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雨音、ランデブー 前編
陽月×春陽
『雨音、ランデブー』前編
それは何の気配もなく突然やってきた。
例えば、朝からどんよりとしていれば、傘の一本でも持って来たのに。
ホームルームを行う担任の声が、いつもより少し大きい気がする。外の雨音に負けないように話しているからだろう。
授業の終わりを告げるチャイム。席を立つ椅子の騒音。ざわめく教室。ばいばい、と掛け合う声。
春陽も鞄を下げ、教室を後にする。人ごみを掻き分けて、靴を履き替えた。
けれど……。
昇降口で足を止める。空から降る雨が、まるで暖簾のように目の前に現れたから。
流石に、この雨の中を走るのは無謀だろうか……。
以前なら何も気にならなかった。びしょ濡れになりながらも、走って帰っていただろう。
けれど今は、そんな事が出来る立場ではなかった。雨に濡れて困るのは、自分だけじゃないから。
少しだけ迷って、携帯を取り出す。
『雨すごいから、公園に着くの少し遅くなります。弱くなってから学校出るね』
よろしく、と一言スタンプを付けて、陽月へ送信した。
すぐに既読がついて、『OK』とスタンプが返ってくる。次いで、
『急がなくていいからな。気を付けて』
と送られてきて、思わず頬が緩む。大切にされているのは、正直に嬉しい。
けれど、それと迎えに来てもらうのは話が別だ。陽月の高級車が学校に来たら、大騒ぎになるのは目に見えている。
昇降口からは次々に生徒が出てくる。邪魔にならないよう、春陽は雨がかからない、ぎりぎりの端へ身を寄せた。
生徒たちの話し声を遠くに聞きながら、ただじっと空を見つめる。
雨は……好きじゃない。音や、匂いや、冷たさが、春陽の心をざわつかせるから。
少し待っても、弱くなるどころか強さを増してくる。アスファルトに叩きつけられる雨粒が、元気よく跳ね返って、春陽の靴を濡らそうと飛びかかってきた。
傘を持つ生徒は、慌てずに雨の中へ。
濡れるのを厭わない生徒は、勇敢に飛び出して行く。
自分と同じように途方にくれる生徒も、もちろんいた。けれど、その多くは迎え待ちで、保護者の車が見えると駆け出して行く。
車のドアを開きながら会話をしている風景を、ただ漠然と眺めていた。きっと、「雨すごいね」とか「ごめん」とか「迎えありがとう」とか、話しているのだろう。冷たい雨の中で、その場所だけ温かい空気が流れているのが分かる。
少し、羨ましい、と思った。もちろん、母は忙しい人だったし、車なんて所持していなかったから、雨の日に迎えに来てもらった記憶なんて春陽にはない。
他人に頼るのはわがままだ、と以前の自分なら考えていた。けれど、今は違う。
……「迎えに来て」って、言えば良かったかな……。
一言、そう送れば、すぐにでも来てくれるだろう。
春陽の立つ玄関まで、車を横につけて。
近距離でも、濡れないように傘を開いて。
「おかえり」と、笑って迎えてくれる。
その笑顔が簡単に想像出来るほど、たったひと夏でも、彼とは密な時間を過ごしてきた。
一人で過ごした寂しさが記憶から薄れてしまうほどに、一人でいるのが怖くなるほどに……春陽の中に陽月が存在している。
会いたい、と素直に思う。その温かさに今すぐ触れたい……。
心を決めて、携帯を取り出す。と、辺りが少しだけざわついた。
黒塗りの高級車が入って来て、場違いを気にするように、駐車場の片隅に停まる。
運転席から、傘を差した執事が出てきて、後部座席のドアを開ける。主人が濡れないよう傘を手渡し、一歩後ずさる。
春陽は駆け出した。気付いた彼も、驚いたように駆けて来る。
「陽月っ」
名前を呼んで飛びついた。陽月の腕が春陽の背を支えて、胸の中へ抱え込んでくれる。持っていた傘が揺れて、落ちた雫が二人を濡らした。
ごめんなさい、と謝罪が春陽の口を付きそうになる。それよりも先に、陽月が言葉をかけた。
「ごめん、約束破った」
心が痛い。謝らなければいけないのは春陽の方だ。違う、と言いたいのに、喉につかえて出てこない。代わりにぎゅう、と陽月に抱きつく。落ち着かせるように陽月は春陽の背を叩いた。
「帰ろう」
こく、と春陽が頷く。濡れないように春陽の方に傘を寄せて、並んで歩き出す。
車までたどり着くと、加谷が「お帰りなさいませ」と会釈をして、ドアを開けた。
