えないけれど、母さんたちが会うことは誰にも止められていない。僕が作ったコーディアルを母さんから樋野のおばさんに渡すことで、和葉にプレゼントしてもらおうと思っていた。  一時期レモンバームが苦手になっていたけれど、ジャスミンティーにコーディアルを混ぜて飲むと苦手さが消えるようで、最近はそうして出してあげていた。  コーディアルがあれば家でおばさんが淹れてくれるジャスミンティーに追加するだけで飲めるから、僕がいなくても飲む事が出来る。そして、それを飲むことで僕を思い出してくれたらいいなと思っていた。  それなのに、僕が和葉に近づけなくなった原因を作った山井と一緒にいるのは何でだろう。それも、あんなに楽しそうな笑顔で過ごしているのは、どうしてなんだろう。 ——僕は会えなくて寂しいのに……。  そう思うと、一気に悲しみが込み上げて来た。胸が苦しくて、焼けるように痛くて、それを無理に抑えようとすると、体が痙攣するようにしゃくり上げてしまう。  どうして、ここにいないの。  どうして、そこにいるの。  どうして、そいつと笑い合えるの……。  僕はこの一週間、ずっと泣かずに過ごして来た。一度でも泣いてしまったらそのまま寂しさに負けてしまう気がしたから、ずっと堪えるようにしていた。だって、同じ空間に母さんがいる。母さんの前では泣くわけにはいかない。これ以上の心配はかけたく無かった。  僕は料理が得意で、栄養のことを考えるのも彩を考えるのも好きだ。だから、大学で栄養学を学ぼうと思って、栄養学部かそれに準ずる学科のある国公立を受験する事にしていた。  そして、苦手だった理系の科目の勉強を頑張っていったおかげで、評定平均値が上がり、学内での推薦枠を勝ち取った。今はその申請書類の作成期間だ。そこで枠から外されることはあまりない。そんなあり得ないことが息子の身に起きてしまった。本当は抗議したい気持ちもあっただろうと思う。  でも、そうすると結局受験への影響が長引いてしまうだけだろう。だから、僕は学校の言うことを受け入れて欲しいと両親に頼んだ。それを受け入れてくれた今の母さんの心情は、僕には計り知れないものがある。  だから泣かないようにしていた。でも、本当は泣きたかった。大きな声を上げて泣いてしまうことで、抱えようの無い悲しみを全て手放してしまいたかった。  僕に何かがあれば、真っ先に話を聞いて欲しい人は絶対に和葉だ。僕には和葉しかいない。これからもずっとそうだと思っていて、だから約束の指輪を貰えたことがとても嬉しかった。それなのに……。 ——和葉は僕のことを、恋しいと想ってくれないの?  心の中でそう問いかける自分が嫌で、僕は枕に顔を埋めて叫びながら泣いた。 ◇  優しいノックの音が聞こえた。コンコンと軽く握られた拳がドアを打つ。この部屋のドアがノックされるのは母さんが来る時だけだ。父さんが僕の部屋に来ることはまず無いし、和葉はいつも一緒に入る。  母さんが買い物から帰って来たんだろうなと思いながら、重い目を擦った。 「はい」  のっそりと体を起こし、母さんを迎えようとした。目が腫れているだろうから、あまり顔を見られないようにしようと思って顔は伏せたままだ。でも、いくら待っても母さんは入って来ない。いつもなら返事を待たずに入って来る事もあるのに、どうしたんだろう。 「母さん? どうしたの?」  不思議に思ってドアの前まで行ってみると、何かをコソコソと話しているような声が聞こえた。もしかしたら、母さんが誰かを連れて来たのかもしれない。母さんが連れてくるとしたら樋野のおばさんかなと思いながら、気を抜いていた。  すると、なぜか母さんの声が部屋の前から遠ざかっていく。でも、ドアの前には誰かがいて、レジ袋がカサカサと音を立てていた。その人はここに入るかどうかを躊躇っているようだ。  気配はするのに入ろうとしない。そんなことをされると、少し構えてしまう。どうしたらいいんだろうかと思ったけれど、このままでは埒が開かないので、僕はドアを開けてその人を迎え入れる事にした。 「誰ですか?」  まだ悲しい気持ちを引きずったままなのに気を使わされたことで、僕は多少苛立っていた。いつもより少しだけドアの扱いが乱暴になってしまう。強めに掴んだハンドルは、ガチャリと派手に音を立てた。そして、それを勢いよく開くと、目の前には日に焼けて太陽の香りのする、分厚い胸板が迫っていた。 「うおっ!」  まさかドアが開かれるとは思っていなかったようで、相手は数歩後ずさっていく。下がったことで顔がしっかり見えた。そこにいたのは、制服と黒縁メガネ姿の薫だった。 