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エピローグ

◇  その日の夜、山井が学校へ連絡を入れてくれた。そのおかげで、僕が山井のカバンを蹴り飛ばし、廊下の窓ガラスが割れたのは、彼が先に僕へ攻撃をしてきたことへの防衛反応によるものであって、処罰の対象にはならないという判断になった。 『来週から、いつも通り登校してもらって構わないという最終決定になった。それと、学校側が軽率に山井の意見だけを信じてしまった事に対して、お詫びをさせてもらいたいと思っている。その事を親御さんに伝えておいてもらえないか。明日にはこちらから正式に連絡させてもらうから』  担任の丸山先生からそう言われ、僕は母さんにそれを伝えた。母さんは僕を抱きしめると、まるで小さい子供の相手をするように、そのままぶんぶんと体を振り回す。 「ちょ、ちょっと。目が回っちゃうよ……」 「だって嬉しいじゃない! 良かったわね、全部いい方に解決しそうなんでしょ? 朋樹が喚いたり反抗したりしなかったから、学校もあなたの無実を信用してくれたんだと思うわ。偉かったわね。良かったわね」  そして、骨が砕けそうなほどの力で抱きしめられた。 「う、苦しい……。分かった、分かったから。心配してくれてありがとう、母さん」  肺が潰されそうになりながら、なんとかその言葉だけは伝えることが出来た。  そして、僕は無事に学校へ戻ることが出来た。そのまま推薦入試の話も元に戻してもらえて、すぐに受験対策に入った。  進学校であるにも関わらず、三年の秋にある修学旅行では、和葉だけでなく、玲奈や翔也、そして山井とも楽しく過ごすことが出来た。  その旅行中に玲奈と翔也が付き合い始めたことを聞かされた。みんなで祝福していると、翔也は少しだけバツが悪そうな顔をした。それが気になって後から聞いてみると、 「あのさ、朋樹。実は俺、ずっと和葉のことが好きだったんだ。それで山井と和葉の話をしてるうちに仲良くなって……」  という爆弾発言をされてしまった。 「えっ、そうだったの? ……ごめん、全然気づかなかった。もしかして、僕が気が付かないように気を遣ってくれてた? 翔也そういうところあるでしょ?」  僕がそう言うと、彼は優しい笑顔を見せてくれた。その笑顔を見ていると、胸がチクリと痛んだ。  翔也は和葉のことを好きだろうとは思っていたけれど、それは友情というか憧れの対象としてのものだろうと思っていた。山井と仲良くしていたことも手伝って、そう信じて疑わなかった。  恋愛的な意味での好きだとは気が付かなかった僕は、そこで初めて気になったことがある。それは、玲奈の気持ちのことだ。翔也曰く、彼女は和葉を好きだと言っている二人の話を、ずっと一人で聞いてあげていたらしい。翔也の話を聞いていた時の玲奈の気持ちをを思うと、胸が痛んだ。  それでも、今は二人で幸せに過ごしているんだろう。とても楽しそうに笑っている彼女を見て、僕はほっと胸を撫で下ろした。 「じゃあもしかして、玲奈に相談してるうちに彼女の事を好きになって行った感じ?」 「おお、まあね。そういう事よ」  そう言って照れて笑う顔は、幸せの空気に満ちていた。  修学旅行が終わると、すぐに入試にための面談練習や筆記の対策期間に入り、しばらくは和葉とも顔を合わせることなく過ごした。毎日将来の夢のために必死になって勉強した。  そうしているうちに日々はあっという間に過ぎ去って行き、気がつくと吐く息は白くなり、空は低くなっていて、季節はまごう事なき真冬を迎えていた。 「どうだった?」  試験を無事に終えてから発表の日まで、何をしていたのかよく覚えていない。発表当日、職員室で知らされた結果に、僕の感情は爆発寸前だった。慌てて教室へ戻り、みんなから結果を尋ねられた僕は、思わず和葉に抱きついた。そして、 「受かったよ! みんなありがとう!」  