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第2話

「今日の現場って確か地下、でしたよね」 現場の仕事も嫌いではない庭井だったが、この日は表情が曇った。一見すると職場ではスマートで仕事の出来る男だが、狭い所と暗い所が大の苦手という弱点があるのだ。そのため、地下で作業工程をチェックする仕事などはいつも外してもらうか、違う人物に行ってもらっていた。 今回も実は遠慮するつもりでいたのだが、まだ庭井の弱点を知らない源が「今回の仕事は大掛かりな仕事だから、是非庭井に」と言ったものだから、それならば!と2つ返事で引き受けてしまったのである。 気の重さに思わず「はあ」と溜息を洩らせば、女性職員から「溜息をついてる庭井さんも絵になる」と密やかに噂になっていることを彼は知らない。 「今日の視察、頼むな」 「はい、勿論です!」 しかし、そんな思い気持ちも源から声を掛けられると笑顔で答えてしまう庭井。不幸中の幸いで地下とは言え、そこそこ広い空間のようなので源にはみっともない所を見せずに済むかもしれない。と淡い期待も持っていた。 ホワイトボードに2人で「直帰」と記載して現場へと向かう途中、電車の中で源の電話が鳴った。慌てて出た源は、周りを気にして口元に手を当てて何やら話し込んでいる。どうやら娘の通う学校からのようだ。 「…大丈夫ですか?」 「ああ。大した事じゃないよ。今度家庭訪問があってな」 「今年から小学校でしたよね」 「もっとついててやりたいんだが、なかなかなあ…」 1年生になったばかりの娘を案じる源がいつも残業に追われているのを庭井は知っている。極力手伝うようにしているが、現実はそううまくいかない。 「今日は終わったらすぐ帰ってあげたらどうですか」 そう提案するのだが「そうはいかないだろ」と言われてしまうのもいつもの事だった。娘のことで頭を悩ませる寂し気な父の姿を見る度に、庭井は力になってやりたいと思う一方で、もしかしたらいつか再婚なんていう事も考えているのだろうなというやり切れない思いも抱えている。 いっそ自分が傍にいてあげられたら。そんな思いに首を振った。 その後、会話はないまま現場へと到着した2人は作業着に着替え、ヘルメットを被り地下へと潜った。地下は災害用の施設を考えられており、10数名が通っても余裕がある程の広さだ。庭井は内心安堵していた。これなら大丈夫、と。 施工の責任者を務める、源と年の近い男が現場の説明に入り資料をライトで照らしながら1つずつ現場を確認していく。その都度、ここはどうだ、そこはどうだ、と話し合う中、問題点が生じると源はすぐに管理責任者に電話して1つずつ修正を試みていく。 庭井は現場主義な彼のこのやり方が好きだった。 ある程度視察確認が終わったところで、少しだけ自由に見てもいいか、と源。現場の人は安全面に考慮してくれるのであれば、と大きく頷いた。 「何か見たいものがあるんですか?」 危険もなかろうとヘルメットを返却し、2人になったところで庭井が尋ねる。 「こういう現場を見ると、働いてるところを見たくなるんだよな」 現場にいた時の血でも騒ぐのか、設計図とは関係のない彼らが働いている現場を見させて貰っていた源。そんな彼を見ているのが楽しくて庭井も付き添っていたのだが。ある細い分かれ道でふと好奇心に駆られた源が、設置された古びた扉に手を掛けた。 「源さん、あんまり奥へ行くと危なくありませんか?」 「大丈夫だろ、今時携帯だって通じるんだし」ガタついた扉を開くと、そこは物置のようになっていて灯りもあった。 「…古いな…」 庭井は内心焦っていた。今までの広い場所ならば緊張はあってもなんとかなっていたが、細い路地に扉の奥に心臓が跳ね上がった。心臓恐怖がじわじわと襲い掛かってくる。しかし、このまま源の時間を害したくはない、と必死に葛藤していると。源が扉を開けて中へ入ろうとしているではないか。 