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第14話 まだ名のない執着
昼を裏庭で過ごすのが習慣になって、もう数週間。
トマトは笑えるほど実った。ルカの歌声と低音のリフが良かったのか、肥料設計が当たったのか、判断は保留——レインはそう言い聞かせる。
だが内心では分かっている。ルカが奏でる“15分”が、植物にも自分にも、確かに届いていた。
火曜から金曜、ルカのシフトがある日は、裏庭で聴いた声を反芻して眠る。落ちる、というより、落としてもらうと言った方が正しいだろう。
それ以外の夜は、相変わらず長い。
だが、以前のように“耐える時間”ではなくなった。昼間と同じように、実験計画を組み換え、査読論文に赤を入れ、文献を漁る。眠れない時間は、ただ普通の人より目が覚めている時間が少し長いだけ——そういう認知への移行ができつつある。
ヒューゴに誘われてジムにも顔を出すようにもなった。
もともと兵士を凌ぐ体を持っている。絞れば、静脈が浮き、筋の走りが露わになった。教育者として正しい見た目かは知らない。だがフィールドには役立つ。
問題は別だ。
もうすぐ——夏が終わる。
裏庭のトマトは房の赤が減り、葉の縁が疲れを見せ始めている。支柱の影が短くなって、午後の裏庭が静かになる。
レインの胸の中で、見えない砂時計がこぼれ始めた。
——次を、用意しなければ。
栽培が終われば、この“15分間”を共に過ごす理由が消える。
今の自分の存在価値は、低周波に反応する作物と、その育て方に付随した『科学的口実』だ。対象が消えれば、口実も消える。
レインは大学から自宅に戻るやいなやバイクから車に乗り換え、閉店間際のホームセンターに滑り込んだ。購入品はすでにリストアップしてある。
深鉢のプランターが4つ。
カブ、ブロッコリー、スイスチャード、ルッコラの苗に、四季成りイチゴの苗を3株。
さらに、ビニール素材の簡易的な温室。
土壌pH試験紙、牡蠣殻石灰、過リン酸石灰、硫酸カリといった肥料。そして、小型トランスデューサと振動加速度計は自前のものがある。
自宅にとんぼ返りし、リビングで段ボールを開け、作業台もない床で黙々と組み立て始めた。
インパクトの音が近所の迷惑にならないように手回しに切り替え、指の腹でビスの頭を押さえた。
温室のビニールに額の汗が滴る。静脈が浮いて、指先が少し震えている。
笑えるほど地味な必死さだ、と自嘲する余裕もない。やるしかない。
夜が明けるのを待って、レインは家の庭に温室を設置した。幅1メートル50センチほどのビニール温室だから持ち運ぶだけだ。
ほとんど放置されているため荒れ放題だが雑草を抜いてやると、それなりにこだわって配置された石畳が露出し、風情が生まれた。ヒューゴの裏庭には到底敵わないが、もう少し手を入れれば少しは気に入ってくれるかもしれない。
レインは隣接された古い真鍮のベンチに腰を下ろし、真新しいノートを開いた。表紙には太くこう記してある。
『低周波曝露が糖度・葉面温度・生長に与える影響』
その1ページ目に『暫定手順』と加筆する。
- 曝露:41–98Hz(E1–G2の基音域)、60–70dB、15分
- 方法A:空気伝播(スピーカー)
- 方法B:接触伝播(鉢底にトランスデューサ)
- 計測:Brix(簡易糖度計)、葉面温度(赤外温度計)、生長量(週次)
- 付記:演者は同一(ルカ)。時間帯・楽曲のリズムBPMも記録。
- 注:植物の疲労サイン(葉先のチリつき)出現時は休止
紙にした途端、レインの胸を圧迫していた『何か』が、途端に正当性を持ったように思えた。
あとは、ルカをどう誘導するか——
午前の授業を終え、ルカのバイトが終わる頃合いを見計らって、レインは店の前に愛車を停めた。
急ぎ足で裏庭に向かう。
「レイン!早かったね」
相変わらず、明るく名を呼ぶ声にトクリと心臓が跳ねる。