と体がのけぞるほどの大きな声で叫んだ。  普段の僕なら、絶対にそんなことはしない。みんなはまだ試験前で、一番ピリピリしているはずだ。それなのに、気を使うこともせず、思わず大きな声を出してしまった。  それでも、謹慎していた僕を心配してくれていたからか、クラス中からおめでとうという祝福の言葉をかけてもらえた。優しいクラスメイトたちに、思わずまた感情をぶつけてしまう。 「あり、ありがと、ありがとう……!」  嬉しくて、思わず涙が滲む。和葉との約束を果たすための一歩を踏み出せた事は、僕に取って大きな喜びだった。  その日は、二人で手を繋いで帰った。浮かれている僕に、和葉から 「ちょっとうちに寄って行かない?」  と唐突なお誘いを受けた。突然のことで、僕は思わず身構えてしまう。だって、和葉はまだ受験が終わっていないのだ。とても大切な時期のはずなのにどうしたんだろうと思うと、一抹の不安が過った。  でも、少し前の時みたいに、もう逃げたりはしない。何か問題が起きたとしても、常に最善を尽くすんだと決めているんだ。逃げて後悔するのももう飽きた。僕ははっきりと頷くと、そのまま和葉の家にお邪魔する事にした。  おばさんと軽く挨拶を交わし、二階へ。合格した事をおばさんにも報告したいと言ったところ、和葉はそれに答えず、僕の腕を掴んで走り始めた。 「和葉? どうしたの、ちょっと報告するだけなのに……」 「ごめん、それは後にしてもらってもいい? どうしても先に話しておきたいことがあるんだ」  息を切らしながらそう言う彼に気圧されながら、僕は仕方なく彼の部屋へと入った。すると、和葉はドアを閉めると同時にスマホを取り出した。そして、何か見せたいものがあるようで、カメラロールを忙しなく辿っていく。  しばらくして一つの写真を選ぶと、満足げに何度か頷き、それを表示させて僕の目の前に突き出した。 「これ、これをどうしても見せたくて」 「え、何? ……スクショ? えっと、合格通知。二十七番、樋野和葉……えっ?」  それは、僕が受けたのと同じ大学の推薦入試の結果を報告するサイトのスクリーンショットだった。僕はその文字列の意味が理解できず、何度も読み返しては首を捻った。これは一体どういうことなんだろうか。  この理解できない行動に中に一つだけ分かる事があるとしたら、その合格通知画面は、僕が午前中に学校で見たものと同じデザインのものだと言うことくらいだろう。  そして、はっきりと分かる違いがあるとすれば、それが和葉のものであるということと、学部だ。そこには、経済学部経営学科という文字がある。それは、和葉が事故に遭う前に希望していた推薦枠と同じところだった。 「ねえ、これどういうこと? 和葉も推薦を受けて、合格したっていうこと? でも、君は推薦枠を別の生徒に取られたんじゃなかった?」  僕は確かに、丸山先生からそう聞いていた。だから、もし僕が推薦で栄養学科に合格したとしても、和葉の一般入試が終わるまでは気が抜けないと思っていた。それがどうしてこんな事になっているんだろう。  そう考えながらも、色んな感情が沸騰しそうになっていた。思わず彼のブレザーの襟を掴み、引き寄せる。近づいた美麗な顔一面に、柔らかな笑みが浮かんでいた。 「そう、取られてた。でも、行けるんだよ。同じところ、同じ大学に」  そう言って、和葉は鼻を啜る。嬉しい報告ではあるものの、感情が昂りすぎて泣けてしまうらしい。 「『経済学部の推薦が決まってた生徒が、志望校を変えたいと言ってるから、お前どうだ?』って丸山先生に声をかけられたんだ。僕は面接が苦手で、対策をする時間もあんまりなくて、合格出来るかどうか自信がなかったから、みんなには朋樹に内緒にしてって頼んでたんだ。また怒られちゃうかもしれないとは思ったんだけど、変に期待させて落ち込ませるのも嫌だったし……」 「志望校の変更? 推薦決まってたのに? 誰が?」 