しかも、その拍子に入口付近にあった木材が倒れ掛かる。 木材は大した重さもない、細い棒きれだったのだが、庭井は源の危機に焦りパニックになった。 「源さん!!!!」 そして、木材から源を庇おうとした結果。源を部屋の中へと押し込み、自身も部屋の中へと入る羽目になってしまったのだった。重たい音と共に閉まる扉と対照的にカラン、という木材の軽い音。 「大丈夫ですか!?」 木材はぶつかっても怪我どころか、なんの被害もなかったのだが焦る庭井はそんな事も気づきもしなかった。 「大袈裟だな、庭井。大丈夫……ン?」 庭井に押し込まれたものの、軽くたたらを踏んだだけで転ばずに済んだ源はすぐに部屋を出ようとしたのだが。 「どうしたんですか」 一刻も早く部屋を出たくて不安に焦る庭井の前で源がガタガタとドアの取っ手を揺すっている。 「…。開かない」 「どういうことですか?まさか、外から鍵が?」 「いや…今の木材がつっかえ棒にでもなったか?まさかな」 2人で交代でドアの取っ手を動かそうとするのだが、ビクともしない。扉自体ががたついているようにも思えた。 仕方なく外の人へと連絡をしたのだが、2人のいた場所を説明するのにまず時間がかかった。電話は源がしていたのだが、その間庭井は部屋の狭さから恐怖に陥り、呼吸が徐々に荒くなっていっていた。せめて灯りがあるのは救いだった。 源さん、早く、と焦りながら拳を握り締める。 しかし、源の会話の内容は庭井にとってはシビアなものだ 「開かない?………そうだったか、いやいや、こっちこそ、勝手に開けたりして悪かった。…なら、申訳ないが暫く待たせて貰うよ」と、電話を切った。 「あ、……開かないんですか」 動揺の色を隠せない庭井。 「それがな、今は使っていない古い扉だったそうでな。俺が無理に開けたんで歪みが酷くなったみたいで…開くのに機械を取りに行ってもらったんで、暫くかかりそうだ」 暫くってどのくらい、と庭井は思ったが自分が部屋に押し込んでしまった手前、強く聴けなかった。 「すみません、俺が焦ったから」 「いや、俺も勝手に開けたからな。ははは、いや、こんなこともあるんだな」 源は呑気に笑った。「現場に閉じ込められるなんていつぶり………庭井?」 源とは対照的に庭井の表情は険しく、額には汗が滲んでいた。 「……どうした?もしかして、トイレか?」 「ち、違います…」 源に言おうか迷う庭井。動揺の色、不安そうに彷徨う瞳、片腕をきつく抱きしめるように回した腕。いつものエリート然としたスマートな庭井からは想像もつかない姿だったが、源には思い当たる節があった。 「……もしかしてお前、狭い所ダメ、だったのか?」 「…!」 言い当てられて庭井は更に動揺した。いつもならサラリと切り抜けられるのに、今日は違う。 「…すみません……。そうなんです。こんな事になると思わなかったので」 「なんだ、お前それなら言ってくれれば他の奴に頼んだのに」 「それはダメです!貴方が折角俺に仕事を任せてくれたのに!」 いつもなら「仕事ですから」と爽やかな笑顔で返せた。源が任せてくれたからなど、言わなかった。けれど、今はそんな余裕がない。 「そりゃ…まぁ…お前は優秀だから助かるとは思ったが…。俺はお前にプレッシャー掛けちまったか?」 「いえ!違います。俺が、やりたいと思ったんです。…源さん俺に是非に、って言ってくれたじゃないですか…」 貴方と仕事がしたかった、と縋るような言葉が口をつきそうになる。源は庭井が必死に上司としての自分の期待に応えようとしてくれていると思っている。しかし、庭井は源だから、期待に応えいし喜ばせたいのだ。交錯する2人の思い。 「お前は責任感が強いからな…。あー…こういう時はどうすりゃいい、何か薬とかは」 「ありません……不安を抑える薬は確かにありますが、あまり効果がないのと強すぎるので飲まない方がいいと言われてましたので…」 「…とりあえず、座った方がいいのか?