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第4章:抗争 第5話②

 目が覚めた時、古びた畳の上に転がされていた。息をするだけでコホコホと咳き込んでしまう。随分と埃臭い。きちんと掃除をされているのだろうか。あまりの不衛生ぶりに眉間に皺を寄せる。  こんな所さっさと出て行きたかったが、そうもいかなかった。後ろに回された腕は背中で交差して手首から肘にかけてグルグルと縛られているだけでなく、胸と胴体を締め付けるように何重にも回されていた。更には、足首にも歩けないよう縄で縛られ、身動きが取れない。 (何これ……。待って、思い出せ。何があった……?)  いつも通り、夕暮れ時の涼しさを待ってから境内の掃き掃除を行っていた。そこに一台の車がやって来たから正しい駐車場を教えようと話しかけて……。 (それから、……どうなった? 記憶が飛んでる……?)  こんな場所に移動してきた覚えなんて全くない。それどころか、首筋に感じる筋肉痛に近い鈍痛。ドクドクと鼓動が速くなる。自分の意思ではない。こんな所、見覚えもない。 「おや? 起きたんか?」  背後から聞こえてきた声にビクリと体が跳ねる。首だけで後ろを振り向いた。黒いスーツ姿の糸目の男性が立っている。長身でスラリとした体躯で、一見モデルかとも思ったが、纏う雰囲気がそうではないと告げている。歳の頃は三十代前半といったところか。鷹臣や悠真よりは若く見える。 「悪いな、こんなとこで。けどまぁ、あんまり人目につくとこやと、こっちも困るんやわ」  磨き上げられた黒い革靴がゆっくりと近づいて来る。セイルのすぐ近くまで来ると、しゃがみ込んで顔を覗き込んできた。 「へぇ~、これが九条鷹臣のイロっちゅうワケか。エルフっちゅうのもホンマやったんやな。初めて見たわ」  ゴロリと転がされ、男性と向き合うような格好にされる。しかし、セイルは相変わらず床で横になったままだ。 「鷹臣さんの、お知り合いの方……ですか?」 「うん、よう知ってるで。ワイはな」  ニッコリほほ笑んではいるものの、ゾクリと悪寒が走る。何だか気を許してはならない予感がする。暑くはないのに、背筋を冷や汗が流れ落ちた。 「イロ……っていうのは何ですか?」 「あれ? 知らんの? “イロ”っちゅうのはな、ワイらの世界で言うたら、こういうモンのことや」  ニシシと笑いながら男が小指を立てた。それが何を意味しているのか分からず、眉間に皺を寄せながら凝視する。男はそんなセイルの様子を見て、更に声を上げて笑った。 「あっはは、これも分からんか? これはな、“えぇ人”っちゅう意味や。まぁ、つまりは恋人とかそんなんやな」  男がスーツの内ポケットから扇子を取り出し、バッと音を立てながら一気に開いた。黒地に銀字で『喧嘩上等』と書かれているが、セイルには当然のように読めなかった。  暑くもないのに扇子でヒラヒラと仰いでいる男を見ながらセイルは起き抜けのボンヤリした頭を叱咤しながらフル回転させる。  セイルですら、明確に鷹臣と情を通わせたのは昨日のことだ。六月頃から一緒に暮らし始めているため、そういう風に見られてもおかしくはないかもしれないが、それではここまで断定してくるのが不思議でならない。  鷹臣は誰かにセイルとの関係性をこんなに早く話すだろうか。共通の知人であり、縁も深い悠真であれば分からなくもないが、目の前の男性は一度も紹介されたこともないし、見たことすらない。  怪訝な顔をしながら見上げていると、男性が扇子を閉じてセイルの顎を先端で掬ってきた。硬い紙の感触に不快で顔を顰める。 「ワイは狼崎鬼一や。黒神連合っちゅう、東蓮会の二次団体の代表しとるんや」  東蓮会は鷹臣が組長を務める九条会の上部組織の名だ。つまりは、九条会と同様の組織ということだろう。  しかし、セイル自身は九条会には何も関わってなどいない。慎吾が毎日送り迎えをしてくれてはいるが、その程度だ。構成員に至ってはこの世界に来た時、東京湾で見た人たちと、祭りの日に少し見たくらいしか知らない。鷹臣はセイルを極力極道の世界とは切り離して生活させていた。 「……その狼崎さんが、私に何の御用でしょうか」  警戒心を緩めないものの、相手を刺激しないよう努めて冷静に聞こえるよう口にする。  こんな扱いを受けている時点で、ろくなことに巻き込まれていないのは分かっている。だからこそ、弱みを見せてはいけない。