「今日はテイクアウトで頼む」
「……そうなの?忙しい?」
「ルカも自分の分を包んで来い。店の前で待ってる」
有無を言わさぬ勢いで一方的にそう告げ、レインは車に戻った。ヒューゴが店先に出てくるのが見え、咄嗟に片手で顔を隠す。
「車だけでお前だって分かるんだから、意味ねぇよ」
観念してレインは窓を半分下ろす。
「昼食は?」
「今、ルカが」
レインの答えに途端にヒューゴは目を細めた。
「なるほど。しばらく続いたここでの逢瀬から、一歩外へ出るわけだ」
「……逢瀬ってなんだよ」
ヒューゴは口角をさらに上げる。「で、うちのルカをどこへ連れ出すつもり?」
「親みたいなことを言うじゃねぇか」
「いいや違うね。デートなら喜んで許可するよ」
「……逢瀬だのデートだの、ルカの前では言うなよ」
「照れてんの?」
「そうじゃない。あいつは……」
レインは言葉を飲んだ。
ルカの話題の中心には、いつもヒューゴがいる。
ミュージシャンであるルカは、まずバーでの演奏の仕事を得たあとで、そこのイギリス人オーナーからヒューゴを紹介されたと聞いている。
自分で仕事を得ることができるほどの腕と社交性があるのだから、知人や友人は少なくないはずだ。
しかし、ルカの口からヒューゴ以外の人間が話題に出ることは滅多にない。
そして、幼馴染であるレインから見ても、ヒューゴの容姿はかなり整った部類に入るし、なにより性格が穏やかで、その場に居るだけで周囲に良い影響を与える。
ルカが——彼に惹かれない理由を探すほうが難しいだろう。
だが、問題はヒューゴだ。
すでに、再会した初恋の相手に盲目的になっている状態で、共に働いているルカにもそれをオープンに話している。もしヒューゴが少しでもルカからの視線に気がついていれば配慮しただろうが、いかんせん異性同性問わず好意を持たれやすいため、それが特別なものなのか、ただの好意的な態度なのか、区別に疎いようだ。
片思いの相手から、他の男とのデートを勧められるなんて地獄でしかないだろうとレインは想像し、黙った。
言い淀むレインに、ヒューゴは一拍置いてからウィンクを投げた。
「門限は無いからね」
レインが呆れたように頭を左右に振った所で、店の正面ドアからルカが勢いよく駆け出してきた。
「お待たせ!」
ヒューゴが後部座席のドアを開いてやり、ルカは反射的に礼を言いながらケースに収めたベースを座席に横倒しにする。
続いて助手席のドアも開き、片手に持っていたボトルを2本、ルカに手渡しながら、「楽しんで」と声をかけて、くしゃりと頭を撫でた。
その時のルカの表情といったら——もしレインから見えていたなら、ヒューゴに想いを寄せているなんて考えは吹っ飛んでいただろう。
しかし、この准教授が知っているルカは、「僕の好きなビールだ!彼の気遣いにはいつも驚かされるよ」といつものようにヒューゴを賛美するベーシストだけだった。
「俺、まだ勤務中なんだけど」若干の不満が声に滲む。
「いいでしょ1本くらい」
「ここがオランダやドイツならな。日本の会社は駄目」
「オーストラリアも駄目だけど。でもレインはオランダ人でしょ?なら、レインがいる場所をオランダとして……」
「ただの教員の俺に治外法権が適用されると思ってんのか」
「ムズカシイニホンゴ、分からない」
「ハハ、なんだそれ」
突然カタコトでふざけたルカに、レインは笑いを抑えられなかった。
「で、今日はどこに?海とは違う方向に行っているようだけど」
「海より楽しい場所、とは言えないだろうな。ま、すぐに分かる」
角を曲がると大学通りだ。正面ゲートを抜けると左手にすぐ折れた先が駐車場で、その周辺に研究棟が配置されている。
レインは朝と同じ場所に再び車を停めて、大股で助手席側へ回り込んだ。外からドアを開いて、やや呆然としているルカに降車を促す。
「ここって……?」
「俺の職場」そう言いながらレインは後部座席からベースを引っ張り出し、肩に背負うと大股で歩き始めた。
