1 / 13

第1話 プロローグ『教会』

『ん?開いてる……?』 ルカは、木造の白い小さな教会の前で立ち止まった。 アルバイトに行くため毎日ほぼ同じ時刻にこの小道を通るが、道路に面した門扉が開け放たれているのは初めてだった。 教会や神社仏閣など、厳かな雰囲気の建物は嫌いじゃない。しかし、敷地内含めてこれまで人の気配が一切無いことから、ただもう放置されて解体を待つものだとばかりだと想像していたが……。 よく見れば、門扉から続く石畳の先にある正面ドアも開かれたままで固定され、開き戸となっている大きな窓も全て開けられているようだ。 正面の屋根近く、高い位置に小さなバラ窓があり、これはステンドグラスのはめ殺しだが、屋内が明るいせいか、いつもより明るく輝いて見えた。 ルカは好奇心にかられて、開放されている門を通り抜け、大きく開かれている両開きの正面扉の前に立ち、中を覗き込んでみた。 しんと静まり返った聖堂は、天窓のステンドグラスが輝き、まるで天使の階段のように光がベンチの上に降り注いでいる。 祭壇前の床は小ぶりながら見事なモザイクが施され、この建物の歴史を知らしめるようだ。十字架などはもう既に無く、祭壇は空の状態であるが、よく磨かれて木が艶めいている。 ルカは、がらんとした元教会の中央あたりで立ち止まった。 キリスト教徒ではないのに—— 不思議と、暖かみにすっぽりと包まれるような安心感。 静寂。 一目でこの場所が気に入り、多少の遠慮を滲ませながらも、祭壇前へと歩を進める。 日本に来て初めて足を踏み入れた教会だ。役目を終えても、厳粛な雰囲気は染み付いている。 「あっ!ピアノ!」 まず目に止まったのは左祭壇の前に置かれたアップライトピアノ。 自然と足が数歩踏み出してしまい、慌てて周囲に人がいるか見渡す。日本の教会のしきたりを知らないため、無断で立ち入ってよいか迷った。 しかし屋内にも人影は無く、物音一つしない。 それでも本来の礼儀正しい癖で、小さく口の中で「ハロー」と呟き、そのままピアノに向かう。 ふいに、ツンとケミカル臭が鼻をついた。 キョロキョロと見渡すと、ベンチの数カ所に「ペンキぬりたて!」と書き殴った紙が貼られていた。 簡素で整列した講堂と、その乱暴な文字の違和感がおかしくて、ルカは笑顔になると同時に、ドアや窓が開け放たれている理由も知ることができた。 さすがにピアノはペンキ塗りたての中に入らないだろうとそのまま歩み寄る。 初めてこの教会前を通りかかったのは半年ほど前で、その時はすでに利用されていない様子だった。廃墟ではなくきちんとしているが、風防は閉じられ、庭の雑草も伸び放題。 もし長らく閉鎖されていたのだとしたら、ピアノは使えないかもしれない。 それでも、音を出してみたいという欲求は止められなかった。 幸いにも蓋は開けられており、ルカは鈍く光る鍵盤にそっと指を置いてみた。冷たく硬いが、少しザラつきがある。これは、本物の象牙に黒檀の鍵盤だ。もちろんルカが通った音楽大学にはあったが、一般的な場所で、しかも日本の古い教会でこのような素敵なアンティークに出会えるとは…… ルカは堪らえようがなくなり、ポロン、ポロン、と高音から低音まですべての鍵を叩いて確かめてみた。しっとりと透明な音。 象牙は黄ばみも減りも少なく、音のずれも無さそうだ。 大切に保管していたのは間違いない。 調律をしたばかりかもしれない。 それなら。 鍵盤の正面に立ち、気分のままに両手の指を走らせた。だが指の運びがもどかしい。オルガンや電子ピアノではない鍵盤の重みを思い出すのに時間が掛かるようだ。 「うちにもピアノがあればな……」 現実的ではない願望だ。 ルカが一人暮らしをしているアパートはよくある1LDKの単身者向けで、壁も床も薄くてピアノなんて到底無理な話だ。