怯える素振りでも見せれば、相手の思う壺になってしまいそうな気がしてならなかった。  セイル自身が極道の世界に縁がないとは言っても、一緒にいる鷹臣がその世界の住民なのだ。全く何の関係もないとは言えない。  だから、少しでも鷹臣に迷惑をかけないようにしなければならない。  セイルを見下ろす狼崎の糸目が少し開いたように見えた。瞬間、異様な圧を感じてゾクリとする。まるで値踏みするかのような視線。すぐにでも距離を取りたかった。彼の視界に入らない場所へと逃げ出したい。しかし、その術を持っていない。だから、少しでも虚勢を張るようにキッと睨みつけた。 「可愛らしい顔しとるくせに、意外と気ぃ強そうやな。好きなタイプやわ、ほんま。九条のイロやなかったら、欲しかったんやけどなぁ」  ニィと唇の左端だけを上げるニヒルな笑みを浮かべながら言ってくる言葉が真実かどうかなんて分からない。ただ、嫌悪感を抱くには十分だった。 「帰してください。私、何も関係ありませんよね」 「関係、か……。ない言うたらウソになるんちゃうか?」  ゴクリと生唾を飲み込んだ。糸目の奥の黒目が突き刺さるように見下ろしている。まだ大して話もしていないというのに、威圧感が酷い。鷹臣も圧のあるタイプだが、それを最近はセイルに向けてくることがない。身の回りに同じようなタイプがおらず、腰が引けてしまいそうだ。 「私にこんなことしたって、何にもなりませんよ」 「なるやろ。あんたは九条の弱点や。絶対、九条はあんた助けに来よるわ」 「何のためにですか? あなたたちの目的は?」 「九条会、潰させてもらいますわ」  ニッコリと満面の笑みで言い放つにはあまりにも穏やかではない言葉。ヒュッと喉が鳴る。  狼崎はセイルの隣にドカリと胡坐をかき、まるで落語でも話すような軽妙さで話を始めた。  狼崎が代表を務める黒神連合は元々関西で解散した組織の残党たちによって作られた新興勢力だという。五年ほど前、関西で警察による大規模な暴力団壊滅作戦が展開され、一部の中堅組織が壊滅。その組織にいた荒くれ者たちが東京進出を狙い、埼玉に拠点を置いたのだそうだ。 「関東みたいな生っちょろい土地やったら、すぐに天下獲れる思てたんやけどなぁ。けど、九条のヤツがおるやろ? あいつのせいで、なんもかんも上手いこといかへんねん。ホンマやったら今ごろ、東蓮会も手ぇに入れてたはずなんやけどな。やることなすこと、あいつがいちいち邪魔してくるさかい、思い通りにいかへんわ」  狼崎が眉間に皺を寄せながら講談のように扇子の先で畳を叩いた。お陰で埃が舞い、咳き込んでしまう。 「だからと言って、私を攫ってきたところで鷹臣さんは絶対に揺るぎませんよ? 私、鷹臣さんのご自宅では家事をするための居候ですし。攫ったなんて脅したところで、何の揺さぶりにもなりませんから。それに、どうしてそんなに鷹臣さんのことを目の敵にするんですか」  精一杯の虚勢を張りながら言い放った。言いながら、ジクジクと胸が痛む。しかし、そんなことを勘付かれてはいけない。狼崎は綻びがあればそこから攻め込み、全てを瓦解させてきそうだ。 「九条の組が治めとる土地あるやろ? あそこが欲しいんや。とりあえず手っ取り早く獲れそうな埼玉を根城にしたけど、こんな田舎やとあかん。もっと派手に儲けよう思たら、九条のとこが持っとる土地で、いろいろ金になる仕込みしていかんとアカンわ。このご時世、シノギもなかなかキッツいからなぁ」  フゥと溜め息を吐きながら再び扇子で扇ぎ出した。どうやら話を聞くに、黒神連合のシノギと考えている闇カジノや薬物などのグレーゾーンの利権に対して九条がノーを突きつけているらしい。その度に「もっと頭を使え」「考えが短絡的過ぎる」などと東蓮会の会合などで嫌味たらしく言われ続けたことに業を煮やしていたようだ。  しかし、以前、悠真が話していたが、その手の儲け方は非常にリスクが高いらしい。更には警察にも目を付けられやすい。そんな危険な橋を渡らずとも、限りなく合法に近い形で鷹臣は二次団体の中でもトップとなる上納金を作れるそうだ。  それに、二次団体がやらかせば、その隙を突いて警察が上部組織を狙いに来かねない。全てのリスクを避けた上で鷹臣は安牌な道を着実に登り詰めたのだという。  確実性があり、その上で危険性もなく大金を納めるのであれば、当然ながら上の覚えが良いのも頷ける。  そして、狼崎の話の中で、最もセイルが気に障ったのが、鷹臣たちの治める土地を奪うような発言に関してだ。