服は緩めた方がいいのか?…過去に現場で同じようなのを見たことはあるんだが、個人で対処法が違うんだろ?」 源は現場にいた時に同じような現場に遭遇したことがあり、その時は過呼吸になった部下をすぐに運べたのだが今は状況が違う。思いつく限りのことを聞いてみるが、庭井は答えない。源は庭井に手を伸ばし、肩に触れるとビクっとする庭井。 源は庭井が恐怖に怯えているのだと感じた。 「心配するな。すぐに助けもくる。連絡がつく地下だし、酸素もたっぷりあるからな。それに、俺もずっといてやるから」 安心させようと吐き出した言葉は庭井のパニックと恐怖を少しだけ和らげたのだが、最後の一言は庭井をドキリとさせる。源は部下思いだ。安心させるだけの言葉と分かりながらも、庭井は縋りたくなってしまう自分を抑える自信がなかった。 しかし、そんな庭井の動揺を知らない源は、庭井の背中に手を添えて壁際に一緒に座り込む。もうダメだ、と庭井は思う。 「…すみません…」 「なんだよ、謝ること…」 源は庭井が、このような状態になっていることを謝ったのだと思って笑ったが、違った。庭井は今からすることに対して謝っていた。 庭井はすぐ横にある源の腕に縋り、半ば抱き着くような恰好で源の肩のあたりに顔を埋める。源さん、抱き着いたりしてすみません。と、心で何度も謝る。 しかし、源は気にした様子もなく。 「お前にこんな弱点があったとはな」と笑った。 「…みっともないですよね、すみません」 「みっともないと一番感じてるのはお前の方だろ。服緩めとけ」 源は庭井の作業着を緩め、しっかりと抱きしめた。 「何、現場にいるオッサンはこんなことじゃ驚かないさ。お前こそ、こんなオッサンと一緒じゃがっかりするだろ。あぁ、でも風呂は毎日ちゃんと入ってるからな」 とんでもない。寧ろ、貴方で良かったです、と思う庭井は少しだけ冷静になり、今の状況を考えた。場合が場合ではあるがこの上なく幸せな状況だ。状況に甘んじて源に縋っていた腕を背中に回してみると源が背中を撫でた。恐怖が和らいでいくのが分かる。 「…源さんこそ、すみません大の男がこんな風に縋りついて」 「でかい息子ができたもんだな。…普段のお前から想像つかないが、可愛いもんだ」 「源さんのその明るい声を聞いてると、ホっとします」 「そうか?…いつもそのくらい素直だと、お前ももっと可愛げがあるのに」 クールを装っている庭井の意外な一面は源にとっては好意的に見えた。確かに庭井は体も大きいし可愛いと言うには少々過ぎるキャラクターだというのに。こうして腕の中に納まって縋られていると、守ってやりたくなるのは男の本能か、上司としての性なのか。 源は元々、自分の世話を焼いてくれる優秀な部下としての庭井には好感を抱いていた。困った時にスッと差し伸べられる手。自分の想いを汲み取ってくれる優秀な部下。 そんな部下が今、恐怖に怯えて今助けを求められる唯一の存在である自分に縋っている。 おいおい、一回り近く年下の相手は男だぞ、と思いつつも、こうして抱きしめていると可愛さを感じてしまう。俺も年か?と感じつつも庭井を抱きしめる手は緩めない。 一方で、源のお陰で落ち着きを取り戻した庭井は今度は逆の意味で動揺している。まさか源さんとこんな状況になるとは。災い転じて福となすとは言うがこのことか、とバカなことまで考える。このまま助けが来なくてもいい、などとまで考えてしまった。 「お前、寝る時どうしてる?部屋は明かりつけたままか」 ふと頭上から降りる源の声。 「はい。寝室は窓がありますのでカーテンは薄いものにして、部屋の灯りはずっとつけたままですね。結婚してた時は、奥さんとは別の部屋で寝てましたよ」 「そりゃ、夫婦生活大変だっただろうな。すまなかったな、もっと早くちゃんといろいろ聞いててやれなくて」 「いえ!…俺が勝手に黙ってただけですから。今回も大丈夫だろうと高を括っていた俺がいけないんです。