「ついてきて」
「でも、いいの?部外者の僕が入っても」ルカが小走りで追いつく。
「構わない。まず腹ごしらえだ。俺のオフィスでいいな?」
「もちろん!嬉しいよ、職場を見せてくれるなんてさ」
レインが一拍、息を呑んだ。
「……喜んでもらえるとは思わなかった。だから黙って連れてきたんだ」
「そう?すごく興味がある。でも連れてけなんて言えないから遠慮してたんだ」
「……興味?俺の研究にか?」
「研究……ね。そりゃ、分かるように話してくれたら興味を持つかもしれないけど。興味があるのは……なんていうか、レインにさ……学校ではどんな風なのかなって。店や海ではしゃぐレインも知ってるけど」
俯き加減でそう伝えてくるルカの長い睫毛に、レインは束の間、目を奪われる。
「……そうか。分かった。後で構内を案内する。研究室も、食堂も、全部」
「やった!楽しみだよ、ドクター……」
「ファン ダールだ。英語圏の君ならヴァン デイルの方が馴染みやすいかもな」
「Van Dale? ダールのレインって意味だよね」ルカは綴を確認しながら言った。
「ノルウェーにDaleという場所があるが、俺の家系との関係はわからん。バイキングだった先祖が勝手に名乗ったんじゃないか」
ルカはつま先から頭までわざとらしくレインの巨躯に目線を走らせた。
「その体型は、北海の島々を荒らし回った名残ってことか。それにしても、Rein of Daleなんてかっこいい響きだね」
レインは鼻で笑い、隣に並んで廊下を歩く痩身の若者の背中に軽く手を添え、ほんの僅かながら、引き寄せた。
「そうかな。でも俺は……構内であっても君には名前で呼ばれたい」
「……周りに職員や学生がいても?」
「ああ」
「僕がこっそり教室にいて、変な質問を投げかけるときも?」
「ああ。それに変な質問など無い——」
「あるのは愚かな答えのみ」
この有名なフレーズの後半を引き取って言ったルカに、レインはしっかりと頷いた。
「そうだ」
「あまり先生っぽく見えないのに、ちゃんと先生なんだね。聞いてみたいな、レインの授業」
「いつでも歓迎するよ。——ここが俺の部屋だ」
レインは自分のオフィスの前で立ち止まった。解錠し扉を開くと、添えた手を押すようにしてルカを中に促した。
「教授の部屋なんて初めて入る」
「准教授だ」
「同じようなものでしょ」
ルカが部屋を見渡しながら、本や書類でいっぱいのカフェテーブルの上にかろうじて隙間を見つけ、ランチ入りの紙袋を置いた。ソファは2客あるが、来客があるとは思えなかった。応接スペースというよりかレインの読書スペースのようだ。
レインは今始めてその事に気がついたようで、急いでテーブルの上の雑多な書籍をかき集めてその辺りに移動させる。
「本当にまだ仕事中なの?授業はもう無いんでしょ」
ルカが言わんとしていることは明白だった。
「終わりのない仕事なもんでね。まあ、授業と論文の締め切り以外は、自分次第で動けるのがいいところだ」
「じゃ、今日はもう終わり。飲んじゃおうよ。せっかくヒューゴがくれたんだしさ」
「……わかったよ。ん?これ、アルコールフリーだぞ」
「ほんとだ。ボトルのデザインがほとんど一緒だから気が付かなかった。それにしても、ヒューゴは気が利くね」しげしげとボトルに貼られたシールを見ながらルカが感心の声を上げる。
元より、午後は畑仕事以外するつもりはなかったが、ルカ次第のところはあった。ルカが気に入らなければ、すべて取りやめていつもの仕事に戻るつもりだった。
レインはソファから立ち上がると、ドアに鍵をかけて再び着席する。
カキン、とボトルが重なる小気味良い音がオフィスに響く。二人は同時に喉を潤した。
ランチはアルミホイルで包まれた極太のブリトーで、端から零れそうなほどのワカモレの緑が鮮やかだ。
「ずいぶん用心深いんだね」
「ノックせずに突然入ってくる学生達に悩まされているんだ。普段ならまだしも、昼間っから飲んでると誤解をされたくないんでね」