あの場所には大切な人たちがたくさんいる。その人たちの生活がシノギなどのようなもので脅かされるなんて冗談ではない。 「狼崎さんは私のことを利用価値のあるように言ってますが、何度も言いますけど、私には本当に何の価値もありません。ここでこんなことをしている方が時間の無駄ですよ」 「ホンマにそうやろか? ……あんたの、その長い耳の片っぽでも送ったら、九条のヤツも、ちぃとはこっちの言うこと聞く気になるんちゃうか? 耳だけになぁ!」  ケラケラと大笑いしているが、聞かされているセイルとしては気が気でない。  人とは違うこの耳を送り付ければ、確かにこれがセイルのものであろうことはすぐに分かるだろう。そして、酷い扱いを受けているということも。  極道の世界において、死などというものは大したことではない。自分の組の構成員が死んだとかならばまだしも、一般人が死んだ程度で揺るぐような組織ではない。  それに、慎吾が極道の世界には「指を詰める」という伝統があると話していた。大きな失態を犯した構成員はドスと呼ばれる刃物を用いてその場で小指を切り落とす。そんな恐ろしい風習があるのかと聞いた時には戦々恐々とした。  鷹臣の組では失態は仕事で返すのが流儀だそうで、早々ないそうだが、東蓮会の方では未だに行われていると知り、過去の慣習ではないのだと知って更におぞましくなった。  東蓮会で行われているのであれば、鷹臣も見ていたかもしれない。そもそも、鷹臣ほどの肝の据わった人物ならば、遺体があろうとも動じなさそうだ。  しかし、それが情を交わし合った者の一部であれば、どう思うだろうか。魔法のないこの世界では、失った体の一部をくっつけられるような手段があるとは到底思えない。魔法でも、治癒魔法は高等魔法の一種であり、そこまで大きな怪我を治せるのなんて極一握りなのだから。  鷹臣の足手まといになりたくない。心配をかけたくない。  でも、みすみす捕まって拘束されている今、できることなんて何も思い浮かばない。無力さからくる悔しさに唇を噛む。 「ああ、せやなぁ……それか、そのお綺麗な顔活かして、変態ジジイに体売ってもろた方がええかな? 金にもなるし、何より、自分のイロがそんな扱い受けたって知って、九条の顔が歪むとこ想像しただけでゾクゾクするやろ? まぁ、精神的にキてもうたらヤク漬けにしてやるわ。ほな、楽にはなるやろ」  柏手を打ちつつ、まるで名案でも言うかのような口調でつらつらと狼崎は語る。  「ヤク」と呼ばれる物がセイルの扱っていた薬草の類とは違うことなど重々理解している。生活を壊し、人格を壊し、全てを破壊してしまう悪魔の薬だ。そんな物は独学とはいえ薬学を嗜む者からすれば言語道断だ。 「そんなことされるくらいなら、舌嚙み切って死んだ方がマシです!」 「え~、そんな物騒なこと言わんといてや。死なれたら稼がれへんやんか~」  おちょくるような態度を取られてカチンとくる。  この人とは全てが相容れない。きっと鷹臣もそうだったのだろう。こんな人の言うことを聞いても絶対に碌なことになどならないし、浅はかな考えは自滅へと向かいそうだ。 「ああ、なんやようけ大口叩いとるけどな、九条はアンタなんか助けに来ぇへんで。……ここ、どこや思てんねん。埼玉の中でも、めっちゃド田舎やぞ。とっくの昔に潰れた、山奥のボロ旅館や。人通りもなけりゃ、こんなとこに誰かおるなんて思うヤツもおらへん。人攫って隠すには、ちょうどええやろ?」  綺麗に笑う狼崎とは対照的に、セイルの顔色はどんどん青褪めていく。スマホの中にはGPSという機能があると悠真が言っていたが、明確に写真を撮ろうと思った時でなければスマホは社務所の中に置いている。どこに行くかは必ず悠真に伝えてから行くようにしているし、どんなに境内が広いと言っても、すぐに居場所など探し出せる程度の広さしかない。悠真が探しに来てくれることも多々あるが、その度にすぐに見つけてくれた。  突然いなくなったセイルのことを探し出そうとしても難しいだろう。車に乗せられて隣の県にまで連れて来られてしまった。東京都内だけでも人を探すなんて大変なのに、その範囲が広がれば容易ではない。 「おとなしゅう言うこと聞いといた方がええで。お前の命、今ワイが握っとるんやからな」  上機嫌で話す狼崎の言葉は、全てがセイルを絶望へと突き落とすのに十分だった。

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