するりと二人乗り込む。ドアが閉まる光景は、瞳を閉じていて分からなかった。陽月の口付けを受けながら、空間に遮られて小さくなる雨音を聞く。
「……ごめんなさい」
やっと声が出る。音として、聞こえているかもわからないほどにか細い。
「俺の方こそ。来るなって言われてたのに、我慢できなかった」
雨、苦手だろ? と聞いてくれる。
ああ……なんでそんなことも分かってしまうんだろう。隠したくても、強がりたくても、陽月には全部ばれてしまう。……自分がどんどん、弱くなる。
「ごめんなさい……。迎えに来てって、言えばよかった……」
そう春陽から言っていれば、陽月に謝らせる必要もなかったのに。
「来てもよかった?」
「うん……来てくれて、嬉しい」
微笑むと、陽月もほっとしたように微笑みを返す。甘えるように陽月の肩に頭を寄せると、何も言わずに許してくれた。
止まない雨音をBGMにゆらゆらと揺られながら、春陽はぼーっと窓を伝う雫を眺めていた。本当は瞳を閉じてしまいたい。けれど、悪い夢を見てしまいそうで怖かった。
「……入りたい?」
ふと、陽月が呟く。一瞬、言われた言葉の意味が分からず、春陽は目をぱちくりさせて陽月を見つめた。
「space。俺のでいいなら、入るか?」
意外な提案で、春陽は驚く。陽月はそれを嫌がるし、自分の領分ではないとはっきり主張するからだ。
そんな陽月がspace入りを許可するなんて……。よっぽど自分が弱っている事が、伝わってしまったのかもしれない。
「……いいの?」
春陽は小さな声で聞いた。もし、本当にspaceに入れてくれるのなら――今すぐにこの不安を手放してしまえるのなら、どれほど安心出来るだろう……。
「春陽がいいなら、いいよ。ただ、陽太みたいに上手じゃないからな。そこは甘く見ろよ?」
「……うん。大丈夫、俺は陽月のspaceも嫌いじゃないよ……」
陽太のspaceは、完全に春陽の思考や感情ごと包んで、動かしてしまうほどに強い。それは、もちろん陽太の力量もあるのだけれど、本物だから故の、相性の良さがあるからだ。
陽月はそうじゃない。だから、少しだけ緩くて、軽くて、ふわりと優しい。
分かった、と静かに告げ、陽月は春陽の手を取った。指を絡ませて、解けないようにしっかりと繋ぐ。
《はる、おいで》
真っ直ぐに見つめ合いながら、陽月のコマンドが注がれる。それは穏やかな支配を持って、春陽を変えていく。
「眠っていいよ。そばにいるから」
こく、と素直に頷いて、薄桃色を乗せた春陽の瞳が、ゆっくりと閉じる。すぐに、すぅ……と安心しきった息遣いが陽月の耳をくすぐった。
ほ、と陽月が息を吐く。普段から、使用しようと思えばコマンドだって普通に使える。けれど、本物に慣らされた春陽を自分のspaceに入れるのは、些か緊張を伴うのだ。
「……よくご決断なさいましたね」
ハンドルを握る加谷が声をかけてくる。
「まぁな……。隣で不安そうにされてると、俺も気が気じゃないから」
「お上手でしたよ。流石です」
賛辞を送ると、陽月は小さく声を上げて笑った。
「そんなことないよ。でも……上出来かな……?」
一時的にでも不安を取り除けたのなら、成功と言えるだろう。
陽月の穏やかな顔が目に浮かぶ。加谷も安心したように口元をほころばせた。
本当なら、この時間も公園に待機しているはずだった。そういう約束だったから。春陽の学校まで車を回すよう指示したのは、もちろん陽月だ。
「よろしいのですか?」
確認のために聞き直すと、陽月は短く「ああ」と答えた。それ以上、理由を追求することはしなかった。
……陽月は気付いていたのかもしれない。春陽の不安な気持ちに。
それが加谷の中で確信に変わったのは、春陽が陽月に駆け寄って来た時だ。あんなに人目を気にしていたのに、あの瞬間、春陽には陽月しか見えていなかったのだと思う。でないと、周囲のざわめきも気にせず触れ合うような事は出来ない性格だと、加谷も気付いている。
雨は少しだけ落ち着き始めていた。けれど、まだ止む気配はない。
加谷はいつもの帰路と逆の方向にハンドルを切った。
ゆりかごのような優しい振動と、弱くなった雨音が優しい子守唄に変わる。
この空間が少しでも長く続くように。春陽がゆっくりと心を休める事が出来るように。
それから、この穏やかな幸せが、ずっと続く事を願って。
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