「ノックしないなんて、あるの?」
「ああ、しょっちゅうだ。『失礼します』と言いながらもうドアを開けてる。ここの教授曰く、日本の家屋にドアが普及したのが近代だから、ノックをして返事を待つという常識がまだ無いそうだ。とはいえ、社会人になるとビジネスマナーとして教わるし、更衣室などの ”あらかじめ鍵が掛かっていると分かっているドア” に関してはノックするらしい」
「それにさ、日本の家ってオートロックじゃなくて驚いたよ。初日、知らなくてそのまま出かけちゃって。ホテルはオートロックなのにね」
レインは頷いた。「常々思うよ、不思議な区別がある国だと」
「僕はこういう些細な違和感を面白いなと感じるんだ」
「そうだな……これまで、埋もれてしまうのが、惜しいような発見が?」
「うん。いくつかあるよ。気付いたことを日記に書いてる」
「几帳面なんだな」
「意外かな?母親からのアドバイスで始めた。歌詞を……ごくまれにだけどさ、曲ができた後に歌詞をつけたくなることがあって、その時にパラパラとめくってみると、いい言葉が思いつくんだ」
「ああ、きみの歌……メロディとよく合っている」
「この曲は特に眠れるんじゃないかな」とルカは海で思いついたメロディを口ずさむ。まだ制作途中だ。
「どうしてそう思う?」
「だって、レインと一緒に居る時に降りてきたメロディだから」
からかい口調で満面の笑顔を向けられ、レインは顔を伏せた。
「なるほど……そういう理屈か。眠るためだなんて、正直、悪いと思ってるんだが……」
「まさか。役に立てて光栄だよ」
ルカの指にべったりと付着したチリソースを見て、レインは席を立った。手近には器具を拭くためのウェスしかなかったが、無いよりはマシだ。
「ありがと」
ルカはまさに舐め取ろうとしていた指先をウェスで拭った。続けて唇についたソースも拭おうとして、レインに手を抑えられる。
「唇が荒れる」
端的にそう言いながら、レインは親指の腹でルカの口の端を拭った。ほんの一瞬、指先の赤い液体を眺め、自らの口で舐め取った。
「ちょ、レイン……!」
「俺のにはチリソースが入っていないようだから」
「入ってるよ!僕とは反対側から食べてるから、たどり着いてないだけ」
ルカがこしらえた極太のブリトーは具材の多さだけでなく、ソースもたっぷりだ。半分がサワークリームソース、残りはチリソースで味を変えるという凝りようだった。
「そりゃ失礼。美味いよ、すごく」
ルカはブリトーを飲み込み、「ヒューゴに習ったから」と早口で言った。
「ヒューゴ、ね。ずいぶん熱心なんだな」
言わずにはいられなかった。言葉に棘が含まれないよう細心の注意を払ってでも。
「あんなに旨いもの作れる人、他に知らないし。でもさ、今日はレインの一日アシスタントとして頑張るよ!」
「……アシスタント?」
「大学につれてきたのは人手が足りないのかなと」
そこでレインは、はたと手を止めた。
「正しい推測だ。ただ……ここじゃないんだ」
ルカは食事の手を止めて小首を傾げた。
「自宅に、ちょっとした実験の場を作った。ルカに手伝って欲しいのはそこでの計測だ。それにはまず——俺の職場や、研究室を見てもらう必要があると思ったんだ」
「来られて嬉しいけどさ、どうして?準備が必要だとか?」
「いや、そうじゃない。ただ、突然自宅に呼ぶなんて……警戒されそうで」
途端にルカの明るい笑い声がオフィスにこだまする。
「警戒だって!?アハハ、そんなのあるわけねぇじゃん。生徒ならまだしも、友達同士なんだし。それに教会の方にはよく出入りしてるってのに」
ぐ、とレインの喉が絞まる。
「分かった。言い換える。理解を深めてもらうために来てもらった」
レインは敢えて、『何に対する理解か』を明言しなかった。それは自分の中で明らかだが、相手に伝えてしまえば、かえって警戒を生むからだ。
「ふーん」とルカは喉を鳴らした。歌声のように、軽やかに。