「えっ、薫? どうしたの? 学校は?」 「え、いやもう終わったぞ? 今夕方だからな」  そう言われて部屋の窓の外を見てみると、確かに西の方がオレンジ色に染まっていた。僕は驚いてしまった。一体何時間眠っていたんだろう。 「で、入ってもいいか? ちょっと話したいことがあるんだ」 「あ、うん。どうぞ」  現実逃避をするにしても眠りすぎだろうと思って自分に呆れながら、僕は薫を部屋の中へと招き入れた。先に入ってもらった後に、彼が自分より背が高くなったことを思い出す。大きくてがっしりとした彼がここにいることに、少しむず痒い思いがした。 「うおー、すっげえ久しぶりに来た。なんか小さくなったみたいな気がする」 「いやいや、それは薫が大きくなったからでしょ」  キョロキョロと部屋中を見渡しながら懐かしそうにしている姿を見ていると、昔の無邪気だった頃を思い出して、胸の支えが溶けて無くなるような気がした。和葉とのことで萎れていた気持ちも、薫がそこにいるだけでハリを取り戻すような気がする。他の人には無い幼馴染ならではの安心感が、僕に光を与えてくれるようだった。 「朋樹、これ下でおばさんから預かった。お前ずっと寝てたらしいな。おばさんが帰って来て声かけても起きなかったらしいぞ」  そう言って手渡してくれた紙袋の中には、僕が母さんに頼んでいたレモンバームと一緒に、コーディアルを作るためのきび砂糖とキレイな保存瓶が入っていた。  きび砂糖は近くのスーパーでも買える。でも、母さんはわざわざオーガニックストアで購入して来てくれていた。それは作るコーディアルが特別なものになるようにとの気遣いだろう。僕がこれを誰に渡そうとしているのかを分かってくれているのだろう。 「和葉にあげんの?」  薫がそう尋ねてくる。その目が、心なしか憂いに満ちているような気がした。 「うん。あ、いやそのつもりだったんだけど……。和葉はもう要らないって思ってるかもね」  僕はそう言いながら、レモンバームの葉が入った袋を徐に開けた。そして、そこから一枚だけ葉をちぎる。それを指で潰すと、ふわりと爽やかな香りが漂った。 「へえ、こんな葉っぱなのに、本当にレモンみたいな匂いがするんだな。和葉はこれが好きなんだよな?」  珍しいものを見るように、薫はレモンバームを繁々と眺めていた。一般的な高校生男子には、フレッシュハーブはあまり馴染みのないものだろう。ハーブの話をするときに、薫はそれを草とか葉っぱと呼んでいる。その雑な感じが薫らしくて面白い。 「うん、そうだよ。一度僕がリップクリームを作ってあげたことがあるんだけど、それからずっとこの香りを気に入っててね。あ、煮出してこの砂糖と混ぜて煮詰めるとコーディアルっていうシロップになるんだ。それを炭酸で割って氷を入れて飲むのも好きみたい」 「最初がリップクリーム? いや、俺があいつから聞いてる話と違うと思うぞ。確かお前が今言ったやつ……。その葉っぱの入った水を飲んでて、それをあいつがちょっと貰った事があっただろ? 確か小学校入るくらいの頃じゃないか? お前が美味しそうに飲んでたから飲ませてもらったら味がしなくて不味かったって言ってた」 「えっ、そうだっけ? あー、あ、でも言われてみれば確かにそんなことがあったかもしれない……。あ、それで炭酸水と氷入れてあげたら美味しいって言ったんだ。え、でも香りは好きってことであってるんだよね?」 「ああ、それはそうらしい。その時レモンみたいないい匂いの草があるって覚えたらしいぞ。好きな子が教えてくれた美味しいジュースだったから、その匂いを好きになったってのが正解だけどな」 「えっ? あ、えー、そうなんだ。それ、薫は和葉から聞いたの?」 「そう、その時聞いた。で、それをあいつがもう要らないって思う理由は何?」 「あ、えっと……」  薫は少し怖い顔をして僕ににじり寄ってきた。僕は少し申し訳ない思いに駆られていく。 「もしかして、お前また自分はあいつに愛されてないんじゃないかとか思ってるのか?」 「っ……、あ、えっと……」 「はー、まじか。本当にお前ら肝心なところで通じ合ってねえな」  薫はそう言って短いながらもセットしてある髪も構わず、ガシガシと頭を掻いた。何度も自信をなくす僕に呆れたようだ。小さく息を吐いて何かを考え込むように目を閉じている。  僕は恥ずかしくなった。ついこの前も薫に励ましてもらったばかりなのに、また簡単に和葉の気持ちを疑ってしまっている。自分の気持ちがブレることは無いのに、彼の気持ちはブレても仕方がないと思ってしまうのはなぜなんだろう。 「あー、おい。