小ぶりの電子ピアノは持っているが、アップライトピアノなんて置いたら床が抜けるのが先か、住人からの苦情が来るのが先かだ。そもそもエレベータに乗るわけもなく搬入すらできないだろう。 夢中で2曲目を弾き終わった時、ようやくアルバイトの時間が近づいてきていることを思い出した。 鍵盤蓋を閉じ、せめてものお礼にポケットから小銭を出し、小走りで教会を後にした。寄付用の皿が見当たらなかったこともあるが、日本の神社仏閣でもお賽銭を投げ入れるのだから、どこかにお金を置いていくのは失礼ではないはずだ。 アルバイト先のカフェバーまで走り続け、軽く息を切らしながら2階の従業員室まで駆け上がる。 制服のロングエプロンを腰できゅっと結び、シフトの時間5分前ちょうどにオーナーがいる事務室をノックする。 「ヒューゴ?」 時間に厳しい人ではないが、かなりの好条件で雇ってもらっているため、微々であっても適当なことはしたくなかった。 事務所からは返事が無かったため、ルカは駆け足で階下に降りて直接厨房へ駆け込んだ。まだオープン前で、ここに居ないということは厨房で仕込み中だ。 「ずいぶん急いだようだね。別にかまわないのに」 オーナーは大変よい匂いのする鍋をかき混ぜながら、目線をルカに合わせた。 「おはよう!そうなんだ。ちょっと寄り道した。すごくいいことがあって」 「ほう。どんな?」 「近くの古い教会、知ってる?さっき開いていたから入ってみたら、素敵なアンティークのピアノがあったんだ!ちゃんと調律がされていて、つい2曲弾いた。でも指が動かなくてさ。ちょっと不満だけど、久しぶりに弾けたのが嬉しい」 「ピアノも弾くのか」 「しばらく習ってたよ。ベースを始めてからはやってないけど、今でも作曲はキーボードじゃなきゃだめ」 「教会って、白い木造の?」 「うん。もう廃業しているみたいで……でも、とても静かで、美しい建物だね」 「そうだな……誰か居た?」 「だれも居なかった、と思う。気配も、物音も無くて。あ、でも寄付は少ししたよ」 「入って右手がオフィスになっているはずだ。変わっていなければ」 「勝手に弾いちゃったけど、悪いことだったかも」 「いや、あそこのおばあさんはそんなことで怒る人じゃない」 「やっぱ、閉鎖されてたんだ?」 「牧師の……奥さんが亡くなってすぐに閉鎖された。牧師はオランダ人で、息子をつれて国へ帰ったんだ」 「知ってる人?」 「ああ。つい先日、その息子の方が日本に帰ってきた」 「教会を継ぐの?あ、だからペンキ……?」 「いや、アイツは別の仕事に就いてる。ペンキ?」 「それが、ベンチや壁に『ペンキぬりたて!』って書き殴った紙が貼ってあって……笑ったよ、すんげぇ字が汚えの。でも、塗り直したってことは、建物は残るんだよね」 ヒューゴは軽く微笑み、ふと、目線を厨房の外へ向けた。 開店前の店内。 窓辺のテーブル席で独り、ノートパソコンを開いていた男性は、厨房から聞こえてくる明るいが不躾な声を、口の端を上げて聞いていた。苦笑とも取れる、微かに上がった口角。 「たぶんな。直接聞いてみろよ」 そうヒューゴが言うと同時に、店のドアベルがコロンと鳴った。 「ん?もうお客さんが」 音に弾かれたように厨房からひょいと店内を覗いたヒューゴが「逃げやがった」と呟く。 「さっきまでそこで仕事してたんだがな」 ルカが店内に飛び出すと、窓辺のテーブルに、空のコーヒーカップが残されていた。 かすかな、バイクのエンジン音が窓にぶつかる。 「誰かいたの?」 ルカはカップを洗い場に持ってくると、小首をかしげてヒューゴに尋ねた。 「僕の幼馴染。さ、そろそろ、本当の客が来る頃だ」

ともだちにシェアしよう!