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第4章_誰よりも_第17話_なんでもするよ

 薫の手は震えていた。  いや、手だけじゃない。身体中の全てが震えているようだった。  その小さな波から、その言葉が嘘や冗談などではなく本物なのだということが分かる。 「朋樹、好きだ」  そう言って思いを何度も告げるものの、その声の中には希望は少しも含まれてなくて、上手に諦めようとしている意思だけが覗いていた。  その声を僕は一度聞いたことがある。それは、小学校を卒業した日の夕方のことだった。 ——お前たちとずっと一緒にいたい。  突然そう言い出した薫に、僕と和葉は驚いてしまった。その頃の僕たちは、薫も同じ中学校に行くのだとなんの疑問も持たずに思い込んでいた。  だから、いつもの薫らしくないその言葉も、卒業式という独特の雰囲気に感化されているだけなのかなと思い、あまり気にしていなかった。  薫が震えていたと気がついたのは、その夜のことだった。  母さんから、薫はその夜のうちに引っ越すのだと聞かされて、あの言葉を発した時の彼の様子を思い返した。そこでやっと気がついた。あれは離れたく無いと素直に言えない薫の、精一杯の我儘だったのだと。  そんな風にいつも自分の気持ちを押し殺して、周りの人との関係を考えた上で最善を選ぶ。それが薫だ。  だから、彼が直接的な言葉で想いを告げるときは余程のものだと分かる。  その薫が、真っ直ぐに僕を好きだと言っている。  彼にとっては余程の覚悟が必要な事だろう。この言葉を口にするまでに、どれほど葛藤したのだろうか。そう思うと胸が痛んだ。 「薫」  困惑しながらもここから出なくてはならないと思い、その腕を解こうとする。すると、薫は腕の力を一層強めていった。そうして僕を閉じ込めながらも、苦しくならないようにと思い遣ってくれている。その想いが、肌に染み込むように伝わっていた。  そして、その愛情に溢れた抱擁が、僕の罪悪感を煽っていく。 「嫌だ。俺の前で泣いたお前が悪い」  薫はそう言うと、さらに囲いを狭める。それはまるで甘い柵のようだ。  僕を苦しめる和葉という危険から遠ざけ、安全な場所へ止めようとして必死になっている。それだけで、彼の想の深さがどれほどのものなのかが分かる。  でも、僕にはその優しさは辛い。薫が僕をそういう風に見るのなら、僕はもう彼に甘えることも出来ない。だって、結局僕は和葉が好きなんだ。だから相手がたとえ薫であっても、彼が僕に好意を寄せているのなら、もう甘えることは出来ない。 「薫。ねえ、離して」 「……嫌だ」  拗ねた子供のような声を出して、薫は不意に顔を逸らした。その可愛らしさに、僕は思わず笑ってしまう。  彼は和葉とほぼ身長が同じで、僕とは五センチくらいしか違わない。正面から抱きしめられたままだ触れ合っている頬は、顔を背けられても僅かに触れ合ったままになる。そこはほんのりと温かい。薫の人柄のように、じんわりと僕を温めてくれていた。 「だって、あいつお前のこと泣かせすぎなんだよ。俺はこんなに悲しませたりしない。一人で泣かせたりしない。近くにいられるなら、絶対離れない」  そう言いながら、もう一度強く力を込めた。昔の彼とはまるで違うその逞しい腕で僕を抱き竦めながら、まるで宝物を扱うようにしてそっと髪を撫でる。その扱いが明らかに性愛に満ちたものであることに、僕はただ戸惑う事しか出来ない。 「……ごめん、どうしても今は離したくない。でも、分かってるからな。お前には俺じゃダメなことくらい、ちゃんと分かってる。お前のことをずっと気に掛けてたんだから、それくらい分かってるよ」  そう言いながら、薫は僕の頭を抱えるようにしてため息をついた。  こんな風に薫に触れられたことなど無かった。すごく大切に、本当に大切そうに扱ってくれる。でも、それは僕の心の中に嬉しさを呼び起こすことはなく、ただ戸惑いを強くするだけだった。  薫は僕にとって大切な友人で、これからもそうであって欲しいと思ってる。三人で一緒に過ごした時間は、何にも変え難い思い出だ。  ずっと一緒にいたい思いはあるけれど、それは和葉に抱くあの気持ちとは違う。 「俺は和葉を好きであいつのために一生懸命になってるお前が好きなんだ。一緒にいた時からそうだった。離れてからはそれがもっと強くなった気がする。だから会わないようにしてたんだ。顔を見たら好きだって言ってしまいそうだったし、お前たちの仲が深まるのを見ながら傷つくのも嫌だった。