「どんな実験なの?」
「向こうで説明する。さて、食い終わったなら、そろそろ学内へ行くぞ。まずは——」
「カフェテリア!あるでしょ?コーヒー飲みたい」
レインは小さくため息をついてソファから立ち上がった。「あまり期待しないほうがいい」
「コーヒーならなんでもいいよ」
ルカに背を押されるようにしてカフェテリアに着くと、まばらに居る学生たちから一斉に視線を浴びる。注文カウンターでカプチーノとブラックコーヒーを買い求めている間は特に、背中に無遠慮な視線の矢を感じ取った。
ルカは一向に気にしないのか感じ取っていないのか、「日本だったら大学のごはんも美味しいのかなあ」などと能天気に辺りを見回している。
「今度、食べに来てもいい?」
「……」
「いい?」
「わかったよ。連れて来る。——行くぞ」
レインは片手に紙カップ、もう片手で要所を指し示しながら構内を案内する。
吹き抜けの冷気、薬品庫のほのかな匂い、遠くでインキュベーターのファンが低く唸る。
オフィスフロアに戻り、自分の研究室のドアを押すと、静寂がふっと形を変えた。
かさこそ、と水槽の向こう側でわずかな生命の摩擦音。透明アクリルの覆いの下、乾いた葉と枝の迷路が微かに揺れる。
「ん?何の音?」
さすがミュージシャンだけあり、ルカは耳の向きだけで発生源を捉え、ためらいなく水槽のカバーへ手を伸ばした。
「待て——」
制止は半拍遅かった。カバーが持ち上がり、薄暗がりの中で無数の平たい影がするりと動いた。
「うわっ」
ルカが肩を跳ねさせ、カプチーノがカップの縁から一滴、床に落ちる。
レインは苦笑を喉の奥で潰し、肩をすくめた。
「……遅かったか」
「こ、こ、これって」ルカは昆虫の名を口にするのも嫌だと言う風だ。「ここで飼ってるの!?ペットみたいに!?」
「まあね。博士課程の学生が実験に使っているんだが、実験室は寒すぎるからね」
「同じ部屋でよく過ごせるね」
「かわいいんだがなぁ」
「どこが?」
ルカの即答が嫌悪感を物語るが、目は離されていない。嫌悪と好奇心の境目で揺れているようだ。
「こいつらは家で出るタイプじゃない。熱帯林に住む種類だ。主食は果物で、臭いも無い。一見の姿はグロテスクでも、害はない」
「その姿が問題なんだよ」
「見た目は、たいてい誤解だ」
平然と覆いを戻し、手近のウエスで床の一点を拭う。指先にわずかな熱。
ルカは苦虫を噛み潰したような笑いを浮かべ、さっきの跳ねた肩をすくめた。
その揺れを視界の端で拾い、喉に軽い締付けを感じる。
——来い。
その一言は喉まで上がって、言葉になる前に堆積した。背中を撫でて落ち着かせてやりたかったが、代わりに出たのは、研究者の顔に貼り替えた事務的な声だ。
「別のラボも見に行こう」
レインは無表情で言い、ポケットの中の鍵束を指先で確認した。
ルカはドアの方へ歩き、ふと振り返った。
「さっきの、カワイイは撤回しないんだ」
「しない」
「頑固」
「事実だ」
「へぇ」
廊下の気流が、ルカの黄金色の髪をかすかに揺らす。
研究棟の中心部分にある正面玄関を左手に通り過ぎると、もう一つの生物学研究室がある。ラボが異なるため、そこの主宰である教授も異なる。
レインの実務的な上司である教授は昆虫学を専門とするベテランで、レインのオランダの母校と交流が深い。もう一つのラボの主宰は50代半ばで、確か生理学が専門なはずだ。こういった場合お互いをライバル視することが多いが、両教授共に気さくな性格で、ラボ間での情報交換も活発だ。
実験室の重い扉を開くと、その風圧が穀物を砕いたような異臭を運んでくる。
不快ではないが、ルカは反射的に顔を上げて「何のにおい?」とレインの背後に身を潜めた。先程の昆虫のショックで、警戒レベルを上げているようだ。
「ここには、もっとかわいいのがいる」
「……まさか」
「ハハ、そんなに怯えるな」