「それが誰なのかは教えてもらえなかったんだけど、僕は有り難くその枠を貰う事にしたんだ。それで、こうして合格することが出来たよ。どうしてもそれを早く伝えたくて。また一緒にいられるよって、言いたくて……」  和葉はそう言って、スマホを僕の目の前で振った。合格の文字と彼の名前が、目の前でぐるぐると回る。催眠にかけられたような気持ちになりながら、ふと思った。嬉しい、すごく嬉しい。でも、これが夢だったらどうしよう、そんな思いに駆られそうになっていた。 「……夢じゃないよね? 大学も一緒なんだね?」  それに、頷く和葉の目が赤く染まっていく。嬉しいと言葉にすることも出来ない位に喜んでいるのだろう。僕は、その姿を見られたことがまた嬉しかった。 「良かった、また一緒にいられるの嬉しい。嬉しいよ、和葉!」  僕は思わず彼の首にしがみついた。胸元のリングがチェーンと擦れ合い、チャリンと音が鳴る。厚着した制服の中にあるのに大きく聞こえたその音に、僕らにとってのこの指輪の存在の大きさを感じた。  でも、すぐにその気持ちは萎んでしまう。幸せな気持ちに満たされながらふと和葉を見ると、彼は笑顔では無かったのだ。それどころか多少嫌そうな顔をしている。 「……ちょっと、なんで今そんな顔をするの。嬉しい報告として知らせたかったんじゃないの? すごく嫌そうな顔をしてるんだけど、なんで?」  もう猫は被らないと決めた僕は、和葉にまっすぐ不満をぶつける事にしている。でも、雰囲気を壊したり威嚇したりしたいわけじゃないから、出来るだけ拗ねている事が伝わるようにと、可愛げのある声を出せるように頑張った。  すると、和葉は大慌てで両手をぶんぶんと振った。そんな風に思わせたかったわけではないのだろう。慌てて話の軌道を修正しようとする。 「あ、ごめん! 僕も嬉しいよ、嬉しいに決まってる! ただ、今ちょっと緊張してるだけだから……。あのね、朋樹に渡したいものがあるんだ。それを受け取って欲しくて……」  そう言うと、彼は大慌てで立ち上がり、机の引き出しを開けた。なんだろうと後ろから覗き見ていると、徐にペパーミントグリーンとモスグリーンの二つの革製品を持って戻って来た。そのうちの一つ、目が覚めるようなペパーミントグリーンの方を、僕へと差し出す。 「一緒の大学に行けるのは嬉しいんだ。でもね、学部が違うから、きっと今みたいには会えなくなると思うんだ。だからこれを受け取って欲しいんだ。僕らが離れなくてすむように」  そう言って緊張した面持ちの彼が僕の掌に収めたのは、革のキーケースだった。そこには、鍵が一つ付けられている。その鍵は、まるで絵本の中によく出てくる宝箱の鍵のような形をしていた。丸い持ち手に、ギザギザの櫛のような形の鍵。それは、僕らにとって、とても思い入れのある場所のものだ。 「朋樹、これが何か覚えてる?」 「うん、覚えてるよ」  それは、和葉の母方のおじいさんのお家の鍵だった。小さな頃からずっと一緒だった僕らは、時折母親同士が遊びに出かける際にそこに預けられていた。滅多に行かないところではあったけれど、優しいお爺さんと温もりのある木の家は、僕らの大好きな場所だった。  おじいさんが亡くなった時に、家は壊される事に決まっていたはずだ。それなのに、ここに鍵がある。 「これ、おじいさんの家の鍵でしょ?」 「うん、そう。あの家ね、リフォームしてシェアハウスとして使う事になったんだ。だから母さんにお願いして、その二階を二人で使わせてもらおうと思って。だから……」  そう言うと、和葉は僕の目を見つめたまま言葉を止めた。僕も、僕を真摯に捉えて離さないその眼差しの先にあるものを期待して、少しも目を逸らすまいとした。  彼は今、僕に何か大切なことを告げようとしている。目を見る限り、それはいい事だと信じて大丈夫なはずだ。その口から聞けるであろう愛の言葉を早く聞かせてほしい。そう気が早った。 