でも縁を切りたくは無かったんだ」  そう言われて、ふと思い当たることがあった。ずっと疑問に思っていたことを、訊ねてみる。 「もしかして、だから連絡は電話だけだったの? 何度かビデオチャットしようって言ったけど、嫌だって断ったよね。和葉とはしてたのに、僕とは絶対嫌だって言われてた」  驚く僕の問いに、薫は静かに頷いた。ふと見ると、耳がほんのり赤く染まっている。 「引っ越したからって、年末年始くらいなら会おうと思えば会えたんだ。ただ、中学の時はまだ俺がお前にあって平気でいられる自信がなくて、高校に入ってすぐお前たちが付き合い始めたって聞いてからは、その、恋人って言ったらやることやるだろうからなあと思って……。顔を合わせたら、和葉を殴ってしまいそうな気がして、さ」 「ええっ? そ、んな……。でも、そうか、そうかもね。僕だって、今和葉が山井と何かしてるかもと思ったら、顔合わせたく無いもん。僕だって山井を殴っちゃうかもしれない」  薫はそれを聞くと、ふっと楽しそうに息を吐いた。その笑顔は、僕らの間の空気にあった緊張を少しずつ溶かしてくれる。 「ごめんな、心が狭くて」  彼は僕に頬を擦り寄せながら、そう言って微笑んだ。そして、名残を惜しむようにもう一度きゅっと僕を抱きしめると、ゆっくりとお互いの距離を開けて行く。 「なあ、朋樹。お前は和葉が好きで、和葉はお前が好きだ。お前をずっと好きで、誰よりもお前を焦がれてた俺がそう言うんだ。間違いないと思っていい。好きな人を観察する目がどういうものかはお前も知ってるだろう?」  そうして離れた後に見せた笑顔は、自分の気持ちに整理をつけようとして必死になっている悲しいものだった。  僕はこんなに寂しい笑顔を見たことがない。見ているだけで悲しくなり、胸が潰れそうになる。僕が薫にそんな顔をさせているのだと思うと、たまらない気持ちになってしまった。 「薫、そんな顔しないでよ」  悲しくて、胸が痛い。スウェットの胸元に大きな皺がよるほど強く掴み、それを逃そうとした。 「ごめんね。僕は薫に助けられてたのに、僕はそれをしてやれないんでしょ?」  そう訊くと、彼は何度か頷いた。大事な人が悲しんでいるのにどうすることも出来ない自分に虚しくなっていると、 「お前が俺の前で泣くと、俺も似たような気持ちになってるよ。泣き止ませてやることができないのは、本当に辛い」  そう言って涙を流した。 「そっか、そうなんだ。ずっとこんな気持ちだったんだ、薫」  好きだと思っている人から別の人との恋愛話を聞かされ、目の前で泣かれて無力感に苛まれていた薫のことを思うと、自分の悩みがくだらないもののように思えてきた。 「この気持ちをずっと我慢してくれてたんだね。ごめんね」 『お前が泣くと堪らないんだよ』  その言葉の重みが、今なら痛いほどに分かる。それに、だんだん恥ずかしくなってしまった。僕はこれまで、薫にどれほど酷いことをしてきたんだろう。そう思うと居た堪れなかった。  そうやって塞いでしまったからだろうか、薫が申し訳なさそうに僕の様子を伺っている。そして、頭をガシガシと掻きながら、 「ごめん、今は俺のことはいいよ。ちょっとお前の涙を見てたら我慢できなくなっただけだから。この話はこれで終わりにしよう」  そう言うと、両掌が綺麗に合わさるように手を打ち、パンっと綺麗な柏手を打った。  その明朗な音はその場の空気を一瞬で変える。薫は晴れやかな顔で僕を見ていた。 「俺はお前を泣かせたくない。そのためには俺が恋人になってお前を甘やかしてやりたい。だけどそれが出来ないなら、せめて友人として出来る事を探したいと思ってる。なあ、お前たち、こうなってからちゃんと話し合ってないだろう? お前、謹慎になってから一度も和葉に連絡してないらしいな」 「うん。だって、僕たち連絡を取り合っちゃダメだって言われてるんだ」 「そうだよな。直接の連絡を禁止されてるんなら、俺のスマホを使えばいいんじゃないか? そうすればどっちのスマホにも連絡を取り合った履歴は残らないだろう?」  薫はそういうと、ポケットから自分のスマホを取り出した。そして、和葉の連絡先を表示させると、それを僕の目の前に突きつける。 「ほら、いつまでも逃げてないでちゃんと話せ。どうして山井と一緒にいるのか、なんでお前を追い詰めた相手と一緒にいてそんなに楽しそうにしてられるのかって、全部訊いてみろよ」  そう言うと、野球に夢中だった頃のように、勝負師の顔をしてニヤリと笑った。

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