ほとんど腕にしがみつくようにしているルカを後ろに、実験室の奥まで歩みを進める。また扉があり、その手前のデスクには院生らしい学生が二人に笑顔を向けている。
「ドクターファンダール、見学者がいるとは珍しいですね」
「ああ、外部から実験の助手に来てもらった。本業はミュージシャンだ。さっき俺のラボで ”あいつら” を見てすっかり怯えてしまってね。口直し……いや、目直しのために連れてきた。見せてあげてくれる?」
「もちろんです。一昨日、子供が生まれたばかりのケースもありますよ。さ、どうぞ」
学生は扉を開いて、ルカを先に促した。
途端に、「うわあ!」と歓声が上がる。
「か、かわいい!!すごくいっぱいいる!!」
壁の両側には大きなスチール製の収納棚があり、そこに2,3匹ずつ分けられたジャンガリアンハムスターの飼育ケースがずらりと並べられている。
「全部で何匹いるの?」
「500以上かな。頻繁に生まれるから、もうあまり数えていないんだ」答えたのは学生だ。「ほら、ここ。一昨日生まれたばかりで、まだ目も開いていないんだけど、かわいいでしょ」
「うん、初めてみたよ。君がお世話しているの?」
「ラボのみんなで持ち回り。隣の部屋にはもう少し成長した子たちがいるんだ。もう実験には使用していないグループだから、ただ飼っているだけなんだけど」
「ほら、ここにも」
背後から囁かれ、ルカは反射的に首をすくめた。
低くかすれたレインの声は、ルカの身体をいつも震わせる。普段は何事もないように平常を装うことができているが、髪に息がかかるほどの距離はさすがに刺激が強すぎる。カッと首周りに熱が登る。
「あ、う、うん」
収納棚にしがみつくようにして、ルカは身体に力を込めて態勢を立て直した。しかし、狭い部屋のせいでレインはルカの後ろから覆いかぶさるようにして「かわいいよ」と上部のケースを指差すものだから、さらにルカの熱は上がる。
「幼体が4,5……6匹」
「ほ、ほんとだね」
「ん。この時期はネオネイトという。俗に言えばピンキーだ」
「ピンクと言うより真っ赤だけど」身体のほてりを悟られまいとするあまり、少し冷たく響いてしまう。
「確かにな。気が済んだら行くぞ」
「う、うん。ありがとう」ルカは案内をしてくれた学生にピョコンと頭を下げた。
その動作のおかげで、身体の熱は少しはがれてくれたが、神経は先に部屋を出るレインに集中している。
レインも学生に礼を述べ、ハムスターが詰まった小部屋を出る。
実験室は広く、中央に金属製の円形をした装置がドンと置かれ、その周辺はモニターやPCに繋がるケーブルが張り巡らされていた。
それらを横目に、ルカは一歩先を歩く准教授に声をかける。
「ね、また見に来てもいい?」
「もちろんだ。いいな?」後半はデスクに戻った学生に向けての確認だ。
「いつでも来てよ。ドクターが居ない時は、外の呼び鈴を押して。中から開けられるから」
ルカは様々な機器類に好奇心を駆られたが、質問は次回に回して、今はレインの後を追った。
正面玄関を出るとすぐに職員用の駐車スペースだ。
ドアが無言で開かれ、助手席に滑り込む。少しだけ心が浮ついた。
「陽が傾く前に始めよう」
レインのつぶやきと同時にエンジンが掛かった。
「僕のこと、実験の助手だと紹介してたね」
「ああ、何か問題でも?」
「ちゃんとミュージシャンだって言ってくれて嬉しかったな。ありがと」
「事実を述べたまでだ。礼を言われる覚えはない」
「だってまだ、セミプロってところだし」
レインはルカの控えめな発言を鼻で笑った。
「じゃ、俺の専属の催眠術師、と訂正しておくよ」
「怪しすぎるよ!せめて、専属音楽セラピストとか、言いようがあるでしょ」
運転席から、低い唸り声が上がる。ルカの鋭さに感心したのだ。
「……意外だが、的を射ている」
「意外もなにも、僕の歌を聞いた日は眠れるんでしょ?だったらセラピー効果だね。これは『事実を述べたまで』だよ」
思い切り低い声と硬い口調を真似たルカに、今度は不満の唸り声。