…源さんがいてくれて助かりました…ほんとうに」 心からの言葉に源は、庭井の頭に手を置いて撫でた。 「あぁ、すまん。…つい、癖で…」 と、頭を撫でられた庭井はその仕草に思わず顔を上げる。源の顔が思ったより近くにあったことも驚いたが、それと同時に部屋にいるという事実を思い出してしまい、軽いパニックに陥る。 「……ッ……」 「おい、庭井!!」 動揺する源。庭井が顔を上げた拍子に部屋にいる事実を思い出したからだ、と源は気が付かない。ただ恐怖に怯えているのだけはわかり、落ち着かせようと試みる。 「大丈夫だ。すぐ助けが来る。最初より落ち着いていただろ、お前は大丈夫だ」 「…は、…はい、……だいじょうぶ、…です… 」 そうは言ってみたがつい、視線が部屋を見ようと彷徨ってしまう。怖いのだから見なければいいのに追い込むような事をしてしまい、軽い過呼吸に陥る庭井に源は舌打ちをする。このままでは危険だ。 「許せよ、庭井」と言ったかと思うと庭井の頬に手を添えて口付けた。手元に袋に替わるものがなかったからだ。 「…っ……」庭井は違う意味で動揺したが、すぐにぎゅっと目を瞑った。 口付けたまま、マウストゥマウスの要領で対処を取る源に、庭井の過呼吸はすぐに収まって。 「…………」 収まった様子にホっとした源は、再び庭井を抱きしめた。安心したのと同時にほぼ反射的にそうしていた。 「…大丈夫か?」 「は……はい。…………すみません…」 庭井は再び源の肩口に額を落ち着けたまま、激しく動揺する。これはもう恐怖から来るパニックではない。源も源で、これは処置だと思ってはいるものの、何故かどこかで意識している自分がいて。2人の空気がおかしくなり始めた頃。 「…あの…源さん。おかしなことを伺いますが」と、幾分落ち着いた庭井の声。 「なんだ」 「…。やけに対処が慣れてらっしゃいますが、過去にもこうやって?」 「救援の訓練で人形相手にはあったが、人には初めてだな。ついでに言うと男としたのも初めてだな」 そんなことわざわざ言わなければいいのに、庭井の反応が気になってそんな事を言ってしまう源。自分でも驚いていた。 一回りも年下のエリート男に。俺は何を言っているんだ、と。 「そんな事言ったら俺だってそうですよ」と庭井もつい返してしまう。源さんがおかしなこと言うからいけないんですよ、と思いながら。 それから間もなく助け出された時、すっかり疲れ切った庭井を支えながら源は外へと出た。 「すみません、お手数かけて」 「いえ、こちらこそ。機械を持ってきてなかったもので…あの、大丈夫ですか…お疲れの様子ですが…」 「ああ。なんとかこっちからでも出られないかと、悪戦苦闘してる内に疲れてしまったようで」 源が庭井のフォローをする姿を見ながら、外に出て改めて今自分はあの人の腕の中にいたのだな、と庭井は思う。 「外って…眩しいですね…」 「ああ」 2人、夕焼けで熟れたような赤い色をした空を眺めながら地上で深呼吸をした。 「今日は直帰だったな。お前、どうする」 「…流石に帰ります、と言いたいところなんですが」もう少し源といたいと思いながら顔を見る。しかし、源は娘の用事があったはずだ。 「なら、送ってってやる。それか、俺の家に来るか?…あー…なんだ、そんな驚いた顔をするな。…さっきの今で1人でいるのが大丈夫かと思っただけだ」 庭井がびっくりしたからだろう、源は思いっきり動揺しながら、心なしか照れた様子さえ見せながらそんな事を言うので。庭井もつられてしまう。 「…あの……、…源さんの家、お邪魔してもいいですか」 「あぁ、こいよ。男やもめで散らかってるけど、それでも良けりゃな」 思わぬ申し出だったが、ここで引けないと返事をした庭井と。部下が素直に提案に乗って甘えてくれる姿にやんわりと笑う源。 2人の焦燥は始まったばかり。

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