また泣いてんな」  そう言われて頬に触れてみると、また涙が溢れていた。そして、やっぱり一度流れ始めると止まらない。  和葉のことが絡むと、僕はどうしても悲観的になりがちだし、すぐに自信をなくしてしまう。それに意味がないことは分かっているのに、馬鹿みたいにそれを何度も繰り返してしまう。  何も言えなくなってしまって、ただ唇を噛んで嗚咽を漏らすことだけは避けようとした。いくら相手が薫だからって、そう何度も情けない姿を見られたくはない。 「あいつ、なんか変なやつに絡まれてるだろ?」    泣いている僕に困った顔をしながら、薫は少しだけ冷えた声でそう言った。と言った時の顔は、ひどく歪んでいた。相手がどんな人なのかをよく知っているような口ぶりだった。 「薫、もしかして山井の事知ってるの?」 「知ってる。だって、あいつうちの学校にいたからな。うちにいた時からいじめられてたんだけど、そっちでもいじめられてるんだろ? まあ仕方ないだろうな。あいつ相当歪んでるから。俺もたまにイラついてたんだけど、あいつの考えることって基本的に卑怯者の発想なんだよ。で、今は人気者の恋人っていうポジションに収まって優越感に浸りたいから和葉を利用してるんだってさ」  薫はそう言うと、自分のスマホを取り出して僕にメッセージを見せてくれた。そこには、薫の学校の友人たちが作ったグループチャットがあった。    山井は薫たちの学校でいじめられていた。でも、興味本位で女装させられた時にそのリーダー格の生徒に気に入られ、彼女のような扱いを受けていたらしい。本人もそれを対して嫌がらず、その間は平和に過ごしていたそうだ。 「でも、二人とも考えなしだからさ。簡単に見つかるような場所でヤってたわけよ。で、リーダー格の方もいじめられるようになったわけ。ネタじゃなくて本気のゲイかよって」  そうなると二人とも学校にいられない状態になり、それぞれ別の学校へと転校したという。 「別れたんだから、元の自分に戻って生活すればいいはずだろ? でも、山井には変な性癖が残った。それが、あの完璧なまでの女装と、ドルヲタっつうの? で、それがいつの間にか対象が和葉になってたみたいだな。あいつのことをアイドルみたいに崇めてて、そのことがうちの学校の奴らにバレてまた揶揄われてたみたい」  そうして見せられた文面は、いつまで経ってもどこに行っても山井は常に気持ち悪いという内容のやり取りだった。それがいつの間にか恐喝めいた内容へと変わっていて、彼はその立場から逃れようと必死になっているみたいだった。 「もしかして和葉、同情してそのまま絆されちゃったのかな……」  優しい和葉のことだから、もしかしたらそういうこともあり得ると思ってしまった。まだ何も確定していないのに、また胸が痛くなってしまう。どうして僕はこうも学ばないんだろうか。和葉本人に聞いてしまうまでは、全てがただの可能性なんだ。確定させたければ、本人に訊くしかない。それなのに……どうしてもそれが出来ない。 「いや、そんなわけねえだろ。あいつにはお前がいるんだから」 「でも、僕もう分からないんだよ。だって、僕は山井のせいで推薦が無くなって、謹慎させられてて、和葉に会えなくて寂しくて……。なのに、和葉は山井と楽しそうに笑ってるんだ。どうしてそうなるのか、全然分からないよ。ねえ、薫。なんでなの?」  答えが欲しかった。  僕は何も悪くないし、和葉は僕を好きだとはっきり答えて欲しかった。でも、彼はここにいないし、僕らは会うことさえ許されていない。それなら、僕は謹慎が解けるまでただこうやって苦しむしかない。  流れる涙も気にならないくらい、色んなことがどうでも良くなりつつあった。もう、信じて待つのも辛い。 「泣くなよ、朋樹」  薫は僕の頬の涙を手で拭った。手で頬を包み込んで、指でそっと拭ってくれる。切なそうに眉根を寄せて、葛藤する様子を見せていた。 「なあ、泣くなよ。お前が泣くと、俺堪らなくなるんだ」  僕だって泣き止みたい。そう思っても、堰き止めていたものは溢れて止まることを知らなかった。どうしようもなくて、思わず「もう嫌だ」と零してしまった。  その直後、僕は薫に引き寄せられてしまった。息もできないほどに強い力で、その腕の中に閉じ込められていく。 「…薫?」  その腕の中は、太陽の匂いがした。固くなった僕の心を溶かしてしまいそうなほどに、優しくて温かい。 「……好きだ」  吐き出す息に混じって、絞り出すような声が聞こえた。 「お前のことが、好きなんだ」

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