「僕たち、ずっと二人で生きて行こうって約束したよね? 僕が少し日和って逃げそうになったけど、朋樹は諦めずにやっていく道を探してくれた。それがすごく嬉しかったんだよ。これからもそばで支えていて欲しいんだ。だから……」  そこまでの言葉だけで、僕の頬には既に涙が溢れていた。和葉はそんな僕を見てふっと短く息を吐き、その涙を拭ってくれる。 「あの家で、僕と暮らしてくれませんか? 出来ればずっとがいいんだけど」  そう言いながら、キスを降らせて来る。僕の答えを聞きたいのか聞きたくないのか、答える隙もないくらいに何度も抱き竦めたり、口付けたりしていた。 「いつか二人でレストランをしようって言ってたでしょ? お店を出すとしても、それは結構先の話になるよね。今までずっと一緒だったのに、その時まで離れてるなんて嫌なんだ。ほら、僕すぐ弱気になるし、そうなるとい良くない考えばっかり浮かんじゃうから……」  これまでの和葉では考えられないような言葉に、僕は驚いた。そして、そうなってでも僕と離れたくないと思ってくれたのだと言う事に、胸が震える。変わっていくことを恐れていた彼が、それをしてでも僕を求めてくれているのだ。こんなに嬉しいことはない、そう思った。 「……僕に頼ってくれるの?」 「うん。あんなに拒んでたのに、今なら出来ると思うんだ。やっと分かったんだよ。僕が朋樹だけに求める事。どこで朋樹を認識してるかっていうこと。それ以外はどうでも良かったんだ」 「見た目とか守ってあげたくなる弱さとかじゃないの? まあ、もう僕そういう人じゃないってバレてるだろうけど……」  そう尋ねた僕に、和葉はふわりと笑った。その笑顔と共に、ジャスミンとレモンバームの香りが立ち上がる。彼の体温が上がっているのだろう。愛しいと思って、高揚してくれているのだろう。そう思ってしまうと、僕も自分のお腹の奥が、じわりと熱を孕んでいくのを感じた。 「こうして抱きしめた感じも、声も、心も、きっといつかは全部変わっていくと思う。でも、僕はそれをずっと隣で眺めてたい。同じように変わっていきたい。僕が欲しいのは、朋樹と過ごす時間だった。事故の後、朋樹だけが成長して僕は衰えてしまった。だからそれを奪われたような気がして悲しかったんだ。でも、それならどうしたらいいのかを君が教えてくれたよね。だから、僕たちいくらでも関係性を更新していけるんだと思うんだ。だから、お願い。これからの君の時間も、僕にくれませんか?」  そう言って彼は真っ赤に顔を染めた。随分頑張って考えてくれたんだろう。その気持ちが、とても嬉しい。  僕はそんな和葉が愛おしくてたまらなくなり、もう一度思い切り飛びついた。そして、記憶の中よりも少し痩せたその体を、思い切り抱きしめる。すると、彼は僕の力の強さに困って笑い始めた。 「そういうところも、大好きだよ」 「僕はずっとそのつもりだったよ。和葉もまたそう思ってくれるの? こんなに力持ちだし、可愛くないし、思ってる人と違ったのに、まだそう思ってくれるの?」  震える声を絞り出すようにそう問いかけると、和葉は僕を上から優しく包み込んだ。そして、これまで一度も聞いたことのないような、丸くて優しい響きの声でこう伝えてくれた。 「うん、こうして君を抱きしめてる時に、気が付いたんだ。僕、君とこうしてる時にだけ欠けてたものが満ちていく感じがするんだよ。すごく安心するんだ。他の人では絶対にこうはならないんだよ。朋樹だけなんだ。僕にとってはそれが人生で一番大事なことだった。だから、朋樹。ずっと一緒にいてね」  そう言って柔らかな笑みを浮かべる。僕がその問いに返す言葉は決まっている。それは彼だけに聞かせたい言葉だ。涙でなかなか送り出せない声を必死に絞り出し、彼の胸の奥の方へとその言葉を送り込んだ。(了)

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