「そんな話し方では……」
「いーや、似てたね。声はもっと低いけど」
レインは黙り、口角だけで笑った。ルカに言いくるめられるのが、楽しくて仕方がないといった風だ。
車は教会の正面から敷地内に入った。脇を抜け、裏側へと進んだところで停止する。
青い壁の木造家屋は、小ぶりながらどっしりとした佇まいだ。
玄関先のポーチに絡むバラがよく茂り、白い柱とのコントラストが美しい。オマかレインの母かはわからないが、丹念に育てていたのを彼が引き継いだのだろうとルカは推測した。
「来い。今日は秋なりの野菜を植える」車を降りるやいなや、レインは大股で家屋のさらに裏側へ回り込む。
無造作に雑草が抜かれた庭の先に、何も植えられていない花壇が見える。
「この辺りにカブとブロッコリー置くといい。秋はこっちが走る。四季成りのイチゴも手に入った」
ルカが目を丸くする。「四季なり?」
「一年を通して実がなる。秋に仕込んで、来春まで繋ぐ。温室を使えば日本の冬でも持つ。ほら、そこに」
レインは早朝に設置したばかりの簡易温室を顎でしゃくった。
「簡易なビニール製で温度調節機能はないがな。だが軽い。温度が上がりすぎるようなら日陰へ移動できる」
「イチゴ、好物なんだ。楽しみ……って、僕が食べるわけじゃないか」
「いや、全てきみのだ。ここで育ててほしい。何でも植えてくれてかまわない」
「え……実験は?」
「する。育成過程でな。だから、果実はルカが好きにしていい」
「なんだか得しちゃったな。ところで、どんな実験なの?僕でもできる?」
「糖度の計測をする。トマトはたくさん実ったし美味かったが、俺はデータが欲しい」
「データ?」
「果実や野菜が甘くなるかどうか。歌声やベースの低音でどう変化するのか。音の条件は前と同じ。15分。無理はさせない。君にも、植物にも」
ルカは笑う。「僕にも?」
「歌い過ぎは喉を壊す。弾きすぎて指を傷つければステージに響く」
言いながら、レインは温室の出入口を指で確かめ、ファスナーの滑りを直す。
「やってくれるか?」
「当然!……でも、本当にいいの?僕はピアノも弾かせてもらっているし、それにレインから野菜作りを教わるなんて……」
ふ、とレインの表情が和らいだ。
「こう考えるといい。ルカのお陰で母のピアノが生き返ったんだから、教会を練習の場として好きなだけ使う権利はきみにある。実験に関してはピアノやバイトのついでにやってくれればいいんだ。大学は距離があるが、ここなら通り道だろう」
「うん。毎日通る」
「じゃあ契約成立だな。実験助手の報酬は実った野菜や果物と……ほら、」
レインが鈍く光る何かをルカに向かって投げた。反射的に受け取ったルカは目を丸くした。車のキーだ。
「サーフィン、やってたんだろ。好きな時に使っていい」
「そんな!車まで借りるなんてできないよ!」
「俺はバイク通勤だから気にするな」
「……海は、レインと行く。それに僕は音楽修行中なんだ。サーフィンはやりたいけどさ、遊んでばかりじゃここに来た意味がないから。レインが空いている時間に、一緒に行けるくらいがちょうどいいんだ」
「そうか……わかった。では、キーは教会のオフィスに置いてといてくれ」
ルカは頷き、頬をゆるめる。
「ありがとうレイン。あのアパートじゃ楽器は弾けないし、練習スタジオも安くないから、本当に助かるよ」
「……実験のためだ」
科学はいつだって便利だ。そこに感情を隠せる。
「優しいね、レイン」
レインは、ルカから向けられる感謝の視線を、横顔で受け止めた。
——こんなのは偽善だ。
——店から離せ。ヒューゴの時間と重ねるな。
無意味だと分かっている。
だが思考は勝手に最短距離を弾き出す。ここなら彼は来る。ここでなら、彼の声がもっと近くなる。
ここが君の居場所になれば——
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